君だけが
ロジェが出て行き、二人きりで残され、アルベルクはリリアーヌに歩み寄る。近づくと、彼女の頭の天辺はアルベルクの胸のあたりまでしかない。寝台の上にばかりいた幼い頃は、同じ目線か、むしろアルベルクの方が低いくらいだったから、こうやって彼女を見下ろすのは、未だに少し不思議な感じがした。
「行こうか」
「はい」
差し出した彼の肘に、リリアーヌの手がそっと添えられる。
もう何度も繰り返されてきたというのに、彼女に触れられるたび、アルベルクの胸は激しい喜びで締め付けられた。
だが、一つ、奇妙なことがある。
アルベルクは肘にあるリリアーヌの手を見つめた。
(こうやって、『触れられる』のはまったく問題ないのに)
何故か、彼からリリアーヌに触れようとすると、身体が異様に強張るのだ。
初めのうちは、単に緊張しているだけなのかと思っていた。
あまりに長いこと、アルベルクはリリアーヌに焦がれていたから。
いざ彼女を目の前にして、現実だと受け入れることができていないのだろう、と。
だが、ひと月が過ぎても、未だにアルベルクはリリアーヌに手を差し出すことができない。その動きを取ろうとすると、途端に頭の中で何かががなり出す。まるで、そうすることで何か悪いことが起きるのだと警告するかのように。
そのせいで、リリアーヌに伸ばしかけた手を不様に引っ込めたことが、何度あったことか。傍から見れば、アルベルクは彼女を拒んでいるのだと受け止められかねない。
『リリアーヌに手を近づけようとすること』が駄目なのだと判ってからは、極力その動きをしないようにしているが、時々、つい、やってしまう。それも当然のことだ。そもそも、アルベルクはいつだって彼女に触れたいと思っているのだから。油断すればどうしても想いのままに身体は動いてしまう。
今のところはごまかせているが、いずれ、彼の奇妙なこの行動に誰か気づく者が出てくるだろう。
(いや、『誰か』など、どうでも良い)
リリアーヌにさえ、悟られなければ。
もしも彼女がこのことを知ったなら、どう感じるか。
リリアーヌに、触れたくないのではない。
触れられないのだ――どれだけアルベルクが触れたいと思っていても。
アルベルクがリリアーヌのことを拒んでいるのだとは、ほんの少しでも、思って欲しくない。
「アルベルク様?」
呼びかけられて、彼はハッと我に返る。
見下ろせば、動き出そうとしないアルベルクに、リリアーヌがいぶかしそうな眼差しを向けていた。
「ああ、ごめん。少しぼんやりしていたよ。行こうか」
アルベルクの促しにリリアーヌは何かを言おうとする素振りを見せたけれども、彼は構わず歩き出す。
執務室を出ると、扉の脇にリリアーヌの護衛が立っていた。廊下を歩くアルベルクとリリアーヌの後ろを、少し離れて、だが、いざという時には必ず主を守れる距離で、ついてくる。
リュカという名のこの男が、アルベルクは好きではない。視界に入れると、何故か肩のあたりが妙にズキズキと疼き始めて気分が悪くなってくるのだ。
腕は立つというし、礼儀もわきまえている。見てくれも悪くない。
不快に思う要素は何もないというのに、どうにも気に食わない。端的に言えば、『嫌い』なのだ。
あまりに子どもじみた感覚に、アルベルク自身が戸惑う。リュカの他に、こんなふうに感じることはないのだが。
(ずっとリリアーヌの傍にいた男だからか?)
きっと、そうなのだろう。
アルベルクが近づけなかった十年の間、彼はずっとリリアーヌと共にいたのだから。
あくまでもリリアーヌの護衛、あくまでもリリアーヌに仕える者であり、男として存在していたわけではない。
それが判っていても、リュカには傍に居て欲しくないと思ってしまうのだ。
(狭量な男だな、僕は)
冷静にこれはおかしなことだと認識している自分の中に、小さな子どものように「あいつが嫌いだ」とそっぽを向くもう一人の自分がいるような心持ちになる。
小さくため息をこぼすと、隣を歩いていたリリアーヌが首をかしげて見上げてきた。
「やっぱり、お疲れですか?」
言外に、庭の散歩をやめて休みましょうかと問うてくる。
「そうだね。さすがにちょっと疲れてはいるよ」
これは、本当のことだ。特にこの三日ほどは睡眠時間も削り気味だったから。
だが、とアルベルクは表情を曇らせたリリアーヌに微笑みかける。
「君といる時間は何よりも私を癒してくれるんだ」
「そう、なのですか?」
「ああ。小さい頃からそうだったよ。君といると苦しさもなくなって、楽に息ができるようだった」
「わたくしには何の力もありませんが」
「存在そのものが私の特効薬なんだよ」
嘘偽りなく心の底からの思いでそう答えると、リリアーヌの頬がうっすらと染まった。
「それは、少し、言い過ぎです……」
はにかむリリアーヌが可愛らしくて、アルベルクは思わず笑いを漏らしてしまう。と、彼女がにらみつけてきた。
「おからかいになったのですね」
ムッと頬を膨らませるのがまた可愛いと思ったが、ここで笑ったら一層彼女を怒らせてしまう。
「からかってなどいないよ。本当のことだ」
答えて、肘に置かれたリリアーヌの手を持ち上げて、指先にそっと口づける。
「君は私の生きる意味であり、指標であり、喜びだよ。初めて出会った時からね」
リリアーヌがいなければ、苦しい時を生き延びることができなかった。
小さな手を肘に戻したアルベルクを、リリアーヌはもの言いたげに見つめ、そしてうつむく。
しばらくお互い無言で廊下を歩いていたけれど、ややして、ぽつりと彼女が呟いた。
「アルベルク様の生きる意味は、わたくしだけではありません」
「え?」
首を傾げたアルベルクに、リリアーヌが立ち止まる。頭一つ分以上高いところにある彼の目を、リリアーヌは顎を上げて真っ直ぐに見つめてきた。
「アルベルク様は、皆から求められています。アルベルク様の世界には、わたくし以外にもたくさんの人がいて、たくさんのものがあります。わたくしだけではありません」
そうだろうか。
確かに今は、アルベルクは健康になり、皆の為になることができているから、もてはやされている。
だがそれは、アルベルクが成したことに対する称賛であって、アルベルク自身が求められているわけではない。
どんなアルベルクでも傍に居てくれるのは、リリアーヌだけだ。
ある日突然健康になったこの身体が、ある日突然虚弱になるかもしれない。
かつてのように『何もできないアルベルク』になったら、きっと、また、忘れられた存在になるに違いない。
リリアーヌは人の良いところしか見ないから、そういう打算には気づいていないのだ。
――アルベルクはそう思ったが、口には出さなかった。
「そうだね」
腹の中とは裏腹の言葉を口にし、リリアーヌが望むように微笑んだ。
その笑みを受け、アルベルクの肘に置かれたリリアーヌの手に、力がこもる。
再び歩き出してから、彼はそっと隣を見下ろしたが、前を向くリリアーヌの顔を見ることは叶わず、そこにどんな表情が浮かんでいるのかは、判らなかった。




