大事なひと
アルベルクの生誕祭で再会してから、リリアーヌとは殆ど毎日会えるようになった。
執務があるから長い時間を割くことはできないが、昼食を共にしたり、午後の休憩のひと時を過ごしたり、ほんの少しの間でも、必ず彼女と会える時間を作った。
叶うことなら朝から晩までリリアーヌと一緒にいたかったが、アルベルクが正式に王太子となった今、そういうわけにもいかない。アルベルクには王太子としての執務があり、リリアーヌには王太子妃として学ぶべきことがあるからだ。
とはいえ、リリアーヌは、礼儀作法や語学、歴史――王太子であるアルベルクが身につけている帝王学に匹敵する知識や所作をすでに完璧に習得しているのだと、彼女の教師たちから聞いている。リリアーヌが王都に戻ってまだひと月ばかりだが、もうするべきことがなくなりそうだと、皆、ぼやいていた。
「今日はお庭でお茶をいただきませんか?」
この日の約束は午後の休憩を合わせることで、リリアーヌは菫色の目を輝かせながらそう訊いてきた。
「庭でかい?」
「はい。この間から、バラがとてもきれいに咲き始めているのです。アルベルク様はまだご覧になっておられないと、庭師から聞きました」
窺う眼差しを注いでくるリリアーヌの後押しをするように、ロジェが頷く。
「ここのところ外の空気を吸われていませんし、良いと思いますよ」
言われてみると、今携わっている王都の孤児院の現状見直しを始めてからというもの、朝から晩まで執務室に引きこもっている。
窓の外に眼をやれば、澄み切った晴天が広がっていた。確かに、散歩日和だ。
「そうだな。そうしようか」
答えた瞬間、リリアーヌの顔が窓の外よりも晴れやかに輝いた。
そんなに庭に出たかったのかと思ったアルベルクの耳に、ロジェがコソリと囁く。
「最近、あなたが根を詰め過ぎているのではないかと、ブランシュ嬢は心配されていたのですよ」
(心配? 僕のことを?)
目が合うと、ロジェは無言で頷いた。
「そうか……」
ロジェとの遣り取りは耳に届いていないのか、リリアーヌを見れば彼女はニコリと笑みを返してきた。と、それを目にした瞬間、アルベルクの胸がギュンと締め付けられる。
(可愛い)
どうして、ただ彼女が笑ってくれるだけで、こんなに幸せな気分になれるのか。
十年を経て再会して、確かにリリアーヌは大人びてきれいになっていたけれども、こんなふうに笑う彼女は、幼い頃の愛らしさが濃くなるのだ。彼女の笑顔は、目にするだけでアルベルクの疲れを吹き飛ばしてくれる。
ロジェとアルベルクの遣り取りが聞こえたのか、リリアーヌはほんの少し申し訳なさそうな顔になった。
「わたくしが思い付きであんなことを申し上げてしまったから、アルベルク様にはご負担をかけてしまって……」
「いや、本来、私たちがちゃんと目を配っておくことだったんだよ。むしろ、礼を言いたいくらいだ」
「そんなこと。でも、お役に立てたなら、わたくしも嬉しいです」
はにかむ彼女は、思わず抱きしめたくなるほど愛らしい。
んん、と小さく咳払いして、アルベルクは気持ちを落ち着ける。
彼が手掛けている孤児院の話を持ってきたのはリリアーヌだ。
彼女は王太子妃教育の合間を縫うようにして、孤児院や施療院など、様々なところに慰問に行っている。
貴族の令嬢が己の身分や気高さを見せるために、年に数回程度、行事のように慰問することはある。アルベルクも、夜会の席などで、さも良いことをしたかのように彼女らから話を聞かされてきた。
だが、フルールにいた頃も毎回のように手紙に慰問先の子どもたちと何をして遊んだなどと書いてきたから、リリアーヌにとっては幼い頃から慣れ親しんできたものであって、特別なことではないのだろう。
そんなリリアーヌが訪問した先の孤児院の建物の傷みに気が付き、アルベルクに相談を持ってきたのは十日ほど前のことだ。
それから王都内に二十以上ある孤児院全てを点検させ、上がってきた報告に眼を通し、結果、衣食は毎年の予算で充分に支給されていたが、『箱』の部分は建てられて以降まったく手を入れられていないところが殆どであることが判明した。その多くが、築数十年を過ぎているというのに。
日々の衣食には充分でも、計算しつくされた予算は多少節約したところで建物の修繕に回せるほどの余りは出せない。
硝子が割れて、代わりに板が打ち付けられている窓がある孤児院があった、と、共にした昼食の席で顔を曇らせながら切り出したリリアーヌの話を聴いたアルベルクは、急ぎ何処がどれだけ修繕を必要としているのかを精査させ、ようやく目途が立ってきたところだ。
リリアーヌが気にかけていることだからついのめり込んでしまったが、そのせいで、彼女には心配をかけてしまったか。
「私がするべきことは粗方終わったから、これからはゆっくりできるよ」
アルベルクの言葉に、リリアーヌが頬を緩める。次いで、唇を尖らせた。
「ロジェから、朝早くから晩遅くまでお仕事だったと伺っています。わたくしが言い出したことですが、アルベルク様ご自身のお身体も大事にしてくださらなければ」
彼女の眼差しには、心配する色が濃くにじんでいる。
「もう、昔のように虚弱じゃないよ?」
リリアーヌの中ではまだひ弱な自分のままなのだろうかと眉を下げたアルベルクに、図星だったのか、あるいはそれをかすったのか、彼女は一瞬唇を噛んでからかぶりを振る。
「どんなに健康な人にだって、お休みは必要です」
リリアーヌはふと視線を下げた。
「……大事なひとには、元気でいて欲しいです」
チクリ、と、アルベルクの胸が疼いた。
リリアーヌのその呟きの『大事な人』は、彼のことだけではない気がする。
何故か、強く、そう感じた。
(他に、誰が?)
リリアーヌにとって大事な存在は、自分だけでありたい。
他の誰かなど、いて欲しくない。
胸をざわつかせたアルベルクだったが、仕切り直すようなロジェの声で我に返る。
「では、中庭の四阿にお茶の用意をさせますから、お二人はお庭をご堪能されてからいらしてください」
「ああ。頼んだ」
頷くと、ロジェは一礼して去っていった。




