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そして 生者と死者
日常と非日常なら 多くの人々は日常を生きて居たいだろう
非日常が持て囃されるのは 楽しい事だけなのだから・・・
都心に在るS駅。
そこは一日の乗降者数が極めて多いことでも全国的に知られている。
盆の連休も明けた8月の下旬の朝の通勤ラッシュ時。
多くの乗客が次の電車が到着するのをそのS駅のホームで待って居た。
ある者は、仕事用のスーツケースを片手にぶら下げて。
ある者は、流れる汗をハンカチで拭きながら。
そして、それらの行動をする者もしない者も含め、多くの者達はスマホを片手に持ちなが、その小さな画面を眼前に近づけて、意識の一部を此処とは別の世界へと移して居たのだった・・・。
すると間もなく、そこに居並ぶ人々が待つ素振りも見せずに待って居る次の電車がホームに入るとのアナウンスがあった。
このホームに居る人達は皆、その電車の到着を待ち望んで居るからこそ、ここに居る筈なのに、その電車に関心を示す者は誰も居ないかの様な光景だった。
しかし、ただ一人だったろう。
この電車の到着に異様な関心を示す行動をし始めた者が居たのだった。
それはスーツを着込んだサラリーマンといった感じの、40歳後半ぐらいの男だった。
男は、うつむいてホームに電車が入って来る最初の方に立って居た。
そこは、電車が止まった時には最後尾になる場所だ。
男は一度、電車が来るのを、その顔をうつむかせたまま横目で見た。
そして視線をまた足元に戻すと、ほんの僅かだったが・・・薄っすらと笑った・・・。
その目は虚ろだったが、男のそんな姿に関心を示す者は誰も居なかった。
男は頻りに何かを呟いていた。
それは、とても小さな声だったので・・・近づく電車が出す音に掻き消されるところだったが、男の左隣りで同じく電車が来るのを待って居る若い男は電車の音を気にして居たので、同じ方向から聞こえる隣の男の呟きが、聞くとも無く聞こえて来たのだった。
それで、つい無意識に、彼は隣の男の声とその言葉を聴き取ろうとした・・・。
そして・・・彼の耳はハッキリと聞き取ってしまったのだ・・・隣の男の、震える声と言葉を・・・。
「もう直ぐ楽になる・・・もう直ぐ楽になる・・・・もう直ぐ楽になる・・・」
その微かな震える声と、呪文の様に繰り返す場違いな奇妙な言葉の繰り返しに、隣に立つ彼は奇妙な胸騒ぎを覚えた。
だからだった。
彼が、それまで目を落として居たスマホからその視線を引き剥がし、右隣りで独り言を繰り返す男の横顔を窺ったのは。
彼が手にしてるスマホの画面にはメールの受信画面が表示されていた。
『沢谷 のぼる』
受信者の名前・・・本名なのかどうなのかは分からないが、それが、このスマホの持ち主の名前だった。
沢谷は、辺りを見回した。
それは、他に誰かこの異変に気付いてる人が居ないかと探す行動であったろう。
更に近づいた電車の音で聞こえなくなったが、うつむく男は、尚も同じ言葉を繰り返してるのが見えた。
口の動きで、そう解るからだ。
男の顔越しに、これから乗る電車がブレーキ音を鳴らしながら近づくのが見える。
減速した電車は、それでも尚、結構早いスピードで近づいて来た。
電車のパンタグラフから小さな火花が散り、パッと爆ぜた音がホームに聞こえた。
彼は思った。
何時もなら、ホームに入り停車する電車は、とてもゆっくりと近づいて来るように見えるのにと・・・。
後にも先にも、彼の人生の中で、この日ほど電車の速度が速いと思った事は無かったのだった。