遠く離れて
その冬は例年になく冷え込み、その為か、質の悪い風邪が王都に蔓延した。
殆どの者はそう大したことにはならなかったのだが、小さな子どもや年寄りなど体力のない者にはかなりの被害が出てしまった。
アルベルクもまた、その一人だ。
十日間生死をさ迷ったのち、どうにか快復した彼は、更に三日後、リリアーヌが王都を離れたことを知らされた。
「リリアーヌが、王都を……」
彼女と会えないのだと思ったときに受けた衝撃の強さに、アルベルクは驚いた。リリアーヌとのひと時は、思っていた以上に彼にとって大きなものになっていたらしい。
「アルベルク様、ブランシュ嬢からこちらをお預かりしています」
そう言って、ロジェが一葉の封書を差し出した。
淡い菫色のそれを受け取り、アルベルクは表に書かれた自分の名前を見つめる。まだ九歳の彼女が綴った字には、淑女たらんと背伸びする中に残る幼さが垣間見えた。
アルベルクは小さく微笑んで、封を開ける。
『アルベルクさま』
頭に書かれた自分の名前に、銀の鈴が転がるような声が、耳によみがえった。
最後に会ってからまだひと月も経っていないのに、あの声を、もう、ずいぶんと長い間聴けていない気がする。ため息をこぼしかけ、アルベルクは気を取り直して先を読む。
『お加減はいかがでしょうか。リリアーヌも一度少しだけお熱が出ましたが、今はすっかり元気です。
アルベルクさまはお食事を召し上がっておられますか? リリアーヌは早く元気になってアルベルクさまにお会いできるようになりたかったので、あまり食べたくなくても頑張って食べました。アルベルクさまも頑張って召し上がって、早くお元気になってください。
リリアーヌは少しの間、アルベルクさまのお傍を離れることになりました。アルベルクさまがお元気になられたら、帰ってこられるそうです。ご挨拶したかったのですが、今はお加減が悪いからダメだと言われてしまいました。
リリアーヌはアルベルクさまにお会いしたいです。また、ご一緒にお散歩をしたり、お話をしたり、ご本を読んだりしたいです。
お会いできる日を、心待ちにしています』
リリアーヌは、アルベルクと過ごす日が再び訪れると――それが叶うと信じているのだろう。
このカルヴェ国の中で、彼が快復すると信じていた者は、いったいどれだけいたのか。父母でさえ、危ぶんでいたに違いない。
アルベルクは丁寧に便箋をたたみ、封筒にしまう。
他の誰が信じていなくても、リリアーヌだけは信じてくれている。それが真っ直ぐに伝わってきて、目の奥がジンと熱くなった。
「早くお元気になりましょう」
ロジェの言葉にアルベルクは深く頷く。
(僕が治りさえすれば、また、彼女にも会えるようになる)
寝込む前までは、あれほど体力もついてきていたのだ。きっと、またすぐに元通りになれる。
――そう思っていたアルベルクだが、やがて現実の壁を知ることになる。元が虚弱な身体は、なかなか動けるようにはならなかったのだ。
病を食らう前はリリアーヌと庭を歩けるほどになっていたというのに、今は身を起こすこともままならない。枕に背を任せ、寝ているような座っているような姿勢を保つのがやっとだった。終始うつらうつらと居眠りをし、かろうじて目覚めていられるのは食事と薬を摂るときくらいだ。その食事も、出された量の半分も食べられない。
(リリアーヌだって頑張って食べたと書いていたじゃないか)
アルベルクは歯を食いしばる。
しかし、いったんはどうにか胃に収めることに成功しても、半分以上戻してしまうのだ。
「アルベルク様、あまりご無理はなさりませんよう」
ロジェに宥められても、口惜しさが増すばかりだ。
四つも年下の少女が彼に会いたいからと頑張ってくれたのに、どうしてこうも自分の身体は情けないのか。
三歩進んでは二歩下がるを繰り返し、それでも一日の半分ほどは目覚めていられるようになった頃、気づけば、最後に彼女と会ってから、もう半年は経っていた。
アルベルクは、ロジェにリリアーヌのことを尋ねてみた。彼女は会いに来ないのだろうか、と。
リリアーヌから毎週届く手紙の返事に、アルベルクは少しずつ良くなっていると書いていた。リリアーヌのことだから、そろそろ会いに来そうなものだ。ブランシュ公爵領領主館があるルノワから丸一日かかるとはいえ、来られない距離ではあるまい。
だが、アルベルクの問いかけに、ロジェの顔が曇る。
「それは……」
「?」
口ごもるロジェに、アルベルクは眉をひそめる。そして、ハッと嫌な考えに行き当たった。
「まさか、本当は、あの子も病に……?」
手紙が書かれた後、何かあったのではないか。
血の気が引いた主に、ロジェが慌ててかぶりを振る。
「いえ! 違います!」
きっぱりと否定した後、また、歯切れが悪くなる。
「ブランシュ嬢は、フルールに行かれました」
ロジェの言葉に、アルベルクは思わず声を上げる。
「フルール? ルノワではなく?」
それは、広大なブランシュ領の中でも最も王都から離れた地域のはずだ。北の隣国との境ではあるが、深い森と険しい山が天然の防壁となっており、ある意味、カルヴェ国で一番安全な場所ともいえる。
だが、恐ろしく田舎だ。辺境と言ってもいい。
「何でそんなところに」
王都に蔓延する病から遠ざける為なら、もう少し近場でも良かったはずだ。
ロジェを見れば、気まずそうな顔をしていた。その表情で、アルベルクは気づく。
(ああ、そうか。僕の生死がどうなるか、判らなかったからか)
リリアーヌは、『王太子妃になる娘』だ。
そして、今のところは、アルベルクが彼女の婚約者だ。
だが、かねてから、病弱な彼は世継ぎに相応しくないと考える者が少なからずいたのだ。健康で闊達なフェリクスの方が、王に相応しい、と考える者が。
アルベルクが生きるか死ぬかという事態となって、フェリクス派の者たちがいよいよざわめき出したのだろう。リリアーヌの婚約者にすれば、フェリクスが王太子となる可能性は格段に上がる。病ではなく、そう考える者らを近付けない為に、彼女をフルールに『隔離』したのだ。
アルベルクとリリアーヌの婚約は王が決めたことだが、それを覆そうとする者が少なくないのだろう。
あるいは。
「さすがに今回のことで父上も僕を見限ったか?」
もしもそうだとしても、アルベルクは、嗤うしかない。
「そんなことは! 王はアルベルク様のご快癒を心待ちにされておられます」
ロジェはいつもの彼らしくなく大きな声で否定したが、確かな気持ちでそう言ってくれるのは、きっと、この忠実な侍従くらいのものだろう。
リリアーヌが次に王都に帰ってくるのは、アルベルクとフェリクスのどちらに彼女を与えるのかが決まった時か。
――アルベルクさま。
彼の名を呼ぶ弾むようなあの声が、自分のものではなくなる。
それは嫌だと胸の内で叫びながらも、頭の片隅には常に諦念が居座っていることを、アルベルクは自覚していた。




