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約束

 毎朝恒例の侍医の診察を受け終え、アルベルクは固唾を呑んで彼の言葉を待つ。


「今日もお会いになられても良いでしょう」


 その台詞に胸の中でグッと拳を握ったアルベルクに、侍医がフッと口元を綻ばせた。

「最近はずいぶんとお元気そうですな。ブランシュ嬢が良いお薬になられているようで」

 ほんのり笑みを含んだ眼差しを向けられ、アルベルクは頬を赤らめる。まさにその言葉通りなのだが、だからといって、頷くことはためらわれる。

 うまく返せないアルベルクを助けてくれるのは、いつも忠実なる侍従だ。


「先生、あまりおからかいにならないように」

 ロジェにたしなめられて、侍医はニヤリとする。

「こりゃ失敬。お元気な様子が嬉しくてな。まあ、お邪魔虫はさっさと退散することにしましょう。ブランシュ嬢がお待ちですものな」

 そう言って、パチリと片目を閉じて、侍医は部屋を出ていった。


「まったく、あの先生は……」

 ロジェはブツブツとこぼしてからアルベルクに向き直る。

「でも、実際、先生のお言葉通りです。最近はお食事もほとんど全部召し上がっておられますし、夜も良くお休みになられているでしょう?」

「ああ」

 アルベルクは頷く。

 リリアーヌと出会ってから、アルベルクの日々は確かに一変した。一番大きく変わったのは、彼の気持ちなのだろう。考え方が変わったから、日々も変わったのだ。


 以前の彼は、元気になることを諦めていた。

 無駄な足掻きだ、意味がない、と、最初から何もかもを放り出していたのだ。

 アルベルクのことを案じて遠巻きにして腫れ物に触るような扱いをする父や母、家臣たちに対して、どうせ、誰も自分には何も期待していないし何も望んでいないのだから、とそっぽを向いていた。そういう彼だったから、周りはいっそう距離を取るようになったというのに。


 だが、リリアーヌは違った。

 アルベルクが虚弱なことなど、些細なことのように接してくる。

 毎朝王宮にやってきて、侍医の許可が下りずに会えなくても、「じゃあ、また明日」と言って帰っていくだけだ。

 その『普通さ』が、アルベルクにはとても嬉しい。


 できる限りリリアーヌに会いたいから、食わず嫌いだった食事をできるだけ残さず摂るようにした。

 明日はリリアーヌと何をしようと考えながら眠りに落ちると、夜中に何度も目を覚ますようなことがなくなった。

 リリアーヌと会うようになって、初めのうちは五日、七日に一度だったものが、三日に一度になり、今では連日会うこともできるようになっていった。もう、寝台の上だけで一日過ごすことも、めっきり減っている。

 部屋に入ってきたときのリリアーヌの輝くような笑顔が、アルベルクにとって何よりの薬になった。

 彼女のことを想うだけで、胸の奥がふわりと温かくなるのだ。


「では、ブランシュ嬢をお連れしますね」

 見上げると、ロジェが柔らかな表情でアルベルクを見つめていた。ロジェもまた、以前よりも雰囲気が穏やかになったような気がする。きっと、アルベルクのことで気を張らさせていたのだろう。

「ああ、頼む」

 頷くと、ロジェはニコリと笑って部屋を出ていった。


 ややして。


 軽く扉が叩かれる音がする。


「どうぞ」

 応えれば、静かに扉が開かれた。

 アルベルクを一目見て、瞬間、リリアーヌがパァッと顔を輝かせる。が、すぐに澄ました顔になって、ドレスの裾を摘まんできれいなお辞儀を披露する。

「おはようございます、アルベルクさま」

 リリアーヌは、いつもこんな感じだ。

 礼儀作法のことさえなければ、即座に駆け込んできてしまいたいのだろう。

(別にそれでもいいのに)

 そう思いながらも、懸命に淑女であろうとする彼女も可愛らしく、アルベルクはつい綻んでしまいそうになる口元を引き締める。


「おはよう、リリアーヌ。今日は何の本を持ってきたんだい?」

 そう水を向けると、あっという間にリリアーヌの澄まし顔の仮面が剥がれ落ちる。

 彼女はタタッと長椅子に座るアルベルクに駆け寄ると、抱えていた分厚い本を両手で差し出した。

「こちらはずっとずっと東にある国のご本です。島が丸々一つの国なのだそうです。絵もたくさんついていて、お食事も、お洋服も、何もかもが全然違うのです」

 菫色の瞳を星のように輝かせて熱弁するさまが、とても愛らしい。

「すごいね。一緒に読ませてくれるかい?」

「はい!」

 リリアーヌは頷き、ストンとアルベルクの隣に座ると、彼の膝の上に本を置いた。


「リリアーヌが一番興味を引かれたのはどこ?」

 尋ねると、リリアーヌは待ってましたとばかりにしおりを挟んでいたところを開く。

「ここです。お食事のところです。この国では、お魚を焼いたりしないでそのままで食べるのだそうです。島国で海が近いから、獲ってすぐに食べられるからなのだそうです。カルヴェでは絶対お腹が痛くなってしまいますよね」

「そうだね。でも、生で食べるなんて気持ち悪くない?」

 眉をひそめてみせたアルベルクに、リリアーヌは生真面目な顔で答える。

「アルベルクさま、何でも挑戦です。はじめの一歩がなければ、どこにも行けません」

 いかにもリリアーヌらしい返事だ。

「確かに、その通りだね」

 微笑みながら頷くと、リリアーヌも花がほころぶように笑った。と、無意識なのだろう、床についていない足をぶらぶらと揺らす。


「リリアーヌは、この国の言葉も覚えたいです」

「ずっとずっと遠くの国なのに?」

「はい」

 リリアーヌは、すでにカルヴェ国の言葉以外に、近隣三か国語を話すことができる。アルベルクは、全然だ。

 出会って、二年。

 その二年間は、それまでの十年間とは全く違っていた。アルベルクは本を読むようになり、体調が許す限り様々な分野の学士の教えを受けた。

 だが、十二歳のアルベルクは、八歳のリリアーヌに、まだまだ何もかもが追い付いていない。

 正直、情けないとアルベルクは思う。だが、早く彼女に追い付きたいという気持ちが、劣等感を蹴散らした。


「アルベルクさま?」

 呼びかけられて隣を見ると、リリアーヌが小首をかしげて彼を見つめていた。

「何だい?」

「リリアーヌが大人になったら、アルベルクさまとこの国に行ってみたいです」

 アルベルクは、ハッと息を呑む。

 リリアーヌにとっては、アルベルクはろくに寝台から出られない軟弱者ではないのだ。遥か遠くの国へ行く約束ができる相手なのだ。

 アルベルクの喉元に、何かがせり上がってくるような気がした。それを呑み下す。

「――そうだね。一緒に行こうか」

 微笑み、頷いたアルベルクに、リリアーヌが満面の笑みを浮かべる。

「約束です。生のお魚、食べましょうね!」

「何事も挑戦、だね?」

 リリアーヌが力強く頷く。

「はい!」


 リリアーヌといれば、それも叶う未来なのだと、アルベルクは信じられた。


 ――それから一年後、彼が病に伏すまでは。


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