彼女の笑顔が変わったわけ
その夜は、新しい年の訪れを祝う夜会が王宮で開かれていた。
元来肥沃な土地に恵まれ、長年周辺諸国との良好な関係も保ってきたカルヴェ国の富を惜しみなく披露する、贅を尽くした会だ。
もちろん、王太子であるアルベルクも、その婚約者であるリリアーヌも参加している。しかし、今、彼は彼女の隣にはいない。壁に寄りかかるようにして立ち、人の輪の中にいるリリアーヌを離れたところから眺めていた。
リリアーヌが王都に戻ってから、半年。当初は遠巻きに伺うばかりだった貴族たちも、ようやくリリアーヌの立ち位置の見極めがついたようだ。権力者を父に持つ彼女には、今では、人が集まる場所に赴けば常におもねる者らが群がってくるようになっている。
追従が溢れるその中で、リリアーヌは常に微笑んでいた。
公平で瑕疵のない笑顔。
今なら、アルベルクもはっきりと感じる。
それは、確かにかつてのリリアーヌのものではなかった。あんなふうに整えられた笑みを、幼い頃の彼女は知らなかったはずだ。
小さなリリアーヌは、楽しいから、嬉しいから笑っているのだと一目で判った。今、彼女が浮かべている『笑顔』からは、まったく感情が伝わってこない。
思い返せば、アルベルクとともにいるときも、時折ふと漏らしたと感じる笑みを見せることがあったが、大半は作られたものだった。
逆に、どうしてこれまでそのことに気づかなかったのか、不思議なくらいだ。
(再会の喜びに浮かれて、見るべきものが見えなくなっていたのか)
アルベルクは自嘲し、またリリアーヌに眼を戻す。
今、彼女にへらへらと笑いながら話しかけているのは、ドロン伯爵家の次男か。
リリアーヌがアルベルクの婚約者であるということは知れ渡っている筈にもかかわらず、個人的に彼女にすり寄る輩が後を絶たない。恐らく、貴族は義務と義理で結ばれる政略結婚が殆どだからなのだろう。アルベルクとリリアーヌの間も冷めきったものと見て、ああやって、付け入ろうとしているに違いない。
だが。
(そう思われるのも、僕の所為か)
アルベルクは奥歯を食いしばり、両の拳を固く握り込む。
相変わらず、アルベルクはリリアーヌにその手を伸ばせずにいる。
もちろん、彼は彼女に触れたいと思う。思わないわけがない。
しかし、身体がそれを拒むのだ。
想いとは裏腹の彼の態度は、どうしてもリリアーヌに対してよそよそしいように見えてしまうのだろう。
婚約発表が正式に成された今でもリリアーヌの存在を無視してアルベルクに近づこうとする令嬢が後を絶たないのと同様に、彼女に取り入り甘い蜜を吸おうとする者が常に列を成している。
忌々しい。
『リリィはオレのものなのに』
――まただ。
また、いつもの声が、苛立たしげな唸りを上げる。
リリアーヌに触れようとすれば邪魔してくるくせに、こうやって、不満ばかりを訴えてくる自分の頭の中に棲みついたソレを、アルベルクはいつしか受け入れていた。
恐らく、リリアーヌに縁のあるものなのだろう。それは、声がするたび溢れる記憶から伝わってくる。
ずっとリリアーヌの傍に在って、彼女の、心からの笑顔を知るもの。
(お前は何ものなんだ?)
幾度となく繰り返したその問いに、やはり、応えはない。
ソレの声はイヤというほど聞こえてくるのに、アルベルクの声は、相手に届かないらしい。
共存しているというよりも、まさに、棲み付いている、という表現が相応しい。
『オレならちゃんと笑わせてやれるのに』
ドロン伯爵子息に無難な微笑みを返すリリアーヌを目にした瞬間、焦れた声がまた頭の中に響いた。
あんな奴らの中に置いておきたくない。
奪いたい。
ずっと自分だけを見ていて欲しい。
放したくない。
離れていって欲しくない。
強烈な欲求が次から次へとアルベルクの中に湧き起こる。
こんなふうに思うことは間違っている。
こんな我欲に塗れた思いを持ってリリアーヌに触れることはしてはいけないことだ――そう思うのに、頭の中の何かもそれはいやというほど判っているのに、リリアーヌを見ていると想いが溢れ出すのを止められない。
穏やかに歓談している二人に駆け寄って、あの男からリリアーヌをひったくってやりたい。
そんな凶暴な望みを持ちながら、彼女に近づくことを恐れている。
激しい欲の奥底に、かすかに、けれどもどうやっても落とすことができない錆のような後悔が見え隠れする。
矛盾した想いが、アルベルクの腹の中で入り乱れていた。それらの殆どは彼も抱いているものだから、いっそう混乱する。
アルベルクがリリアーヌに手を伸ばすことができないのが彼の中の何ものかのせいだというのは間違いない。
ソレはアルベルクと同じくらいリリアーヌに焦がれているのに、同時に彼女に触れることを恐れている。
(彼女の笑顔が変わってしまったのは、お前のせいなのか?)
ふたりの間には、きっと、アルベルクなど足元にも及ばない強いつながりがある。そのつながりに、彼は目の前の光景では欠片も浮かんでこない嫉妬を覚えた。
(でも、その権利は僕にはない)
己の中で悔やむ何かを責める権利も、ソレを妬む権利も。
リリアーヌに再会するまでも、いや、再会してからも、アルベルクは自分のことばかりだった。自分の辛さばかりに目を向け、頭の天辺まで自己憐憫に浸かっていた。
彼の中に棲む何ものかがいなければ、今でもリリアーヌの笑顔が変わってしまったことに気づいていなかっただろう。本心を包み隠したきれいな微笑みで満足して、彼女の奥にある痛みなど、見ようとしなかっただろう。
アルベルクは、リリアーヌの笑顔が変わってしまった理由を知りたかった。
(違う)
知らなければならないのだ。
かつてのリリアーヌの笑顔を取り戻したい。
彼女が、幼い頃のように笑えるようにしたい。
あの笑顔を、アルベルクは切望する。頭の声が望む、『幸せだから笑う』彼女を。
(僕と僕の中の『何か』が求めてやまないものは、結局は、『幸せなリリアーヌ』なんだ)
そのためには、リリアーヌに起きたことを知らなければ。
まずは笑いの仮面を貼り付けた者どもから彼女を救い出そうと、アルベルクは身を起こし、彼女に向けて足を踏み出した。




