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諏訪の湖(二)

 先に気がついたのは信勝の方だった。

 信勝は、「あっ」と驚いた顔をして慌ててその場に膝をつこうとした。


 それに気づいた小姓たちや侍女が一斉に畏まったその時。


 湖上を渡って春の夕暮れの風が、さあっと吹き過ぎた。


 湖岸の桜の花びらがいっせいに舞い散り、それと同時に水面で羽を休めていた水鳥たちが一斉に飛び立った。

「まあ、綺麗……!」


 こちらに背を向けていたせいで、まだ勝頼に気づいていないらしい佐奈姫が声をあげて駆け出した。

「姫さまっ」


 すでに勝頼に気づいていた乳母の藤野が悲鳴のような声をあげる。


 けれど、目の前の光景に気をとられている佐奈姫は、そのまま岸辺の方に駆けてゆき、雪のように降りしきる桜の花びらを手のひらに受けようと両手を差し伸べてぴょんぴょんと小さく跳ねている。


「も、申し訳ございませぬ。姫さま……っ!」


 泣きそうな顔で勝頼に頭を下げて姫を追っていこうとする藤野を制して、勝頼はゆっくり佐奈姫の方へ歩いていった。

 佐奈姫は、てのひらを天に差し伸べたまま振り返らずに言った。


「御館さまの仰ったとおり、 ここは夢のように綺麗なところね。相模の海のように広くはないけれど、でも同じくらい綺麗。ねえ、藤野。私、この国が相模の国と同じくらい好きになれそうな気がするわ」


 勝頼は思わず笑った。


「それは何よりだ」


 佐奈姫が弾かれたように振り返る。


「御館さま」

「諏訪の湖は美しいであろう。余もここの風景が一番好きだ。姫の気に入ったのなら何よりだ」

「も、申し訳ございません」


 佐奈姫は、身を縮めて頭を下げた。


「そこはあまりに水際で危ない。こちらへ」


 手招くと、佐奈姫は勝頼のそばにやって来た。


 その髪にはいくつも桜の花びらが貼りついていた。


 勝頼はそれを取ってやりながら姫の頬に触れた。

 長い間、湖畔で風に吹かれていたその肌はひどく冷たかった。


「春とはいえ日が傾くと冷える。そろそろ館へ戻るが良い」


 佐奈姫は「はい」と、素直に頷いたが、勝頼が尚も湖に目を向けたまま立っているのを見て、

「御館さまは…」

 と遠慮がちに尋ねた。


「余はもう少しあたりを歩いていく。信勝たちと先に戻っておれ」


 勝頼の声が聞こえたらしく藤野が姫を迎えるべく近寄ってきたが、佐奈姫はそちらへ行こうとは

 しなかった。


 困ったような顔をしながらじっとそこに立っている。


「いかがした?」


 勝頼が尋ねると何か答えようとして恥ずかしそうに口ごもった。


「何だ。言いたいことがあれば言うが良い」

 と促すと、意を決したように顔をあげて


「あの、お邪魔でなければ佐奈もお供いたしてもよろしいでしょうか?」


 と言って、真っ赤になって俯いた。


 佐奈姫が、十四歳の可愛らしいひたむきな愛情のすべてを勝頼に捧げきっていることは、躑躅ヶ崎の館では今は誰ひとりとして知らぬ者のない事実であった。

 

 勝頼が部屋を訪れる度に仔犬のように目を輝かせて出迎えて、しばらく古府中を留守にして会えない日が続く時などは、出かける数日前から可哀想なほどしょんぼりと萎れてしまう佐奈姫のことを、勝頼も可愛く思っていた。

 

 だからこれまでは、他の側室から恨み言が出るほどに出来るだけ彼女の局で過ごし、甘やかすだけ甘やかしてきたのだが、この時は、なぜかふと意地悪をしてみたくなった。


「駄目だ。姫は先に戻っておれ」


 短く言うと、佐奈姫の顔にさっと失望の表情が広がった。


 遊んで貰おうとじゃれついた矢先に鼻先を蹴飛ばされた仔犬のような、悲しげなその目を見て胸が痛んだが、強いてそっけなさを装って


「もうさんざん遊んで気は済んだであろう。風邪をひかぬうちに館へ戻っておれ」


 と続け、くるりと姫に背を向ける。


 数歩、行きかけてちらりと振り返ると、佐奈姫は泣き出しそうな顔で勝頼を見送っていたが、振り返った勝頼と視線が合うと堪えかねたようにその目に涙を溢れさせた。


 勝頼は苦笑して「おいで」と佐奈姫を手招いた。


 姫は泣き顔のまま、おずおずと歩み寄って来た。


「何を泣いている」


 佐奈姫は抱き寄せられるまま胸元に頬を埋めると、しくしくと泣き出した。


「御館さまは、佐奈がご一緒してはお邪魔でしょうか」

「誰がそんなことを言った。風邪を引くといけないから戻れと言うただけではないか。そなたの身を案じて言うたのだぞ」


 嘘だった。本当は日頃、勝頼がいなくては夜も日も明けないといった様子でいる佐奈姫が、自分のいないところで心から楽しそうに笑顔を見せていたのが面白くなかったのだ。

 それで少し意地悪をしてみたくなった。


 佐奈姫は顔を上げて勝頼を見上げた。


「佐奈は風邪など引きません」


「嘘をつけ。この間も、風の冷たい日に花摘みだのなんだのと出歩いて熱を出したばかりではないか」

「それでも今度は引きませぬ」


 桜の花びらが一枚ひらりと降ってきて、涙で濡れた佐奈姫の頬に貼りついた。

 勝頼は、指でそれをとってやった。


「こんなに冷たい頬をして」

 その言葉に誘われるように佐奈姫がくしゅんとくしゃみをした。


「それ、見たことか」

 佐奈姫はふるふると首を振った。


「平気です。寒くなどありません。私は冬の生まれなので寒いのには強くて……くしゅんっ」


 言いかけたところでまたひとつくしゃみが出る。

 佐奈姫は袖で口元を覆って世にも悲しそうな顔をした。


 


 








 

 

 


  








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