雪の中の出会い
鼓動まで凍り付いてしまいそうな雪の日が、続いていた。
もう何日も仔ネズミ一匹口にできておらず、飢えで目が回りそうだった。
(母さん。母さん、どこ)
か細い声で鳴いても、応えはない。
鼻をもたげて空気を嗅いでも、母のにおいも兄弟のにおいも感じ取れない。
彼は、独りぼっちだった。
心細くて、また、情けない声が漏れる。
五匹いる兄弟の中で、彼は一番弱い仔だった。単に、弱いから皆についていけなかったのか、それとも、弱いから、切り捨てられ、置いて行かれたのか。
項垂れた彼の鼻先が雪に埋もれ、思わずくしゃみが出る。
ふと、母や兄弟たちの金色の目が脳裏をよぎった。彼に眼差しが向けられるときは、いつだって、母のそれには諦めの、兄弟たちのそれには侮蔑の光があった。
捨てられたのだとしても、仕方がない。
なりも小さく、力も弱く、兄弟も母も夜闇のような体毛を身にまとっているのに、彼だけはこの雪のような色をしていた。葉が生い茂る中でも枯れ草の中でも白い身体は否応なしに目立ち、狩りで足を引っ張るのはいつも彼だった。
寒い。
寒い。
ひもじい。
感覚のない四肢で、どこに向かっているのかも判らないまま、彼はひたすらに進む。歩みを止めたらそこで終わりだと、本能で悟っていた。
肩まで埋まる積雪の中をヨロヨロと溺れるように動き、ようやく、風と雪をしのげる場所を見つけ出す。寒さは変わらないけれど、雪に埋もれてしまうことは免れそうだ。
ああ、でも。
(寒い)
彼は、また鳴いた。
母の、兄弟の温もりが、恋しかった。この声を聞きつけて、捜しに来て欲しかった。
(母さん)
また、ひと鳴き。
誰も来てくれないことは判っていても、寒さと心細さ、それに飢えで、鳴かずにはいられない。
誰か。
誰か。
――その呼びかけに答えるように。
「見つけた」
そんな『鳴き声』に続いて覗き込んできたのは、夕焼けを通り越し、夜のとばりが下ろされる前の、空の色。銀世界の中に唐突に現れたその色に、彼は一瞬目を奪われ、次いで、気づく。
ヒト、だ。
刹那、彼の胸の中は警戒心一色で塗り上げられる。
ヒトは、森の中でも見たことがある。目の前にいるものよりもずっと大きく、もっとゴツゴツしていたけれど。
母は、ヒトを見たら隠れろと言っていた。
十やそこらは我らの敵ではないが、一体傷付けると群れでやってきてとことん追われるようになるから、近づかない方が良いのだと。
風雪をよける為に潜り込んだ場所は袋小路で、逃げるに逃げられない。絶体絶命だ。
(あっち行け! 痛い目遭わせてやるぞ!)
彼は奥の壁にピタリと身をくっつけて威嚇の唸りを上げようとしたけれど、力が入らない喉からは隙間風のような音しかしなかった。
精一杯に毛を逆立てて身体を膨らませた彼のことなどまるで恐れたふうもなく、小さな手が伸びてきた。それは、雪で縒れ、薄汚い塊となり果てた彼をためらいなく触れてくる。胴の辺りがそっと掴まれたと思ったら、問答無用で運び出されてしまった。
「冷たい」
小さいヒトが何か鳴いても、彼とは全然違う鳴き声だから、意図は通じない。ただ、ギュッと包み込んでくる温もりは、心地良かった。まだ赤ん坊だった頃の、母の腹の上で感じていたものと、よく似ていた。
「お母さまとはぐれてしまったの? こんなに小さいのに、可哀想。でも、もう大丈夫だからね」
また、ヒトが鳴いた。
やっぱり彼には意味が解らなかったけれど、その鳴き声で、どうしてか、不思議なほどに不安が和らいだ。体力が尽きていたからというだけでなく、この小さいヒトの腕の中にいると、抗う気持ちがシュルシュルと消えていく。
「リリアーヌ様、急に駆け出したら危ないですわ」
また別の鳴き声がして、小さいヒトが立ち上がり、振り返る。そこにいたのは彼を抱くヒトよりもずっと大きいヒトだったが、やっぱり、森で見たことがあるヒトとはずいぶん違う。
「コレット」
「……何を抱いていらっしゃるのです?」
覗き込んできた大きいヒトに、小さいヒトが少し腕を開く。途端に、冷たい空気が入り込んできて、彼はブルリと身を震わせた。それが伝わったのか、また、小さいヒトがすっぽりと包み込んでくれる。
「仔猫みたい。まだとても小さいの」
「まあ、きっと、秋産まれの仔ですね。雪で母親とはぐれてしまったのでしょう。冷え切っているでしょうし、それに何より、汚れていますね。まずはお風呂に入れてあげましょう」
大きいヒトと小さいヒトは何やら鳴き合いながら歩き出す。
しばらくすると、それまでとは打って変わって温かくなった。やけに明るくて、風も全然吹いていない。
何だかすごく安全に思われて、彼はホッと安堵する。そのせいか、妙に眠くなってきた。
小さいヒトの腕の中で運ばれながらウトウトし始めた彼だったが、突然、温かい水の中に放り込まれてしまう。
(溺れる!?)
バシャバシャともがいた彼だったが、頭から更にその水を被せられて、ブルッと払う間もなく変なにおいがするものを塗りたくられて、大きいヒトにわしゃわしゃと身体中を掻き混ぜられる。
彼の抗議の声などお構いなしだ。
噛みついたり引っかいたりしてやろうにも、ことごとくかわされてしまう。
彼がすっかり諦めの境地に入ったところでようやく温かい水から出されて、びしょ濡れの身体をふわふわしたもので包み込まれる。
(これは、気持ちいい)
それに包まれていると、段々、体毛が乾いてきた。
「わあ、見て、コレット。ふわふわだし、すごくきれいな白銀色」
小さいヒトがひときわ高い鳴き声を上げ、大きいヒトと小さいヒトの眼が彼に注がれる。
「ああ、これは……生まれつき色素がない仔ですね」
「しきそ?」
「はい。多分、本当は黒とか茶色とか、そういう色をしている種なのだと思います。目が赤いのも、色素がないものの特徴です」
「ふぅん?」
小さいヒトはコトンと首を傾げ、まじまじと彼を見つめてきた。
「この仔をお育てになるのですか?」
「だめ、かな」
「リリアーヌ様が為されることに否と申せる者はこの城にはおりませんが……色素が薄い仔は弱いことが多いのです。あまり、長くは生きないかもしれません」
「そんな!」
小さいヒトが、大きく鳴いた。と思ったら、高く持ち上げられる。
目の高さが同じになって、夕暮れ時の空の色を映した瞳が彼を覗き込んできた。
「あなたの名前は――リルよ。私はリリィ。リリィとリルで、姉弟みたいでしょう?」
こんなふうに真っ直ぐな眼差しで彼を見てくる者は、今までいなかった。
何故だか妙に腹の辺りがそわそわして、彼はミャァと一声あげた。と、小さいヒトは目をしばたたかせ、次いで、それを細める。
「ふふっ。気に入ってくれた?」
小さいヒトは彼を胸元に引き寄せ、片方の手で毛皮を撫で下ろす。
「もう大丈夫。もう、寂しくないわ。あなたはわたしが守ってあげる。だから、ずっとわたしの傍にいてね?」
繰り返されるその動きは、彼に、まだ小さく幼かった頃に母がしてくれた毛づくろいの心地良さを思い出させた。