見てみぬ振りは見えざるが如し
男の名は『封念』
流浪の行を続ける僧侶である。
都心に在るS駅の出入口から少し離れたビル群に囲まれた歩道の上で念仏を唱えながら托鉢を行って居た。
御歳68。
細身というより、痩せ細った体をした小柄な僧侶だった。
8月下旬の『この日』の朝7時少し過ぎ。
早くも30度を越える暑さの中で、数年に渡り風雨と日差しに晒されくすんだ飴色の網代笠が作る影に、封念はその頭部と肩の辺り以外入る事も無く、経を唱え続けて居た。
既に日差しが強いのにもかかわらず、彼の体は、ビルや高架道路の影の中には無かった。
それが彼の意志として、そうしてるのか。或いは、陽射しを避ければ楽になることを考えられないのか。
それとも、そうして陽射しを避ける事を修行の在り方として良しとしてないからなのかは、この時の本人に訊ねる者が無い限り、知り様も無い事であった・・・。
この過酷な状況は、生気に満ちた若者であっても、そう長くは立って居られないであろう・・・。
それでも、そんな修行を続ける彼に少しばかりの涼を届けてくれるものがあった。
それは、彼が立つ歩道のすぐ近くを流れる、コンクリートで固められたS谷川を吹き抜ける生温い微風である・・・。
彼が、この場でこうしてから既に40分が過ぎようとしていた。
ここで一度、彼は托鉢に用いてた鉢に入れられていた幾らかの小銭を取り出した。
それは、米など持ち歩く筈もない通行人の中の数人が分け与えてくれた、少しばかりの、お金だった。
彼はその金額を数える事も無く懐に閉まった・・・。
そして徐に、顎紐で固定し頭に載せてる笠を右手で捕まえ、グッと引き上げた。
その顔は黒く日焼けして、年相応以上の深いシワが刻まれていた。
「何処ぞの喫茶店かカフェ~で、アイスコーヒーぐらいは飲みたかったのだが・・・・これは、自販機で買うしかないなぁ。」
痩せ細った老体は、それでも精気に満ちていた。
それは黒く日焼けし、深いシワが刻まれた、この時の彼の表情を見れば明らかたっだ。
彼は、なにも・・・・いや、何一つ落胆して無かったからだった。
それは、僧侶として積んで来た長年の行の成せる業だったのだろうが・・・彼の天性の性格に寄るところだったのかも知れない。
何れにしても、彼は今日、自らに課した行を一つ終えた。
その托鉢で得た少しの糧(お金)は、この老僧を、もう数日生き長らえさせる事だろう。
「さ~て。ここからは、万霊にお釈迦様の教えを説いて回りますかな・・・。」
そう都会の喧騒のなかで独り言を呟いた老僧は、左手に持った握り柄の付いたベルの様な形をした鈴を「チリ~ン」と、一つ鳴らすと、経を唱えながら歩き出し、この30分程で行き交う人々がグッと増えたS駅の出入口へと向かった。
僧侶封念はS駅を可能な限り汲まなく歩き念仏を唱えるつもりであった。
しかし、駅に入って20分も歩いてみると、それは容易成らぬ事であると悟った。
駅の構内の案内に従って歩いても、思ってた場所とは全く違う場所に辿り着いたからだった・・・・それも3度である。
「どうなってるのだこの駅は?」
流石の封念も少々疲れた。
それは、歩いた距離に寄るものではなかった。
この程度の距離は、彼は日常的に何の苦もなく歩けるのである。
それでも少々とは言え疲れを感じさせたのは、自分の現在地が曖昧に感じられたからだった。
「おかしいなぁ・・・・案内板の通りに歩いた筈なのだが・・・。」
S駅構内は、例えるなら迷宮であった。
古くから存在したこの駅は、近代化に近代化を重ねた結果として、この様な構造と成ったと言われている。
近代化と言えば聞こえが良いが、要は増築と改修を重ねた結果、極めて複雑な構造と成ってしまい、そのつじつま合わせにさえ苦心してる状態の駅だ・・・と、一般的にはそう解釈されていた。
「迷える者逹を慰めに来たのだが・・・まさか自分が迷うとはなぁ・・・。」
ヤレヤレといった感じの独り言を封念は呟いた。
(冥土への水先案内人が、現世で道に迷よ~とは・・・。)
そう思った封念は、そこから瞬時に気持ちを切り替え思った。
これはこれで、(お釈迦様の思し召しなのやも知れぬ。)と・・・。
そうして、封念は、駅の構内を見渡し、案内板を見詰めた。
(さて、私を迷わすこの駅の案内・・・・。)
封念は少し考えに耽り、構内を歩き回った記憶を辿った。
「迷わすは、現世の人か・・・・それとも・・・・。」
彼は多くの人々が目的地へと向かって急ぎ足で行き交う駅の構内に在りながら、そこが無人であるかの様な静寂の中へと意識が入り込んで行くのを感じた。
すると、自分の周りを行き交う人々と入れ替わる様にして、薄っすらした影たちが行き交うのが見え始めた・・・。
直後。
封念はハッとして辺りを見回した・・・。
日焼けした顔には、さっきまでの夏の暑さに因る汗とは違う汗が滲んで居た・・・。
「こんな事で脂汗をかくとは・・・・。」
彼は、修行僧としての自らの若輩さを悔いた。
しかし、その思いは一瞬だった。
それは、僧とは、そうした感情を持って居ては成らぬからだった。
彼は平常心を取り戻すと同時に、一つの決意をした。
(成らば。この場所で最も苦しみもがく憎念が吹き溜まる場所へ行って経を唱えるか・・・。)・・・と。
封念は、駅構内を急ぎ足で行き交う人々の中で、鈴を一つ鳴らした。
続けて経を唱える。
少しの距離を歩きながら辺りを見回すと直ぐに、ホームへと通じる階段が見えた。
この時、階段は自分を招き入れようとしてる様に封念には見えた。
「うん!」と、力強く独り頷き意を決っした彼は、より強く経の続きを唱え始めた。
そうして封念は一心に経を唱えつつ、真っ直ぐに駅のホームへと続く階段を踏みしめる様に登り始めたのだった・・・。