小さな願い~リリィの子分~
「ねぇ、リル!」
弾む水滴のような澄んだ声で名前を呼ばれ、長椅子の上で身を伸ばしていたリルは頭をもたげた。首を巡らせ、部屋の戸口に立つリリィを見つける。
「今日は良い天気だから、午後から森に行きましょう?」
軽い足取りでリルのもとにやってきたリリィは、ふわりとしゃがみ込んでそう言った。
(大賛成!)
喉をグルルと鳴らすと、リリィが顔をほころばせる。思わずペロリと彼女の頬を舐めたとたんに、首の後ろが捕まれ、引き剝がされた。
「!」
別に、痛くはない。痛くはないが、非常に不愉快だ。
においで、そんなことをしたのが誰なのかはリルには判っていた。
振り返りざまにシャッと爪を繰り出したが、かすることさえなくかわされる。
「リル、駄目よ」
「グゥ」
唇を尖らせてリルをたしなめてから、リリィは闖入者に振り返った。
「リュカも乱暴にしないであげて」
「……申し訳ありません」
リルを掴んでいた手を離し、頭を下げはしたけれど、その謝罪の言葉を向けた相手はあくまでも彼女であって、リルではない。
リリィに咎められたこのリュカというヒトは、オスで、大きくて、多分、いや、きっと、リルのことが嫌いだ。リュカはいつでもピッタリとリリィに張り付いていて、どこに行くにも付いてくる。元々ピリピリしているが、リルが近くにいると、いっそうそれが強くなる。
リルが小さいうちはまだそれほどでもなかったが、彼の頭がリリィの腰あたりの高さになった頃から、鋭い眼で見るようになってきた。そりゃ、時々ちょっと長椅子の背を爪で破いてしまったり、棚にぶつかって上の物を落として壊してしまったりすることはあるけれど、わざとではないし。
悪いことをしたわけでもないのにこんな眼で見てくるということは、つまり、リルが嫌いということなのだ。
(まあ、でも、別に、どうでもいいけど)
リルのことを嫌っていようがいまいが、ヒトであろうがなんであろうが、彼にとって、リリィ以外はどうでもいい存在だった。
リリィには、リュカの他にもう一人、コレットという子分がいる。コレットはメスで、リルが拾われたときにリリィと一緒にいて、問答無用で彼をグシャグシャに洗った奴だ。ご飯をくれるヒトだし、概ね悪いヒトではないのだが、今でもリルを洗うのはコレットだから、その時だけは近寄りたくないと思う。
「今年は暖かくなるのが遅かったから、まだあまりお花が咲いていないかもしれないわね」
リュカに引っ張られて毛並みが乱れたところを撫でてならしてくれながら、リリィが言う。その眼は窓の外の青い空へと向けられていた。
言葉は残念がっているようでも、眼差しは明るい。
きっと、外に行けるというだけで、リリィには嬉しいことなのだろう。
リリィが好きなのは外できれいな花を見たり、原っぱを駆けたり、鳥を見つけたりすることなのに、彼女には『まなぶこと』がたくさんあるのだそうだ。その、『まなぶこと』のせいで殆ど一日中部屋の中に閉じ込められている。
リリィがリルを拾ってくれた頃は、まだ、一緒に遊ぶ時間があった。なのに今は、ふたりきりで過ごせるのは一日の内でほんの少しの間しかないし、こうやって外に出かけるのは何日かに一回だ。
こんな巣など逃げ出して、森の中で二人で暮らしていく方が、リリィは幸せなのではないかと常々リルは思っている。リルだって、その方が楽しい。今みたいに、一日の中でちょっとしか一緒にいられないのではなく、ずっと好きなだけ森の中を散歩して、夜寝るときもピッタリとくっついていられたら、きっと、すごく幸せに違いない。
(ねぇ、そうしようよ。餌なんか、オレが獲ってきてやるし)
そう訴えてみるけれど、リルの『言葉』はリリィには伝わらない。リルにはリリィの言っていることが解るのに、その逆はどうしてダメなのだろう。
時々、本当に時々、リルは自分もヒトだったら良かったのに、と、思うのだ。