四郎勝頼(一)
天正五年(1577年)三月
天正五年(1577年)、三月三日。
勝頼は、諏訪大社下社の御堂と三重の塔の落慶供養のため諏訪を訪れた。
嫡男の信勝、正室の佐奈姫をともなっての参詣である。
諏訪の人々は、熱狂して勝頼を迎えた。
栗葦毛の愛馬に乗って、 威儀を正して進んでゆく馬上の勝頼の姿を仰ぎ見て、手を合わせて拝んでいる者や、涙を流している者もあった。
北条の三つ盛鱗のかわりに武田菱の輝く真新しい女駕籠に乗った佐奈は、それを見て嫁いで来る前に守り役の剣持但馬守から聞かされた勝頼の出生にまつわる複雑な事情を思い出していた。
勝頼の生母は、先代、信玄の側室の一人諏訪御料人であった。
甲信越に並ぶもののない美貌を謳われた女性であったが、その生涯は波乱に満ちていた。
天文11年(1542年)六月。
父、信虎を駿河に追放し武田家の当主となって間もない信玄(当時は晴信)が諏訪の地に侵攻した。
諏訪家の当主であった姫の父、諏訪頼重は自害に追い込まれ、当時、十三歳であった諏訪御料人は人質として古府に連れてこられた。
そこでその花のような美貌を見初めた晴信は、敵将の娘だ、という周囲の強い反対を押しきって彼女を
側室の一人とした。
躑躅ヶ崎の館の花の郭に局を与えられて移り住んできたとき、諏訪御料人は今の佐奈と同じ十四歳だったという。
その翌年、彼女は男児を生んだ。
晴信には四男となる勝頼である。
母親によく似た涼しげな目元をしたこの息子を晴信は可愛がった。
しかし、この時点で四郎ぎみと呼ばれて育ったこの男児が将来、武田家の家督を継ぐことになるとは誰も予想していなかった。
晴信は、四郎の元服にあたり、武田氏の通字である「信」のかわりに、諏訪氏の通字である「頼」の字を与えて、勝頼と名乗らせ、諏訪家の名跡を継承させた。
諏訪の領民感情を考慮してのことであった。
諏訪の人々はこれに歓喜した。
十七歳で信州高遠城の城主となった勝頼は、そのままでゆけば高遠城主として、現在、異母弟の盛信が仁科姓を継いで武田家を支えているように、諏訪勝頼を名乗り、兄、義信の政治を支える一門としての生涯を送るはずであった。
だが、永禄七年(1564年)。
兄、義信が父信玄と対駿河の政策をめぐって対立の末、謀反を企てるという事件が起きた。
計画は事前に食い止められたが、義信は後継者としての資格を失い古府の東光寺という寺に幽閉された。
それから三年後の永禄十年(1567年)の十月。
太郎義信は、幽閉生活の果てに失意のうちに亡くなった。享年三十歳であった。
信玄の正室、三条の方には義信の他にふたりの男子があったが、このうち、二男の信親は生まれつき盲目であり、三男の信之は早逝していた。
側室腹であり、四男である勝頼が後継者の地位につくまでにはこういった事情があった。
この時、勝頼は二十五歳であった。
すでに幾つもの戦場に出て武功を挙げている勝頼の武将としての力量に疑問を抱くものはいなかったが、
一門を統べる総帥となると話は別であった。
信玄の正室、三条の方は京の公家の出で、穏かで心優しい性格で家中の誰からも心から慕われていた。
人々はその三条の方の所生である嫡男、義信にも幼少の頃から溢れるような好意をもっていた。
義信が、信玄への謀反を企て、それが露見して廃嫡されたのち、信玄の指名を受けて勝頼が後継者として
躑躅ヶ崎に入ると、頭では勝頼には何の罪もないと分かっていても、感情面でそれに反発を覚える者も少なくなかった。
信玄はこの時期、御親類衆や家臣団に改めて忠誠を誓う起請文を提出させているが、それだけこの義信廃嫡事件が家中に及ぼした動揺が大きかったことを伺わせる。
怜悧な信玄は、家臣団が抱く感情、不満には気がついていた。
彼は、勝頼をいきなり自身の後継者として特別待遇を与えるのではなく、まずは彼の配下の将のひとりと
して評定の場や軍議に参加させ、実績を積み重ねてゆくことで、徐々に家臣たちに認めさせたうえで家督を譲ろうと考えていた。
その判断は正しかった。
ただし、信玄があと十年……せめて五年は生きておればの話であったが。
元亀四年(1573年)、四月。
西上の途上、信濃の国、駒場で信玄は病のため、五十三年の生涯を閉じた。
臨終の床に呼ばれた勝頼は、この時、二十八歳であった。
この時、信玄が残したかの有名な遺言がさらに家中での勝頼の立場を難しくした。
信玄は、その遺言のなかで自身の死を三年間秘すことと勝頼に嫡男信勝が成人するまで、陣代(後見役)をつとめることを命じた。