創作の深淵。
2020年12月14日のツイートを元にしています。
https://twitter.com/cityborderfront/status/1338497533136445440
まあそれなりに改変を。ツイッターとなろうの違い、あと見直しの結果。
なんでツイッターだと微妙な文章のまま投稿してしまうのだろう(笑)
小説執筆って、どういう人を愛してどういう人を憎むか、如実に出る趣味だと思う。で、その傾向がある程度重なってるといいなと感じたりすると。
ただ、深く潜らないと自分自身もその辺りを把握していないのが普通で、表面に出たありきたりな価値観で好き嫌いを語ることが多いのかなと。
ぶっちゃけ、取り繕ったようなありきたりな善悪や愛憎しか書けない人だと、読者の表面を撫でるだけで終わってしまう。それで終わらない作品にするために、始めは浅く、次第に深く書いていく訳だけど、それは同時に、価値観の違う人や深いところに行きたくない人を置いていくことになる訳で。
その深い所に読者を連れていける人ほど、作家として強いということになると思う。
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良い人は好き、悪い人は嫌いなんて価値観だと、どうしたって深みは出ないと思う。例えば最近、ツイッターで「何だかなぁ」と思うような発言を見かけることが増えたけど、それをそのまま「何だかなぁと思う言動をする人=悪人」なんてとらえ方をする人は、そういう悪人しか書けなくても不思議じゃない訳で。
そりゃあ、「何だかなぁとため息が出るような人」が悪を背負った作品なんて、面白い訳が無いよねと。
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勧善懲悪、喜劇、風刺、恋愛、何を書くにしろね、「ありきたりでない善悪好悪」を書く必要はあると思う。そしてそのためには、「ため息をつきたくなるような何か」をそのまま善悪でとらえない方が良いのかなと。
本当に、善人を好んで悪人を憎む、そんな人が同じような人に向けて書くのなら、それも良いと思います。ですが、本当にそれだけですか?
――罪人も狂人も愚者も、時に好ましく感じることもありますし、何でもないことに憎しみを感じたり、妬ましいと思うこともあります。それはきっと、誰しもが持つ感情です。
どれだけ単純に見える物語も、それを読みたいと思わせる「何か」はある。それはきっと、ありきたりな価値観ではなく、もっとこう、人間の奥底に潜むありきたりでない何かに根ざしたものなのかなと。
作家はね、そんな「深淵」を、深くのぞき込んだ方がいいのかなぁ、なんて思います。
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――なお、深淵をのぞき込んだことによる弊害は知りません。自己責任でお願いします。




