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別れの時~そんなつもりではなかったのに~

 『その日』が訪れたのは、河辺でのひと時から七日後のことだった。


 夕餉も沐浴も終え、あとは寝台に入るだけとなるそのわずかなひと時、リルとリリィは静かな時間を過ごす。時計の針が一回りもしないくらいの短い間のものだけれども、それは、年を重ねるごとに自由な時間を奪われていくリリィとの、貴重な安らぎの時だった。

 ふたりの定位置は、窓辺に置かれた長椅子だ。

 そこに座るリリィの足元に丸まり、彼女の温もりを感じながらうたた寝をする。まだ小さかった頃はリリィの膝の上にのっていたけれど、今はもうムリだ。大きくなったリルがそんなことをしたら、リリィが潰れてしまう。


 今日は、何となくリリィの元気がないような気がして、リルは長椅子に腰を下ろした彼女の膝に頭をのせる。いつもなら、リルがそうするとリリィは笑ってくれて、リルの毛皮をいじっているうちに、元気になるのに。


「リル」

 初めて聞くような沈んだ声音で名を呼ばれ、リルはリリィを見上げる。

 菫の花の色をした瞳が、今は暗い夕暮れの色となっていて、リルはひげをピクつかせた。こういう目の色の時には、だいたい、困ったことや嫌なことがリリィの中でグルグルしているのだ。


(今日は何? センセイに叱られた? 何か、上手にできないことがあった?)

 首をかしげて見つめていると、リリィがスルリと下りてきた。そうして、床にしゃがんでリルの首に腕を回して、顎の下の一番フカフカしているところに顔を埋める。


(リリィ?)

 楽しい気分の時は、リリィは、リルの毛皮を撫でたり櫛ですいてくれたりする。

 こうやって、彼の毛皮に顔を埋めるのは、何か嫌なことが――ものすごく嫌なことが、あったときだ。

(どうしたの?)

 リルは、ピクリともしないリリィの背中を尻尾で軽く叩く。それでも彼女はしばらく動かずにいたけれど、ややして、ふぅと息をついた。そして、顔を上げ、リルと目を合わせて、告げる。


「王都に行くことになったの」

(オウト?)

 それはつまり、ここからとても遠いところにある、リリィの親が住んでいるところだ。

(森の中? 川の流れの上の方?)

 いずれにしても、リリィと一緒ならリルはどこにだって行く。

(いつ行くの?)

 上機嫌で喉を鳴らしたリルに、リリィの顔が曇る。


「あなたは連れていけないの」

 その言葉に、リルは幾度か目をしばたたかせた。


(連れていけない?)

 理解できずに声を上げたリルの顔をリリィが両手で挟んだ。彼の紅い瞳を覗き込むようにして、含めるように言う。


「あそこは、あなたには窮屈過ぎるの。だから、連れてはいけないわ。でも、できる限りここに帰ってくるようにするから、待っていてね?」

 リリィの言葉が、ジワジワとリルの中に浸透していく。


(オレを置いていくのか!?)

 理解はできた。が、だからといって、納得なんてとうていできやしない。

 唸ったリルを、リリィがギュッと抱き締める。いつもなら、嫌なことがあってもそれでケロリと機嫌を直すことができた。

 けれど、こればかりは無理だ。

 リリィと離れるなんて、絶対、嫌だ。

 いつもなら心地良いだけのリリィの腕も、今は、受け入れられない。受け入れてしまったら、リリィがリルから離れることを受け入れたということだ。それはつまり、リリィを失うということだ。


 リルは身を震わせて、リリィの腕を振り払う。思ったよりも勢いがついてしまって、リリィがストンと後ろに尻もちをつく。

(リリィはどこにもやらない。ずっとオレといるんだ!)

「リル……」

 立ち上がろうとしたリリィが逃げようとしているように思われて、リルはほとんど反射で前脚を伸ばした。

 その時、誓ってもいいが、リルはリリィを傷付けるつもりなんてこれっぽっちもなかった。ただ、彼女を引き留めたかっただけだ。


 なのに。


「ぁッ」


 リリィの、小さな悲鳴で我に返る。

 次いで、血の、臭い。


 リリィの、血の。


(え……?)

 リリィの腕が、紅く染まっている。ボタボタと、紅い雫が絨毯に落ちていく。

(何で?)

 確かに、リリィの腕にすがろうとした。

 置いていかないでと、引き留めようとした。

 ただ、それだけだったのに。

 リルの爪は、『切り裂いた』という感覚すらなく、リリィの柔らかな肌を傷付けてしまったのだ。


(傷付けたオレがオレの爪がリリィを傷付けた違うそんなつもりじゃなかった傷付けるつもりなんかなかった)


 鮮血の色だけがリルの頭の中をいっぱいにして、とにかくそれを止めたくて、彼は傷付いたリリィの腕に舌を伸ばす。


 と、その時。


「リリアーヌ様、今、声が――ッ!」

 刹那、その場にみなぎった殺気に、リルはハッと顔を上げる。迫る刃に気づいたときは、遅かった。

「ギャゥ!」

「リュカ、その子を傷付けないで!」

 肩の辺りに焼けつくような痛みが生まれたのと、リリィの悲鳴が響くのとは、ほぼ同時のことだった。彼女のその声でリュカの切っ先が鈍ったに違いない。そうでなければ、胴体を真っ二つにされていたはずだ。


「チッ」

 舌打ちをしたリュカはカーテンをむしり取り、抗う間を与えずそれでリルの首から下を包み込むようにして拘束した。次いで、手巾で怪我を負ったリリィの腕を縛りながら声を張り上げる。

「コレット!」

「はい!」

 騒ぎに気付いて部屋まで来たものの、戸口の辺りで固まっていたらしいコレットが、リュカに呼ばれて駆け寄ってくる。

「リリアーヌ様の手当を」

 言いながらリュカはリリィを抱き上げ、長椅子の上に横たえた。

「はい、お医者様は呼びました。ああ……リリアーヌ様、なんて、ひどい……」

「わたしは、大丈夫。でも、リルが――」

 リリィの眼が、リルに向けられる。そこには、傷付けられた怒りも恐怖もない。ただ、彼のことを案じている色だけがある。


(リリィごめん――ごめん)

 カーテンの中でもがいても、彼女に近づくことは叶わない。

(ケガさせる気なんてなかったんだ)

 必死で声を上げるリルに、リリィは、「わかっている」というように微笑んだ。そんな二人の間に、リュカが割って入ってくる。


「まずはリリアーヌ様のお手当てが先です。リルのことも、ちゃんとしますから」

「本当?」

「ええ」

「お願いよ、リュカ……リルは悪くないの……わたしが……」

 ほとんどうわ言のようなリリィの声が、次第に間遠になっていく。リュカが、舌打ちをした。

「出血がひどいな。これは、別の部屋で手当てをいたします。リリアーヌ様はご心配なさらず治療を受けてください」


 リリィに向けてそう言って、リュカがリルを抱え上げた。リュカが歩き出し、為す術もなく、リリィが遠くなっていく。

(放せ! 放せよ! リリィ!)

 声の限りに騒いでも、リュカはずんずん歩いて部屋を出てしまう。リリィが見えなくなって、リルはもう怖くてたまらなくなる。


「お願い……」

 その一言を最後に、リリィの声が途絶える。

「リリアーヌ様、お気をしっかり! すぐにお医者様が来られますから」


(リリィ! リリィ!)


 どんなにリルがもがいても、リュカの足は鈍らない。彼は何も言わずに廊下を歩いて、外に出ても、止まらない。歩き続けて厩舎に行き、馬の背にリルをどさりと下ろすと、自分も飛び乗った。



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