花の廓
躑躅ヶ崎。
その名が示すとおり、武田家の本拠躑躅ヶ崎の館の内には、白、桃色、紅色、さまざまな色の躑躅の花が
溢れていた。
佐奈姫が住まう新館は本殿の西側、いくつかの棟が連なりあう「花の郭」と呼ばれる一角にあった。
呼び名の通り、それぞれの棟の前や、渡り廊下の途中から見える壺庭には常に色とりどりの季節の花が咲き乱れ、特に今のような春の盛りともなると梅や桜、山吹に藤などが次々と満開を迎え、目にも綾な光景が広がっていた。
勝頼は、婚礼以来毎晩欠かさずに佐奈姫のもとを訪れたが、床に入っても相変わらず姫を抱きしめたり、髪を撫でたりするだけで、容易にその行為に及ぼうとはしなかった。
彼の脳裏には十五歳で甲斐に嫁いで来て間もなく身ごもり、その子を産み落としたものの産褥から起き上がることなく逝ってしまった妙姫のことが常にあった。
妙姫は、輿入れ前に乳母たちに言い含められていたのだろう。
夜の床ではいつも勝頼に従順過ぎるほど従順だった。
その間は決して目を開けず、夫が自分の上を慌しく駆け過ぎてゆくのを辛抱強く待っているようだった。
妙姫はいつも慎み深く、勝頼が訪れると柔らかな笑顔で迎えてくれたが、時折、放心したように庭先に視線を遊ばせ、ぼんやりと花や庭木を眺めていることがあった。
そんな時の妙姫はひどく悲しげで、今にも縁先の光に淡く溶けていってしまいそうで、そんな姿を見る度に、勝頼は姫を腕をなかに引き寄せ、強く抱きしめずにはいられなかった。
そんな時も妙姫はかすかに微笑むだけで、抗うこともしないかわりに
「何かあったのか?」
と尋ねても、決してその理由を話したりもしなかった。
若い勝頼は、毎夜、妙姫を熱愛することで彼女との間に存在している隙間のようなものを埋めようとした。
それ以外に方法が分からなかったのだ。
けれど、どんなに愛しても姫の顔からその寂しげな陰が消えることはなかった。
そのか細いからだを強く抱きしめれば抱きしめるほど、姫の心は勝頼の腕をすり抜けてさらに遠くにいってしまうようだった。
結局、その心のなかを一度も触れさせることのないまま妙姫は十六歳の若さでいってしまった。
産褥の床で高熱に連夜、うなされながら妙姫は我慢強くどんな弱音も泣き言もこぼさなかった。
そして、その床の中から姫が勝頼の名を呼ぶことはただの一度もなかった。
「あ」
腕のなかの佐奈姫が小さく声をあげた。
「何だ?」
「うぐいす」
そう言って、勝頼の膝から立ち上がった佐奈姫は
「ほら、あそこに」
と庭先の紅梅の木の枝を指さした。
「ああ」
「小田原の館の庭にもよく春になるとうぐいすがやって来ました」
佐奈姫は、縁先まで出て梅の枝を見上げながら嬉しそうに言った。
「もしかして同じ子だったりするのかしら」
「まさか」
「いいえ。分かりませんわ。だってこの子には羽根があるのですもの。小田原から私の駕籠について来たのかも」
そう言って眩しげに鶯を見ている佐奈姫が、 一瞬遠くをみるような目をしたのに気がついた勝頼は、
「おいで」
と姫を手招いた。
姫はすぐに戻ってきて手を引かれるままにおとなしく勝頼の膝に座った。
「実家が恋しくなったか?」
尋ねると、
「まあ、いいえ」
佐奈姫はわずかに頬を染めてかぶりを振った。
「隠さずとも良い。そなたの年で故郷を離れこのような山深い土地に嫁いできたのだ。里が恋しくなって
当り前だ。余とて十六の年に高遠の城主に任ぜられその地に赴いたときはしばらくは諏訪の地が懐かしくて空ばかり見ていたものだ」
「まあ」
佐奈姫は、黒目がちの大きな瞳をぱちぱちと瞬いた。
「なんだ?」
「御館さまのようなご立派な御方がそのようなことを仰せになられるなど、なんだか不思議な気が致します」
勝頼は笑った。
「余だとて生まれたときから今のようだったわけではない。姫の年頃にはつまらぬことで腹を立てたり、沈んだりしておったし、もっと小さい時には亡くなられた母上に会いたいと駄々をこねて守り役たちを困らせたこともあったぞ」
「まあ」
姫は、大きな瞳をみはってじっと勝頼をみつめていたが、やがて悲しげに睫毛を伏せた。
「どうした?」
「私も…」
「うん?」
「私も、その頃の御館さまにお会いしてみとうございました。母上さまにお会いしたいとむずがっていらっしゃる小さな御館さまを私がそばにいて
お慰めしとうございました」
「余が幼い頃など、姫はまだこの世に生まれてもおらなんだであろう」
勝頼が声を立てて笑うと、
「そういうお話ではございません」
姫は頬をふくらませて勝頼を見上げた。
「このお邸にいる者のなかで、私が一番御館さまとご一緒に過ごした時間が少ないのですもの。他の方々は皆さま、御館さまが高遠のお城にいらした頃からご一緒におられましたのに」
「いや、皆ではないぞ。こちらへ移ってから迎えた者も何人かは……」
「そんなこと存じません」
佐奈姫はますますふくれてみせた。
「ずるい」
「何がずるい」
「私は御館さまの正室でございましょう?」
「無論、そうだ」
「それなのに、 御館さまとご一緒した時間が一番少ないだなんてそんなのずるうございます」
「そんなことを 言っても仕方がなかろう」
「仕方なくてもずるうございます」
勝頼は、ふくれている姫の桜色の頬をやわらかくつまんだ。
「ならば、どうすれば良い」
「ご一緒にいられなかった分を取り返せるくらい、ずっとずっと佐奈のもとにいらして下さいませ」
「そうしておる。姫が嫁いできて以来、余は、すべてそなたの言いなりだ」
「うそ」
「嘘なものか」
「昨日も、その前も会いにいらして下さらなかったくせに」
「それは表の評定が夜遅くまでかかったからだ。姫はいつも宵の口にはもう眠ってしまうではないか」
「そんなことは ありませぬ」
「いや。この間なども戌の刻を過ぎたらもう脇息にもたれながらうとうととしておった」
「そんなことありませんったら」
佐奈姫は怒って、勝頼の胸を小さなこぶしで叩く真似をした。
「そうやっていつも子供扱いなさって」
「子供ではないか。庭先に鳥が飛んでくる度に大騒ぎをして縁先に飛び出してゆくし、腹が減ったり眠たいときには不機嫌になるし」
「まあ!」
佐奈姫が本当に憤慨した顔になった。
「子供扱いはおやめ下さいと申しております」
「……やめても良いのか?」
「え?」
「子供扱いをやめても良いのかと言うておる」
そう言って、肩を引き寄せてやると途端に佐奈姫はおとなしくなって俯いた。
雪のように白い肌が首筋まで赤く染まっている。
箱入りの姫とはいえ輿入れ前に乳母たちから教えられひと通りのことは知っているのだ。
当然、勝頼が自分と過ごす夜が夫婦の本来のあり方とは違うことも知っているはずである。
「なんだ。 急に静かになって」
佐奈姫は答えない。
じっと俯いている。
顔を覗き込もうとすると勝頼の胸に顔を埋めるようにして隠してしまった。
勝頼はその背をなだめるように撫でた。
「姫」
勝頼は、腕のなかの姫にやさしく声をかけた。
「無理はせずともよい。そなたの嫌がることはしたくない。嫌われて鶯のように小田原へ飛んで帰られては
叶わぬからな」
「……帰りませぬ」
胸に顔を埋めたままくぐもった声で佐奈姫が言った。
「佐奈はどこへも参りませぬ」
「そうか」
抱きしめたからだの温もりとともに温かな気持ちが湧き上がってきて、勝頼は姫の頭をぽんぽんと撫でた。
婚礼の夜以来、実質的な行為に及ばずに日を過ごしてきたのは無理強いして怖がらせることで佐奈姫が 心を閉ざしてしまうやも しれぬと思ったためだった。
かつての妙姫のように。
「姫はいい子だ」
髪を撫でる勝頼の袖がきゅっと握られた。
「……で下さい」
「ん?」
「子供あつかい……なさらないで下さい…っ!」
一瞬、顔をあげて真っ赤な顔でそう言うと、佐奈姫はまた急いで勝頼の胸に顔を伏せてしまった。
「姫?」
そのあとは、なんと声をかけても決して顔をあげようとはしなかった。
「そうか」
勝頼は短く言って、そっと姫を抱きしめた。
侍女のひとりがやって来て遠慮がちに表へ戻る刻限で小姓が迎えに参っていることを告げた。
「──酉の刻過ぎには戻る。よい子で起きて待っていられるか?」
尋ねると、腕のなかの姫は顔を隠したままでこくんと微かに頷いた。
その夜、部屋を訪れた勝頼は約束通り、佐奈姫を大人として扱った。
佐奈姫はぎゅっと目を閉じて、勝頼が自分の体を扱うのに身を任せていた。
勝頼は十分に優しく、けれど時に姫が思わず戸惑いの声をあげてしまいそうになる大胆さで、彼女のからだをあつかった。
輿入れ前、乳母の藤野が声を低めて語り聞かせてくれた話の意味を、この夜、佐奈姫は初めてすっかり知った。
翌朝。藤野は、いつもなら寝起きが良くはやばやと起きてきて身じまいを整え、勝頼が起きてくるのを
にこにこと機嫌良く迎える佐奈姫がなかなか起きてこず、勝頼に促されるようにして起きてきたあとも視線を避けるように俯いてばかりいるのを見て、すべてを悟りほっと胸を撫で下ろした。
それと同時にこれまでの武田に対する悪感情はおいて、勝頼の佐奈姫に対する年長の夫らしい優しい気配りに感謝した。