小さな願い~この牙と爪で~
昼下がりの息抜きにリリィが選んだのは、森の中を流れる小川のほとりだった。
リルが母らと共に駆け回っていたこの森は、リリィの父親の縄張りなのだそうだ。印は何もないように思えるが、そうらしい。
森はとても広く、これだけの縄張りを持てるのなら、きっとリリィの父親は途方もなく強いに違いない。
(リュカの何倍も大きくて、すごく長い牙や爪を持っているのかな)
リルがリリィに拾われてから、春を迎えるのはこれで四度目になるけれど、彼はリリィの父も母もまだ見たことがなかった。二人とも、ずっと離れた『オウト』というところにいるらしい。どれくらい遠いかと言えば、馬を全速力で駆けさせても五日はかかるのだと。
馬というのはヒトとしては大きな部類に入るリュカよりももっと大きく、走るのもヒトよりもずっと速い。速さだけならリルの方が上だが、長い時間走り続けることができるのは、馬の方だ。一度馬に乗ったリリィと駆けっこをしたことがあって、しばらくはリルの方が勝っていたのに、途中でへばってしまって、最後には負けてしまった。
楽しかったし、そんなに速く走れることをリルは凄いと思ったのに、何でか、リュカはリリィのことを滅茶苦茶怒っていた。それきり、駆けっこはできていない。今も馬を使って川まで来たが、ポクポクと歩かせていただけだ。
(走った方が気持ちが良いし、リリィだってその方が好きなのに)
リルはリリィの横で馬を歩かせているリュカをチラリと見た。
あいつさえいなければ。
そうは思うが、リリィが巣から出る時は、絶対にリュカが一緒でなければいけないらしいのだ。一緒でなければ、巣から出られないのだと。
リルは不機嫌に尻尾を揺らし、周囲に目を向ける。
暖かい日が増えたこの頃、森の中には緑の下生えが育ち、色とりどりの花が咲き始めていた。
リリィは花が好きだけれども、食べてもおいしくはないから、リルは基本的には興味がない。けれど、一つだけ、好きな花があった。好きなのは、リリィの目と同じ色をしているからだ。その花の名前はスミレというのだと、彼女から教えてもらった。今もそこかしこで揺れているそれを鼻先で突きながら、道を行く。
「このあたりでいいかしら」
川のほとりで馬を停めて、リリィが言った。
リルは頭をもたげて空気を嗅ぐ。特に危ない奴もいなそうだ。
リュカに支えられながら馬を降りたリリィは、彼の手が離れた途端に川岸に駆け寄る。
上流の山にあった雪解けの水でかさが増しているせいか、あまり広くない川の流れは勢いがあった。
「リリアーヌ様、お気をつけて」
「大丈夫よ」
馬を近くの枝につなぎながら慌てた声で言ったリュカに、リリィは振り返りもしない。リルはいい気味だと思いながらリリィの隣に行く。
「冷たい。でも、気持ちいい。リルも触ってみたら?」
水に手を差し入れたリリィが言うから、彼も鼻面を近づけてみた。と、はねた波をもろに吸い込んでしまう。
「ッ!」
立て続けにくしゃみをしたリルに、リリィがコロコロと銀の鈴が転がるような鳴き声を上げた。目をしばたたかせたリルの頭を、リリィが撫でる。
「ごめんね、リル。でも、可愛くて」
そう言って、リリィは、目を細めて、口を開いて、さっきと同じ声で鳴いた。
これを、ヒトは、『笑う』と言うらしい。嬉しい時や幸せな時に自然とその顔になるのだと、いつだか、『笑う』を初めて目にしたときにキョトンとしてしまったリルに、リリィが教えてくれた。
笑うのは、嬉しい時や、幸せな時。
だから、リリィが笑うと、リルも嬉しくなる。
(オレも『笑う』ができたらいいのに)
リリィが笑えばリルが嬉しくなるように、リルも笑って、リリィに嬉しくなって欲しかった。
笑えないリルは代わりにゴロゴロと喉を鳴らして、リリィの顎に自分の頭をこすりつける。
「ふふっ、くすぐったいわ、リル」
言いながらも、リリィは両手で耳の後ろを掻いてくれた。
(気持ち良い。リリィ、大好きだ)
いつまででもこうしていたいと思っていたのに、無粋な声が水を差す。
「リリアーヌ様、お茶の用意ができましたよ」
「ありがとう、リュカ。行きましょう、リル」
振り返って答えると、リリィは立ち上がって、あいつの方へ行ってしまう。
いつだって、リルの邪魔をするのはリュカだった。
リュカはリリィのことを守るのが役割らしいが、そんなの、リルがいれば充分ではないか。
リリィを追いかけながら、リルはゆらんゆらんと尻尾を揺らす。
「今日のコレットのおやつはアップルパイみたい。リュカもどうぞ。リルのはこちらね」
「彼女の菓子は絶品ですね」
「本当に。わたし付きになったときから、ずっと、おやつはコレットが作ってくれているの。料理長が作るのは、少し、大人向けだからって言って」
「確かに、素朴ですね。なのに、美味い」
リリィが小さく切りながら一口二口食べている間に、リュカはバクリバクリと大口を開けて食べ終えてしまった。
「馬に水をやってきます。動かれるときには声をかけてください」
手巾で手を拭ったリュカが立ち上がり、ちらりとリルを見てから離れていく。
邪魔者がいなくなり、リルはフンと息をついた。
これで、リリィを独り占めできる。
リルはゴロンと腹を見せて寝転がり、リリィを見上げた。目が合うと、彼女は微笑み、柔らかな毛に指を潜らせてくる。自然と、リルの喉からはグルルと音がこぼれる。
「大きくなったわね」
リルの腹を撫でながら、ポツリと、リリィが言った。
(そりゃ、早く大きくなりたかったから)
出会った頃、リリィの小さな手でも持ち上げることができていたリルの身体はすっかり大きくなって、今では、彼女の肩に前足をかけて立ち上がれば彼の方が大きいくらいだ。
小さかった頃、リリィは何かというとリルを抱き上げたがって、それは確かに心地良かったのだけれども、次第に、心地良さよりも不満の方が強くなっていった。リリィに抱き上げられる自分が、いつの間にか、嫌になっていた。
小さいままでは、守られるばかりだ。
大きく強くなれば、大事なものを守れるようになる。リリィを、守れるようになる。
その一心だった。
初めてリリィに持ち上げられなくなった時、寂しさよりも、誇らしさの方が上回ったのを覚えている。
今は、リルがリリィを乗せてあげることだってできる。
牙も爪も伸びて、熊にだって負けやしない。この牙と爪で、どんなものからだって、守ってみせる。
(リュカの奴なんていなくてもね)
と、ふいに、パタンとリリィがリルの腹に顔を伏せてきた。そのままジッと動かない。
どうしたのだろう。
リリィはいつも背筋をピンと伸ばしていて、あまり、こういうことはしない。
起き上がったらリリィが落ちてしまうから、リルは寝転がったまま、ひげをヒクつかせる。
「リル」
名前を呼ばれて、勝手にピクンと耳が動いた。
「リル、大きくなったあなたは、自由なのよ。行きたいと思うところには、もう、どこにだって行ける」
それは名案だ。
(リリィはどこに行きたい?)
頭を持ち上げて覗き込んだら、こちらを見ていたリリィと目が合った。
彼女はフッと笑ったけれど、どうしてか、リルはその笑顔を見ても、いつものように幸せな気分にはならなかった。
(何でだろう?)
リリィの笑顔は、好きなのに。
ピタンと耳を伏せたリルの頭を、リリィが撫でる。
「あなたのことが大好きよ」
(オレもだよ)
唸ってそう応えたけれども、リルの『言葉』はリリィには通じない。彼には、そのことが、これまでになくもどかしく感じられた。