記憶の中にある、見たことのない笑顔
「兄上!」
ロジェに言われたように、ゆっくりとした足取りでリリアーヌと庭を散策するアルベルクを、朗らかな声が呼び留める。
駆け寄ってきたのはフェリクスだ。彼は先ごろ十五になって背もぐんぐん伸びてきたが、面立ちにも言動にもまだ幼さが残っている。
「リリアーヌも一緒なんだ」
少し身を引いて自分の陰にいたリリアーヌがフェリクスの目に入るようにする。彼女はスッと腰をかがめて優雅に挨拶をした。礼儀作法の教本に載るような完璧な所作だ。
「ごきげんよう、フェリクス様」
「リリアーヌも、今日も可愛いね」
流れるようにリリアーヌを褒める言葉を口にするフェリクスは、令嬢たちにすこぶる人気がある。愛想笑いの一つもせずに遠巻きにされがちなアルベルクとは正反対に、フェリクスの周りにはいつでも人が集まっていた。
フェリクスはリリアーヌからアルベルクに眼を移す。
「これからリリアーヌと休憩ですか?」
「ああ、四阿にロジェが用意してくれているんだ。お前も来るか?」
「良いのですか?」
パッと顔を輝かせたフェリクスだったが、リリアーヌをチラリと見た。婚約者との逢瀬を邪魔することにためらいを覚えたのだろう。遠慮を覚えただけ、成長したということか。
「構わない。いいだろう、リリアーヌ?」
首をかしげるようにしてリリアーヌを見れば、彼女はにこりと笑って頷いた。
「はい。ご一緒できて、わたくしも嬉しいです」
「やった! ありがとう、リリアーヌ」
満面の笑みの弟が微笑ましい。
フェリクスを伴い三人で四阿に行くと、待っていたロジェはチラリとフェリクスに眼を走らせてから、何も言わずに動き始める。まるで最初から備えていたかのようにすんなりと人数分の席が整った。
ロジェが用意してくれていたのは、リンゴの香りがする紅茶にリンゴのパイ。
完全にリリアーヌの好みに寄せた選択だ。リリアーヌが同席するときは、アルベルクが指示しなくとも、ロジェは必ず彼女が好きなものを用意する。察しの良さは流石だ。
「そう言えば、兄上、今回はお疲れ様でした」
「?」
「孤児院の件ですよ。建物のことなんて誰も眼を止めていなかったのに。しかもこんな短期間で片づけてしまうなんて、皆感心してます」
フェリクスの新緑の瞳には溢れんばかりの尊敬の念が込められている。
「あれはリリアーヌが気づいて教えてくれたことを形にしただけだ」
肩を竦めたアルベルクに、リリアーヌがかぶりを振る。
「わたくしはお菓子を絵に描いただけです。アルベルク様は、それを実際に食べられるようにしてくださいました。わたくしにはできないことです」
リリアーヌの謙遜は、フェリクスの声でひっくり返される。
「それだってすごいよ。僕も何度も慰問に行ってたけど、全然、気にしていなかった。ただ、行ってるだけだったんだ。子どもたちと遊びまくっておしまい、だよ」
「あの子たちも、フェリクス様が遊んでくださるのすごく嬉しいって、申していましたよ」
そう言って、リリアーヌはフェリクスに微笑んだ。
――そんなふうにリリアーヌとフェリクスが笑み交わすのを、アルベルクは満ち足りた思いで見守る。
大事な弟と、この世界で一番愛おしい人と、明るい日差しの中で過ごすひと時。
アルベルクは、幸せだ、と、思った。
こんな時間を過ごせるようになるなんて、数年前までは、夢にも思っていなかった。
(リリアーヌだって笑ってくれている)
王都の日々はフルールのようにはいかないかもしれないけれど、こうやって笑っているのだから、きっと、リリアーヌだって戻ってきて良かったと思っているに違いない。
そう、アルベルクが思った時だった。
『違う』
まただ。
聞いたことがないはずなのに、妙にこの身に馴染んだ声。
『あんなのはリリィの『笑う』じゃない』
不機嫌そうなその声と共に頭にひらめいた、輝くような少女の――リリアーヌの笑顔。
年の頃は十歳くらいだろうか。
その時分の彼女は遠い地にいてアルベルクが目にしたはずがないのに、やけに鮮明だった。まるで、手が届く距離で見ていたかのように。
脳裏に浮かんでは消えていくリリアーヌは様々な年頃で移り変わっていったけれども、どれもアルベルクが知る幼い頃のままに生き生きとしている。
確かに、アルベルクが共に過ごした幼いリリアーヌの笑顔は、これだった。
だが。
アルベルクは、六歳から後のリリアーヌを知らない。
十歳のリリアーヌも、十二歳のリリアーヌも、十四歳のリリアーヌも。
なのに。
(何故、僕は『この』リリアーヌを知っているんだ?)
戸惑うと同時に、アルベルクは激しい嫉妬に見舞われる。
フェリクスと笑い合っているリリアーヌを目にするときには抱かなかった感情だった。
(これは、誰に向けた笑顔なんだ?)
再会してから、アルベルクはリリアーヌがこんなふうに笑うところを見たことがない。
再び、頭の中に声が響く。
『リリィは花が咲くみたいに笑うんだ』
『幸せだからリリィは笑う』
『笑うリリィは幸せで、リリィが幸せだからオレも幸せになる』
いつもの、苛立ちや不満を含んだものではなく、憧憬と満ち足りた想いを感じさせる声。
その気持ちは、アルベルクにも痛いほどに解る。
あんなふうに笑うリリアーヌと日々を過ごしていられたなら、きっと、他には何も要らないと思えるほどに幸せだったに違いないから。
アルベルクは、フェリクスに向けられたリリアーヌの『きれいな』笑顔を見つめる。
整えられた、淑女然とした、微笑み。
あの笑顔で嫉妬心など抱こうはずがない。
アレは、全然違う。
(彼女は、どうしてあの笑顔を失ってしまったのだろう)
ただ『大人』になっただけだろうか。
ヒトは、どうしたって、幼い頃のままではいられないから。
特にリリアーヌはこの国で最も力を持つ宰相家の娘で、未来の王妃だ。
その自覚が、あの無邪気な笑顔を封じてしまったのだろうか。
(それとも、別に何か理由が……?)
アルベルクの視線に気づいたのか、リリアーヌがこちらに眼を向けたが、彼の顔を見てふと表情を曇らせる。
「アルベルク様? お加減が?」
「ああ、いや、何でもないよ。少しぼぅっとしていただけだ」
「それなら良いのですが……無理はなさらないでくださいね?」
「本当に君は過保護だな。昔の私とは違うんだと、何度言ったら納得してくれるんだい?」
「無理ですよ、兄上。リリアーヌはまだ戻ってきたばかりなんですよ? 僕らでさえ、お元気な兄上に慣れるまで随分時間がかかったじゃないですか」
「まったく……仕方がないな。じゃあ、もっと一緒にいる時間を作ろうか」
やれやれと肩を竦めて見せると、フェリクスが大きく頷いた。
「その方が良いですよ。兄上は仕事中毒だと、皆が裏で言っています」
「これまでたっぷり休ませてもらってきたから、このくらいしないと釣り合いが取れないよ」
「だからと言って、詰め込み過ぎるのは良くないです」
ムッと唇を尖らせたリリアーヌに、幼い頃の彼女の面影が濃くなった。
思わず小さな笑みを漏らしたアルベルクに、リリアーヌが首をかしげる。
「アルベルク様?」
「ああ、ごめん。今も昔も、君は可愛らしいなと思って」
「! 今はそういうお話をしていたのではないと思います」
頬を紅く染めてそう言ったリリアーヌに、フェリクスがにやにやと笑う。
「僕がいない方が良さそうですね」
「そうだな、席を外してくれるかい、弟よ?」
「フェリクス様! アルベルク様も!」
憤慨するリリアーヌにアルベルクはまた声を上げて笑ったが、そんな他愛のない遣り取りの間も、あの『声』に見せつけられた輝くような彼女の笑顔の記憶は、彼の頭の中に焼き付けられたように鮮明に刻み込まれたままだった。




