表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/12

命の重さ

 8月下旬の『この日』、午前8時に少し前。


 つい無意識に、彼は・・・沢谷は、隣の男の声とその言葉を聞き取ろうとした。

そして、彼の耳はハッキリと聞き取ってしまったのだ・・・隣の男の、震える声と言葉を・・・。


「もう直ぐ楽になる・・・もう直ぐ楽になる・・・・もう直ぐ楽になる・・・」


その微かな震える声と、呪文の様に繰り返す場違いな奇妙な言葉の繰り返しに、隣に立つ沢谷は奇妙な胸騒ぎを覚えた。

だからだった。

彼が、それまで目を落としていたスマホからその視線を引き剥がし、右隣りで独り言を繰り返す男の横顔を窺うかがったのは。

手にしてるスマホの画面には、メールの受信画面が表示されていた。

更に近づいた電車の音で聞こえなくなったが、うつむく男は、尚も同じ言葉を繰り返してるのが見えた。

口の動きで、そう解るからだ!

男の顔越しに、これから乗る電車がブレーキ音を鳴らしながら近づくのが見える。

減速した電車は、それでも尚、結構早いスピードで近づいて来た。

電車のパンタグラフから小さな火花が散り、パッと爆ぜた音がホームに聞こえた。

隣の男の異様な雰囲気から一瞬でも逃れたった彼は、その光と音に注意を移した。

しかし、一瞬で、その近づく電車が人影に遮られ見えなくなった。

隣の男が、彼と電車とを結ぶ視界に移動したからだ。

彼よりも目の前の男の方が背が高く、体も大きかったからだった。

身長は175ほどで、体重も80キロは超えるであろうと思われた。

見れば、そのスーツ姿の男は、手に下げていたスーツケースを両手で抱きかかえていた。

そして、さっきまでと同じ独り言を繰り返しながら、ゆっくりと・・・そう、とてもゆっくりと前に歩き出したのだった。

この時、二人は最前列であった。

ホームで立って居る位置は、いわゆる白線の内側であったので、それは危険な行為に沢谷には思えた。

しかし、電車が来るにはまだ15秒程あったので、沢谷は男を引き止めるかどうか迷った。

そして恐らくは、気になった最初から直感的に感じていた事を、沢谷は、ここに来て初めて言葉で思った。

(この人・・・自殺する気じゃ・・・・。)

しかし沢谷には、今時、見知らぬ他人の体をいきなり掴むのは、おかしなトラブルに巻き込まれる様に思えたし、もしかしたら、自分の想像が飛躍しすぎて、そんな事が自分の日常に起こる筈が無いとも思えた。

それがこの瞬間も彼を傍観者ぼうかんしゃにさせて居た。


 一瞬だった。

一人の男の命の行方が沢谷に委ねられたのは。

隣の男が、ゆっくりとホームの前へと歩き出したと思った直後、彼はスッと加速しホームの前に飛び出したのだ。

電車がホームに滑り込む、僅か10秒にも満たない時間にである。

沢谷は声を出せなかった。

声を出しても全ては手遅れなのは分かっていた。

だから、とっさに出したのは右手だった。

そして同時に、列車に飛び込もうとする男を掴む為にホームの端へと飛び出した。


彼の右手は、ホームの下の軌道上へと重力加速し始めた男のスーツの襟首の後ろを辛うじて捕まえた!!


直後、ホームに居合わす多くの人達が、その光景に気が付いた。

女性の悲鳴が近づく列車の音を掻き消す程に響き渡る!


ズン!!っと、沢谷の右手に大きな重量が掛かった!!

とっさに沢谷は、左手に持ってたスマホを線路へと投げ込んだ!

それは良い判断だった!

今は他人とはいえ人の命が掛かってるのだから!!

両手が使えるように成った沢谷は、直ぐに自分の右手の加勢が出来た!

だから、腰を落とし両足で踏ん張りながら捕まえた男の体を、ホームの縁に引っ掛ける形で宙吊りにする事が出来たのだ!!

目前に迫った列車は汽笛を鳴らし、非常ブレーキを掛けたが、けたたましい音を出すばかりで、この事態には間に合いそうも無かった!

このままでは電車とホームの隙間にこの男が挟まれる危険が大きい!

声など出しても全て手遅れのタイミング・・・。

僅か数秒の間に沢谷は、選択を迫られた!

それは、自力で男を引き揚げるのを続けるか・・・離すかだ!!

引き揚げられなければ、沢谷は、自分の手でこの男を殺す様なものだった。

しかし、手を放してしまえば、男はとっさにホームの下に逃げ込むかも知れないが、全ては運任せの他人任せとなる。


巨大にも見える電車は、もう目前だった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ