声を上げるということ
2019年6月21日のツイートを元にしています。
https://twitter.com/cityborderfront/status/1142078607293964291
またもや少し間をあけてしまいました。ごめんなさい。
内容云々よりも、そうですね、結論を追加したことが一番の修正内容でしょうか(笑)
最近ツイッターで、昔からあった「絵師ガチャ」という言葉が話題になりまして。で、この言葉を久しぶりに見た私はふと、今年の初めに書いたエッセイのことを思い出しました。
――そのエッセイで私は、「絵師ガチャ」という言葉を、批判的な論調で取り上げました。
絵師ガチャという言葉はただの責任転嫁で、小説が売れなかった責任は全て作者に帰すべきだし、作者も『絵師ガチャなんてことを言う人はファンじゃない』と言うべきだと、私はそのエッセイの中で強く主張しました。
もちろんこの主張は、趣味作家としての立ち位置での言葉です。この言葉が絵師の立場に寄り添った言葉かと言えば、微妙だと思います。ただ、絵師ガチャという言葉は「作家」側から見てもおかしい、とても容認できる言葉ではない、そんな思いから綴った文章でした。
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まあ、そんな過激な主張をした訳ですが。「なろうエッセイジャンル」という場所は、たくさんの意見が次から次へと表れては消える、そんな性質があります。私の意見も、そんな多くの意見の一つとして、ほんの少しだけ目立った後、順当に消えていった訳です。
数日間、たった千人の人に読まれただけの作品です。今では全てのランキングから落ちて、一日に数人の人が見にくるだけの作品です。では、そこに込められた言葉は消えてしまったのでしょうか? ランキングから落ちて、輝きを失ったのでしょうか?
――私は、そうは思いません。
自分の主張が多くの人に触れている時には、読まれている、誰かに影響を与えているという確かな実感があります。ですが、その実感は、「自分の言葉として、ずっと置いておくことのできる言葉」だからこそ得られるものだと思います。
――今もこれが自分の意見だと胸を張って置いておける、そんな言葉だからこそ、あの作品は輝けたのだし、私が胸を張っている限り、あの作品は今も輝いていると、そんな風に思うのです。
◇
今回、久しぶりに「絵師ガチャ」という言葉を見て、やはりこの言葉は間違っていると私は感じました。そんな私の、この「絵師ガチャ」という言葉に対する一つの意見として、私のエッセイはなろうの片隅にあり続けています。
――そうやって、静かに置かれているだけでも、きっと価値はあるのです。
今の私には、数百人、せいぜい千人程度の人に読まれる程度のエッセイしか書くことができません。ですが、それはきっと大事なことではありません。自分にとって価値のある言葉を放つ、自身を裏切らない言葉を放つ、これこそが、「声を上げる」ために必要なことではないかと、そう思うのです。
――そして、そんな自分自身を表した言葉だからこそ、その言葉には、たとえさざ波でも波を生むことができるだけの力が宿り、その波を立てたことに悔いることもなく、堂々としていられるのかなと、そんな風に思います。




