統一すべきは視点、それとも……
2018年10月5日のツイートを元にしています。
https://twitter.com/cityborderfront/status/1048423133865160705
大筋は変えていません。でも加筆、修正はそれなり、かな。
視点変更はいけない、みたいなことを良く聞きますが。その話にしっかりとしたテーマがあって、同じことの繰り返しにならなければ、案外行けるのではないかな、なんて思います。
――まあ、拙作の場合、視点変更に慣らされた(極少数の)人が残っているだけだと思いますが。
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長編の中の一話で、「視点が飛び石みたいに飛びまくる」のに「面白い」と感想で頂いたことがあります。実際、その話は本当に視点が飛びまくっていました。
①導入:三人称
②シーン1:主人公の一人称
③シーン2:大昔の回想を三人称で
④シーン3:主人公の一人称
⑤シーン4:悪役側の三人称
⑥締め:主人公の一人称
そりゃあ、これだけやれば、「視点が飛びまくる」なんて言われます。それでも、その読者にとっては、確かに面白かったのだと思います。その感想に嘘はなかったのかなと。――まあ、あれかな、お得意さま補正もあるとは思いますが。
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まあ、「なろう受け」を度外視すればね、視点、人称を変えていく手法も決して新しくなかったはずです。ルールみたいなことを言っても、大抵の場合はそれを否定するような作品が、どこかにはあるんですよね。
ですがそれは、違うことをしても「目新しいことにはならない」ことの証でもあるかなと。人称とか文体とかをどういじくったところで、個性にはならない、そう思います。
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伝えたい何か(テーマ)が無いと、起承転結や序破急は作れません。逆に言えば、テーマがあれば起承転結や序破急は作れます。Wikipediaの「起承転結」の項を見ると、以下のような例文があります。
起:大阪本町 糸屋の娘
承:姉は十六 妹が十四
転:諸国大名は 弓矢で殺す
結:糸屋の娘は 目で殺す
転の「諸国大名は弓矢で殺す」、これは視点変更ではないでしょうか。
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結局のところ大事なのは、「その文章で何を伝えたいか」なのだと思います。これはエッセイだろうが小説だろうが変わらないし、「エンタメ」「娯楽」と言っている作品でも同じかな、なんて思います。
――多分、私の小説には私の色が乗っている。でも、それは人称とか、そんな書き方とかは関係ない話で。「その文章で何を伝えたいか」そこから生まれているのかなと、そんな風に思います。
視点変更に関しては、別にエッセイを書きたいな、なんて思っているのですが。なかなかに難しいです。