小さな花は凛と咲く
アルベルクがリリアーヌ・ブランシュと初めて顔を合わせたのは、彼が十歳、彼女が六歳の時だった。
ブランシュ公爵家は代々宰相を務めており、財力も王家に勝るとも劣らない。権力財力ともに他の貴族の追随を許さないその家に生を受けた時から、リリアーヌは王太子妃になることが決まっていたようなものだ。
彼女を得る者が次の王となると言っても、過言ではない。つまり父王は、リリアーヌをアルベルクの婚約者にすることによって、言外に彼が王太子だと知らしめたのだとも取れる。
金髪に青や緑の瞳がもてはやされる貴族の中では平凡な、焦げ茶色の髪に菫色の瞳。
可愛らしくはあるけれども、長じて絶世の美女になるだろうとは言えない容姿。
それが、リリアーヌ・ブランシュだ。
だが、リリアーヌ・ブランシュは、ただ、『ブランシュ公爵家の』リリアーヌであればいいのだ。どんな見てくれをしていようとも、どんな中身をしていようとも、きっと、誰も気にしない。
初めて顔を合わせたとき、ただ、ブランシュ家の娘であるということだけの価値しかないように思われたリリアーヌを、アルベルクは人形のように親の言うなりになるだけの子どもなのだろうと、思ったのだ。彼が自分自身に価値を見いだせないのと同様に、彼女も吹く風に揺られるだけの存在なのだろう、と。
「こんにちは、リリアーヌ」
そう切り出したものの、四つも年下の子ども相手に何を話したらいいのかなんて、さっぱり判らない。そもそも、アルベルクは、滅多に人と言葉を交わすことがないし、あったとしても、殆ど社交の場に姿を現さない彼と交わす会話なんて、形式的なものばかりだ。
役立たずであろうとも、仮にもアルベルクは第一王子だから、彼に接する人は皆おもねる。お仕着せのような笑顔を浮かべ、耳に心地よいことを口にする。
リリアーヌもそうなのだろうと、アルベルクは思っていた。
意思のない人形は、教えられた動きしかしないのだろう、と。
だが、違った。
「はじめまして、アルベルクさま」
物怖じすることも媚びることもなく真っ直ぐにアルベルクを見て浮かべた笑みは、花が綻ぶように温かだった。それは、彼が今まで見たことがない、笑顔だった。
戸惑いと困惑、そして、そのどちらとも違う奇妙な胸のざわめきのせいで、つい、口から憎まれ口が転げ出してしまう。
「君も僕の婚約者にされるなんてとんだ貧乏くじだな」
リリアーヌは大きな目をキョトンと見開いた。意味が通じなかったのかと思ったが、違った。
「何かいけないのですか?」
返ってきたのは心底からいぶかしげな問いかけだ。
どうやら大人たちは何も伝えないまま、リリアーヌを彼のもとに送り込んできたらしい。まだ子どもだからと軽んじたのか、それとも、この関係が長いものにはならないと思っているのか。
(後者かな)
結局、本気でアルベルクのことを王太子とみなしたわけではないのだろう。
自嘲し、一層皮肉な気分になる。
「僕のことを何も教えられずにきたのか。僕は、何もできない、役立たずの王子なんだよ」
と、リリアーヌの可愛らしい眉が寄った。そうして、アルベルクの言葉を繰り返す。
「何もできない?」
「ああ」
アルベルクは肩を竦めて投げやりに頷いた。
こんなことを言ったところで、六歳の子どもにはきっと理解などできないだろう――そう高をくくっていたアルベルクに、しかし、澄んだ声が返ってくる。
「リリアーヌはアルベルクさまのことを何もできない方だとは思いません」
きっぱりとした口調で言われ、アルベルクはグッと奥歯を食いしばる。何も解っていない子どもの戯言だと判っていても、苛立ちを抑えることはできなかった。
自分よりもずっと年下の小さな子どもを睨み付ける。
「僕はろくに寝台から下りることもできないんだ」
「でも、目は見えていらっしゃいますし、リリアーヌとこんなにお話もできています」
「何を……」
「リリアーヌはご本をたくさん読みます。そうすると、行ったことがない場所のことも知ることができます。ずっとずっと昔にあったことも、知ることができます。ご本なら、お布団の中にいたって、色々なことを知ることができるのです。リリアーヌは、色んなことを知りたいです。だから、いろんなご本をたくさん読みます」
リリアーヌは目を輝かせてそう言ったが、アルベルクは、本などろくに読んだことがなかった。
(だって、本を読んで知識を身につけたところで使うことがないのだから、無駄じゃないか)
と、アルベルクのそんな不貞腐れた心中を見透かしたかのように、シャンと背筋を伸ばしたリリアーヌが続ける。
「自分がどうなりたいかは、自分が決めることです。なりたいと思う自分に、なろうとすればいいのです。リリアーヌはかしこい人になりたいです。だから、ご本を読んで、おべんきょうをします。アルベルクさまは、どういう人になりたいですか?」
なろうと思えば、なりたいものになれる。
リリアーヌは、そう信じている。信じているから、突き進む。
何の迷いもないその言葉に、アルベルクは頬をはたかれた気分だった。
傲慢にもそう言いきれるのは、幼さゆえか、ブランシュ公爵令嬢という地位ゆえか。
(いや違う)
アルベルクは、微塵も揺らぐことなく真っ直ぐに彼を見つめてくる菫色の瞳を見つめ返した。
ブランシュ公爵令嬢であるということは、関係ない。リリアーヌだからだ。この強さは、彼女自身が持つ矜持がもたらしているのだ。
その時アルベルクがリリアーヌに対して抱いたのは、恐らく、敬意か、限りなくそれに近いものだったのだと思う。
(僕は、『何もできない自分』に甘んじて、何もしようとしてこなかった)
その事実を恥じながらリリアーヌを見ると、目が合って、彼女はふわりと微笑んだ。その笑みに、アルベルトは心臓を握り潰されたような心持ちになる。発作が起きたときに似ているようでいて、全然、違う。発作のようにただただ苦しいだけでなく、胸の奥がくすぐったいような心地良さがあった。
(彼女の隣に立つ者は僕でありたい)
そんな思いが身体の深いところから湧き上がってくる。
それは、何もかもを諦めて生きてきたアルベルクが生まれて初めて抱いた強い願いだ。
アルベルクの半分ほどしか生きていないというのに、彼よりも遥かに確かな自分を作り上げているこの少女に相応しい者になりたいと――そうなろうと、その時、彼は強く心に刻んだのだった。