後悔は淡雪のように溶け
アルベルクは、『内側』にいた。
確かにこの目でリリアーヌの姿を見て、この耳でリリアーヌの声を聴いている。
しかし、手も足も口も、彼の意思を受け付けず、まるで、アルベルクの形をした張りぼての中に押し込められているかのようだった。
『その、傷』
アルベルクの口が勝手に動き、苦い声がこぼれた。視線は、リリアーヌの腕に刻み込まれた傷跡に縫い付けられている。
その傷跡を見ていると、息が詰まった。
生々しく残る、この爪が柔らかな肌を切り裂く感触。
彼はそれをしていない。
だが、覚えている。
確かに自分は彼女を傷付けたのだと。
「これが、気になりますか?」
リリアーヌはそう問いかけながら、アルベルクの視線を辿るようにして自分の腕に眼を落した。
『……』
無言のアルベルクの前で、リリアーヌが乗馬服の袖をまくる。
露わになった白い腕には、肘窩から手首まで届く二本の筋。
(獣の爪痕……?)
それにしては、大きい。もしもそうなら、その前足は、多分、アルベルクの手のひらと同じくらいの大きさがあるだろう。
(そんな獣がいるのか?)
アルベルクが知る『獣』は、猫と軍用犬、それに馬くらいのものだ。
訝しむ彼に気付かぬ様子で、リリアーヌが言う。
「この傷跡は、わたくしの罪の証です。わたくしの、弱さの証です」
うつむいた彼女がこぼした声は、微かに震えていた。
(罪……? どういうことだ?)
と、アルベルクの口が、また、勝手に動く。
『違う! 悪いのはオレだ!』
腹の底から吐き出したようなアルベルクの台詞に、リリアーヌが顔を上げた。
「アルベルク様?」
彼を見た瞬間、リリアーヌの眉根が寄る。次いで、ハッと息を呑んだ。
「アルベルク様、その目の、色……」
今、リリアーヌは、食い入るようにアルベルクの目を見つめていた。
「その紅は、あの子の色なのに」
呆然と呟くリリアーヌの名を、アルベルクの口が呼ぶ。彼が知らない呼び名で。
『リリィ』
刹那、リリアーヌが大きく目を見開いた。
「どうして、その呼び方をご存じなの?」
『だって、リリィが言ったんじゃないか。リリィとリルできょうだいみたいだって』
拗ねたような声に、リリアーヌが大きく息を呑む。
「あなた……そんな、まさか――リル、なの?」
知らない名前。
なのに、呼ばれると彼の胸が苦しくなるほどの喜びに満たされる。
リリアーヌはためらいがちに手を上げ、アルベルクの頬に触れた。彼は目を細めてその手に頬を寄せる。昔、彼女に撫でられた時はいつもそうしていたように。
「どうして、何が――ううん、そんなことはどうでもいいわ」
小さくかぶりを振ったリリアーヌの目が、揺れる。
笑顔になりかけて、クシャリと潰れた。
「また会えたらずっとごめんねって言いたかったの。わたしのせいで、あなたは傷付けられてしまったのでしょう?」
つ、と彼女の頬を伝った雫に、アルベルクの、そして、彼の中の『リル』の、胸が締め付けられる。
(泣かないで)
『泣かないで』
アルベルク/『リル』は、震える指先でリリアーヌの頬に触れた。
柔らかな、感触。
ああ、この手なら、彼女を傷付けることはないのだ。
そんな安堵の念が、胸に込み上げてくる。
彼らはリリアーヌの頬の涙を、親指でそっと拭う。
『リリィの所為じゃない。オレがリリィを傷付けた。オレの、爪が』
そうして、頭を傾け彼女と額を触れ合わせる。かつて、幼い彼女と何度も繰り返したように。
『リリィが行ってしまうことがイヤだった。でも、傷付けるつもりはなかったんだ。ただ、行って欲しくなかっただけだったんだ』
ごめんと何度も繰り返す彼に、リリアーヌがかぶりを振る。そうして、真っ直ぐに見つめてきた。
「わたしがいけなかったの。大きく、強く、独りで生きていけるようになったあなたを、わたしのもとに引き留めてしまったから。本当は、もっと早く、あなたがいるべき場所に帰さなければいけなかったのに。どうしても、手放せなかったの」
リリアーヌが両手を伸ばし、彼らを抱き締める。
「わたしは、ずっと独りで、寂しかったから。あなたに傍にいて欲しかった」
ごめんなさいと、彼らの耳元でリリアーヌが震える声で囁いた。
そんな彼女を、最初はためらいがちに、そして、包み込むように、抱き締め返す。
ずっとこんなふうに触れたかったのだと、思った。
栗色の髪に頬を埋めて、小さく吐息をこぼす。
『オレもリリィの傍にいたかった。傍にいられて、嬉しかった』
「でも、そのせいで――」
また懺悔の言葉を口にしようとしたリリアーヌを、『リル』は止める。
『リリィが幸せだったなら、それでいい。これから先も、幸せでいて欲しい』
涙で頬を濡らしたリリアーヌを見下ろし、『リル』は笑った。
笑えることが、嬉しかった。
抱き締められることが、嬉しかった。
彼の笑顔に引き寄せられるように、リリアーヌの顔にも笑みが浮かぶ。
ああ、やっぱり、リリィの『笑う』が大好きなんだ。
心の底から、そう思う。
『リル』は、もう一度彼女を抱き締めた。
この温もりを、けっして忘れないように。
『オレは、リリィといられて、幸せだった』
最後の、囁き。
込み上げる多幸感が、そのままアルベルクのものになった。彼は、目を閉じる。
アルベルクの中に、もう、『別の何か』は感じられない。それは彼の中に溶け、彼の一部になったのだ。
アルベルクはリリアーヌを抱き締める。彼自身の腕で。
(お前の大事なこのひとを、これからは僕が守っていくから)
――この先ずっと、彼女が幸せで笑っていられるように。
その宣言が届いたかのように、アルベルクの胸の奥で、フンと鼻を鳴らすのが聞こえたような気がした。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
元々は、1万文字もいかない短編のつもりだったのですが、蓋を開けたら5倍になっていました。
最終話の為に書き始めたお話です。
ついうっかり大事な人を傷付けてしまった獣のお話なので、主人公はアルベルクではなくリルなのです。
なので、アルベルクとリリアーヌとの関係はこれから始まります。
もしかしたら後日譚を付け足すかもしれません。
ブクマ・いいね・ポイント・誤字評価、いつもありがとうございます。
「読んで良かった」というお気持ちを伝えていただけることは、励みになります。




