命の重さ
8月下旬の『この日』、午前8時に少し前。
つい無意識に、彼は・・・沢谷は、隣の男の声とその言葉を聞き取ろうとした。
そして、彼の耳はハッキリと聞き取ってしまったのだ・・・隣の男の、震える声と言葉を・・・。
「もう直ぐ楽になる・・・もう直ぐ楽になる・・・・もう直ぐ楽になる・・・」
その微かな震える声と、呪文の様に繰り返す場違いな奇妙な言葉の繰り返しに、隣に立つ沢谷は奇妙な胸騒ぎを覚えた。
だからだった。
彼が、それまで目を落としていたスマホからその視線を引き剥がし、右隣りで独り言を繰り返す男の横顔を窺うかがったのは。
手にしてるスマホの画面には、メールの受信画面が表示されていた。
更に近づいた電車の音で聞こえなくなったが、うつむく男は、尚も同じ言葉を繰り返してるのが見えた。
口の動きで、そう解るからだ!
男の顔越しに、これから乗る電車がブレーキ音を鳴らしながら近づくのが見える。
減速した電車は、それでも尚、結構早いスピードで近づいて来た。
電車のパンタグラフから小さな火花が散り、パッと爆ぜた音がホームに聞こえた。
隣の男の異様な雰囲気から一瞬でも逃れたった彼は、その光と音に注意を移した。
しかし、一瞬で、その近づく電車が人影に遮られ見えなくなった。
隣の男が、彼と電車とを結ぶ視界に移動したからだ。
彼よりも目の前の男の方が背が高く、体も大きかったからだった。
身長は175ほどで、体重も80キロは超えるであろうと思われた。
見れば、そのスーツ姿の男は、手に下げていたスーツケースを両手で抱きかかえていた。
そして、さっきまでと同じ独り言を繰り返しながら、ゆっくりと・・・そう、とてもゆっくりと前に歩き出したのだった。
この時、二人は最前列であった。
ホームで立って居る位置は、いわゆる白線の内側であったので、それは危険な行為に沢谷には思えた。
しかし、電車が来るにはまだ15秒程あったので、沢谷は男を引き止めるかどうか迷った。
そして恐らくは、気になった最初から直感的に感じていた事を、沢谷は、ここに来て初めて言葉で思った。
(この人・・・自殺する気じゃ・・・・。)
しかし沢谷には、今時、見知らぬ他人の体をいきなり掴むのは、おかしなトラブルに巻き込まれる様に思えたし、もしかしたら、自分の想像が飛躍しすぎて、そんな事が自分の日常に起こる筈が無いとも思えた。
それがこの瞬間も彼を傍観者にさせて居た。
一瞬だった。
一人の男の命の行方が沢谷に委ねられたのは。
隣の男が、ゆっくりとホームの前へと歩き出したと思った直後、彼はスッと加速しホームの前に飛び出したのだ。
電車がホームに滑り込む、僅か10秒にも満たない時間にである。
沢谷は声を出せなかった。
声を出しても全ては手遅れなのは分かっていた。
だから、とっさに出したのは右手だった。
そして同時に、列車に飛び込もうとする男を掴む為にホームの端へと飛び出した。
彼の右手は、ホームの下の軌道上へと重力加速し始めた男のスーツの襟首の後ろを辛うじて捕まえた!!
直後、ホームに居合わす多くの人達が、その光景に気が付いた。
女性の悲鳴が近づく列車の音を掻き消す程に響き渡る!
ズン!!っと、沢谷の右手に大きな重量が掛かった!!
とっさに沢谷は、左手に持ってたスマホを線路へと投げ込んだ!
それは良い判断だった!
今は他人とはいえ人の命が掛かってるのだから!!
両手が使えるように成った沢谷は、直ぐに自分の右手の加勢が出来た!
だから、腰を落とし両足で踏ん張りながら捕まえた男の体を、ホームの縁に引っ掛ける形で宙吊りにする事が出来たのだ!!
目前に迫った列車は汽笛を鳴らし、非常ブレーキを掛けたが、けたたましい音を出すばかりで、この事態には間に合いそうも無かった!
このままでは電車とホームの隙間にこの男が挟まれる危険が大きい!
声など出しても全て手遅れのタイミング・・・。
僅か数秒の間に沢谷は、選択を迫られた!
それは、自力で男を引き揚げるのを続けるか・・・離すかだ!!
引き揚げられなければ、沢谷は、自分の手でこの男を殺す様なものだった。
しかし、手を放してしまえば、男はとっさにホームの下に逃げ込むかも知れないが、全ては運任せの他人任せとなる。
巨大にも見える電車は、もう目前だった。