二年の後
両開きの扉を押し開け、アルベルクは、中央広間の眩い灯りのもとに歩み出る。
自分の足で歩き、一同の視線をその身に浴びる。
世継ぎの王子としてはごく当たり前なその行為を、この二年間でどれだけ繰り返してきたことか。
ロジェを従えたアルベルクが一歩を踏み出すごとに、広間にどよめきが広がっていく。
「おお、アルベルク王子だ」
「いつもながら、なんとご立派な……」
そこかしこで交わされる囁きには、称賛の響きしかない。アルベルクは、それらを浅い笑みを浮かべて聞き流す。
十八歳になって突如として公の場に姿を現すようになった第一王子に、当初、人々は懸念の眼差しを向けた。
どれだけその場に居続けられるのか、あるいは、今度はどれだけ寝込むのか、と。
いずれにせよ、アルベルクが公務に耐えられる身体を手に入れたとは、誰も信じていなかったのだ。
その流れがようやく変わり始めたのは、半年ほどが過ぎた頃か。
そうして二年が過ぎた今では、誰もが皆、アルベルクが次の王となることを信じて疑わない。かつて、役立たずの王子の烙印を押したことなど、すっかり忘れ去っているようだった。
アルベルクは広間の中央で足を止める。グルリと周囲を見回すと、着飾った令嬢たちが色めき立った。
だが、アルベルクが待ち望んでいた姿がその中には見つからない。
温かな焦げ茶の髪に、可憐な菫の花の瞳を持つ娘の姿が。
「……ブランシュ公爵は到着が遅れているようです」
ロジェの小声の耳打ちに、アルベルクは落胆する。
と、すかさずロジェが。
「アルベルク様、もう少しにこやかに。『あの方』の為にとっておいてある笑顔の百万分の一でもいいですから、他の者にも見せて差し上げてください」
「判っている」
ロジェを一瞬睨み付け、アルベルクは彼の二十歳の誕生日を祝うために集った者たちに向けて笑顔を浮かべてみせた。胸の内には、彼らのことなど欠片も入ってきてはいなかったが。
アルベルクの中にあるのは、一人の少女のことだけだ。
リリアーヌ・ブランシュ。
ようやく会える、彼の唯一無二の存在。
二年前に王都に戻ってくることになっていたリリアーヌだが、それは実現しなかった。アルベルクが自らの足で離宮を出て、王と王妃、そしてフェリクスが朝食を摂る席に踏み込んだからだ。
あの日、王宮はまさに蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
座ることさえままならなかった第一王子が堂々とした足取りで廊下を歩いていたのだから、それも当然だろう。
突然全ての身体の不調が消え失せたアルベルクに、王宮中の侍医らがてんやわんやとなった。好いこととはいえ異常事態ではあり、それが一時的なものなのか、それとも治癒したと言えるものなのか、意見が割れた。アルベルクの動向が不透明になったからであろう、ブランシュ公爵家からも、彼女はまだしばらくフルールに留めておくことにしたという報せがあった。
そうして、アルベルクの身体は完全に治癒したということで良いだろうという結論に落ち着くまでに、結局、二年の月日が費やされたのだ。
アルベルクが健康体になったことは間違いない。医学的にはさっぱり解明できないが、きっと、奇跡が起きたに違いない――誰もが皆、口を揃えてそう言った。
だが、アルベルクにとっては、何故治ったかなどということは、どうでもいいことだった。
それまで寝台の上で本を読むことしかできなかった彼は、馬に乗る技術を身につけ、剣の腕を鍛えた。
十八年間碌に使っていなかった身体だというのに、乗馬も剣も、教える者が心底驚嘆するほどにめきめき上達した。ひと月もしないうちに骨と皮ばかりだった全身はしなやかな筋肉に覆われるようになり、社交の場に出れば、それまで向けられることのなかった熱の籠った眼差しを注がれるようになった。
アルベルクにリリアーヌ・ブランシュという婚約者がいることは、周知の事実だ。
にもかかわらず、彼にすり寄ってくる令嬢が後を絶たなかった。
リリアーヌがいない間にアルベルクと関係を持てれば、とでも思ったのだろう。正妃にはなれなくても、世継ぎの王子に寵愛されれば大きな力を得ることができるだろう、あわよくば側妃に迎えられれば、と。
彼女たちは『アルベルク』という一人の人間を見ているわけではない。彼女たちにとって、彼は、『世継ぎの王子』でしかないのだ。その器にさえ載っていれば、アルベルクでもフェリクスでも、どちらでも構わない。
(リリアーヌのように、『僕』を見ているわけじゃない)
今も、また。
「アルベルク様」
上目遣いに見つめてきたのは、どこぞの伯爵令嬢か。
貴族社会では『価値』が高い、輝く金髪に宝石のような青い瞳。美醜で言えば、確かに美しいのだろう。豊かな胸や括れた腰は、女性としての魅力を撒き散らしている筈だ。
だが、アルベルクには何ら意味がなかった。人形のように整った顔も、女性であることを示威する姿態も、彼の心には何ももたらさなかった。たとえどれだけ良い見てくれをしていようが、打算が透けて見える相手に気持ちが揺らぐはずがない。そもそも、彼女はリリアーヌではないのだ。
恐らく彼女はこれまで数多の男を虜にしてきたに違いない。しかし、その自負が溢れる眼差しが、アルベルクの微動だにしない冷ややかな視線で揺らいでいく。
「あ、の……失礼、いたしますわ……」
夕の朝顔さながらにしおれて去っていく令嬢を、ロジェが気の毒そうに見送った。
「そう無下にされなくても……」
「一人に甘い顔をすればまた次が来る」
まだ社交界に顔を出し始めた頃、ロジェの言う通りに社交辞令を放ったら、散々な目に遭った。それ以来、下手な愛想は振らないことにしたのだが、未だに今のようなことがある。
煩わしいことこの上なかったが、それももう終わりだ。
今日からは、リリアーヌが常に彼の隣にいることになるのだから。
二年間、この日を待ち続けていた。
寝台の上で「いつか会えたら」と夢想するのではなく、王子として、リリアーヌの婚約者としてこなして当然のことをこなしながら、ひたすらこの日が来ることを――リリアーヌに会える時を待っていた。
「アルベルク様」
それまでとは違う緊張をはらんだ声でロジェに呼ばれ、アルベルクはハッと我に返る。と同時に、見えない糸に引かれたように、彼の眼は殆ど反射的に入り口の方へと動いていた。




