覚知
前を疾駆するリリアーヌの栗色の髪が風にすくわれなびいている。屋敷を出る時にはキッチリと結ってもらっていた髪が、今は揺れと風で少しばかり乱れていた。けれど、彼女は少しも気にすることなく馬を駆っている。むしろ、そうなることすら、嬉しそうに。
アルベルクがリリアーヌとの外出に選んだのは、乗馬だった。彼女が望むことをと考えた時、即座に頭に浮かんだからだ。それが大正解であったことは、今の彼女を見れば一目瞭然だ。
「アルベルク様、あの丘のところまで行きましょう」
普段のおしとやかな仮面をどこかに落としてしまったように、リリアーヌが声を弾ませる。
ともに駆けて風を切る感触。
再会してから一瞬たりとも崩れることのなかった令嬢然としたリリアーヌとは違う、リリアーヌの姿。
馬上で目を輝かせるリリアーヌの笑顔が鮮明な『記憶』と重なるのは、手紙にしたためられていたからだろうか。
「リリアーヌ様、少し速度を落としてください!」
リリアーヌの寡黙な護衛の滅多に聞くことのない焦った声音での呼びかけに、彼女は並んで走るアルベルクに残念そうな微笑みを向けて馬の脚を緩めさせる。
貴族の令嬢は教養の一つとして乗馬をたしなむが、せいぜい歩かせるくらいのもので、全力疾走させることは、普通はしない。
先ほどまでのリリアーヌの弾けるような笑顔が消えてしまったことを、アルベルクは残念に思う。
『あいつはいつも邪魔するんだ』
余計な口出しをしたリュカに、頭の片隅でそんな文句が響く。
「本当は好きなように走らせたいのだろう?」
常歩で並ぶリリアーヌにそう言うと、彼女は目をしばたたかせてからニコリと笑った。
「ええ、そうですね」
「別に、護衛のことなど気にせず好きなように走らせたらいいじゃないか」
リリアーヌはリュカの主だ。だったら、リュカの方がリリアーヌに従うべきだろう。
アルベルクの言葉に、しかしリリアーヌはかぶりを振る。
「人には果たすべき役割があります。今のわたくしにとっては、この身に傷をつけないということは『しなければならないこと』の一つですから。リュカは、その為に言ってくれているのです」
そう言ってリリアーヌは馬を停め、アルベルクの手を待つことなくひらりと降りた。すかさず駆け寄ったリュカに手綱を渡す。
草原を歩き出したリリアーヌの隣に、アルベルクも馬を降りて並んだ。
ゆっくりと歩く彼女は、吹き渡る風を頬に受けながら言う。
「好きなことをするのは確かに楽しいです。けれど、己の役割を果たしてこそ得られる喜びというものもあります」
リリアーヌの眼は、雲一つない青空に向けられている。
日傘もなく陽光を受けるのも、普段、したくてもせずにいることの一つなのだろう。
『このリリィはオレが知っているリリィと違う』
不満そうに頭の中の声が言う。
だが、アルベルクの知るリリアーヌは、こうだった。
幼い頃から、リリアーヌには、子どもらしい無邪気さの中に年齢にそぐわぬ大人びた一面が常に潜んでいた。無遠慮に押しかけているように見えてもアルベルクの様子はしっかりと窺っていて、少しでも具合が悪そうであれば、彼がどれだけ平気そうに取り繕っていても、その日は早々に帰っていた。
子どもだったけれども、子どもではいられなかった少女。
それが、アルベルクが知るリリアーヌだ。
と、また、声が。
『リリィはお姉さんぶっていたけど、ホントは寂しがりやなんだ』
脳裏に浮かぶ、『彼』を抱き締め、ふわふわの白銀の毛皮に顔をうずめる幼い少女。
『オレをギュッと抱き締めるのは、自分が寂しいからなんだ』
独りで大丈夫だったんじゃない。
そっぽを向くように言う声には、そんなリリアーヌに対する想いが溢れていた。
(お前がずっと彼女のことを守ってくれていたんだよな)
何かと騒がしく、断固としてリリアーヌに触れさせてくれない頭の中の居候に、アルベルクは囁きかける。一方通行だと判っていても、無駄なことだとは思わなかった。
(お前が大事に守ってきた彼女は、僕にとっても大事な人なんだ)
だから、これからはその役割を自分に担わせて欲しい。
「リリアーヌ」
呼びかけると、彼女が振り向いた。
菫色の大きな瞳が、問いかけるように瞬く。
「僕は、君のことをもっと知りたいんだ」
他の誰よりも――頭の中に棲む何ものかよりも。
アルベルクはグッと奥歯を食いしばり、彼女に向けて手を差し伸べる。
『ダメだ!』
途端に響いたその声と共に、アルベルクの意に反して身体が動きそうになる。だが、彼はそれに抗った。
明らかに身を強張らせているアルベルクに、リリアーヌは眉根を寄せる。触れようとしないのは、彼の真意を読み取りかねているからか。
いつもなら、耐え難い切迫感に駆られて手を引いてしまう。だが、アルベルクは、彼女が動くのを待った。
ややして、アルベルクの上に向けられ微動だにしない手のひらに、おずおずとリリアーヌが手を重ねる。
アルベルクは、ゆっくりとそれを包み込んだ。
『大丈夫、なのか?』
不安と安堵が混在した声は、彼が初めて耳にする心許なげなものだった。
それを聞いたことで、アルベルクは、ソレが頑ななまでにリリアーヌに触れさせようとしなかった理由が恐怖であることを知る。
だが、何故。
眉根を寄せたアルベルクの目に、自分の手に重ねられたリリアーヌの手の少し上、手首の辺りにあるものが入り込む。
いつもは肘までの手袋をしているから、気づかなかった。
「それは……?」
尋ねる意図もなく呟くと、リリアーヌが小さく息を呑んだ。彼女が身じろぎをしたことによって袖が上がり、更にそれが露わになる。
(傷跡……?)
ほんの一部しか見えないけれど、確かに、傷跡だ。鋭利な刃物で切り裂かれたものではなく、もっと、深々と肉を抉られたかのような。
刹那、アルベルクの頭が割れるような痛みに襲われた。
「グッ」
呻いたアルベルクの頭の中に、声が響き渡る。
『オレが!』
『オレがやった!』
『オレがリリィを傷付けた!』
狂乱状態で喚き立てる声でアルベルクの聴覚と思考が飽和する。
血塗れのリリアーヌの姿。
激しい罪悪感と後悔。
感じる痛みは、身体からのものなのか、それとも、想いがもたらすものなのか。
その時、アルベルクは唐突に思い出した。
二年前に何があったのかを。
何故、自分が突然健康体になったのかを。
(僕は、あの時、この身に何かを入れられたのだ)
あの、魔女に。
この記憶を持つ、何ものかを。
思い出した瞬間、世界がひっくり返った。




