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十四歳の花嫁(三)

 婚礼の儀とそれにつづく宴が終った。

「お床入りにございます」

 案内役の侍女が告げて去ると部屋には勝頼と佐奈姫の二人だけが残された。

 白い寝巻姿に着替えた佐奈姫は、白絹の褥のかたわらに座りじっと俯いていた。


 首筋まで桜色に染めてちょこんと座っているその姿を勝頼は可愛く思った。

 作法では、まず勝頼が褥に入り、佐奈姫がその横に身を差し入れることになっている。


 けれど、勝頼は俯いて身を固くしている姫を見ていると、いきなりことを運ぶのが可哀想になり、

「疲れたであろう」

 と優しく声をかけた。


「はい…」

 姫は聞き取れないほどかすかな声で頷いた。

「小田原から府中までは遠かったであろう。姫は、甲斐は始めてであろうな。山深くて驚かれたのではないか」

「はい。あ、…いえ」

「小田原は海が近く温かだときく。姫は海はお好きか?」

「はい…」


「幼い頃は浜遊びなどされたのであろうな。どのようなことをなされたか?」

「はい。その…。 いとこたちと…貝を拾ったり…。お舟に乗ったり…」


「成る程。この甲斐には海はない。 飽き足らなく思われるかもしれぬな」

「いえ、そんな…」

「海はないが、余が生まれた諏訪には広い湖がある。海ほど広くはないが余がこの世で一番美しいと思っている場所だ。そのうち姫もお連れしよう」

「……」


「姫?」

「……」


 返事がないので顔を覗きこんだ勝頼は、佐奈姫がその黒目がちの瞳に涙をいっぱいにためて必死に泣くのを堪えているのに気がついた。


「い、いかがした?」

 慌てて尋ねたが、姫は俯いたまま小さく震えているばかりである。


「故郷のことなど持ち出して、里ごころがついてしまわれたか」

 ふるふると首を振る。

「では、余が何か気に障ることを言うたか?」

 さらに強く首を振った。

「ではいかがした?」

 佐奈姫は、懸命に返事をせねばと思っているようだったが、口を開いてもどうしても声にならず、とうとう顔を覆ってしくしくと泣き出してしまった。

 勝頼は困惑した。

 以前に一度経験している妙姫との時はこんな風ではなかった。

 妙姫は年上である自分よりもよほど落ち着き払って、その夜、自分の身に起こるすべてのことを受け入れていた。

 

 勝頼は手を伸ばして佐奈姫を膝の上に抱きとった。

 佐奈姫は驚いたようだったが、勝頼が落ち着かせるようにその背を撫でてやると、おとなしく抱かれたままになっていた。


 そのまま、しばらく髪や肩を撫でてやっていると、

「……申し訳ございませぬ」

 震えるような声で佐奈姫が言った。


「いや」

 勝頼は短く言って、なおも優しく姫の背を撫で続けた。

 女子というものは、こちらが気を遣ってあれこれと言葉を並べれば並べるほど扱いにくくなるということはこれまでの経験で分かっていた。泣いている女子は特にだ。


 はたして佐奈姫は勝頼から叱られもせず、涙の理由を問いただされたりもしないと分かると、俯きがちにぽつり、ぽつりと話し始めた。

 どうやら新床で緊張しているところに、想定外にあれこれと優しく話しかけられ、うまく返事が出来ないもどかしさと恥ずかしさで感極まって涙が零れてしまったようなのだ。


「せっかく、お声をかけていただきましたのに……至りませず……申し訳ございません……」

 勝頼は安堵の息を洩らすとともに思わず、笑ってしまった。

 途端に姫の瞳からこらえかねたようにぽろぽろと大粒の涙がこぼれる。


「馬鹿だな。そなたを笑ったわけではない」

 勝頼は笑いながら、袖で佐奈姫の涙を拭ってやった。


 今回のこの縁組は、長篠・設楽ヶ原の戦いの大敗を受けて対外的にも内政的にもたいへん厳しい立場に

追い込まれた武田の側から北条家へ頭を下げる形で実現したものであった。


 北条家の側では武田に泣きつかれて仕方なく姫をくれてやったと捉えているはずで。

 当の花嫁もそれに従ってくる家臣団もさぞやこちらを見下したようなお高くとまった態度でいるであろう。

 たとえそうでもここは堪えばなるまいと思っていた勝頼にとって、佐奈姫の権高とはほど遠いその(いとけな)さはは意外であった。


 顔を覗きこむとまだ目は濡れていたが涙は止まっていた。

 勝頼は何か言葉をかけてやろうと思ったが、そうすれば姫の側からすればまた返事を返さねばならずそれも気の張ることであろうと思えば気の毒でもあり、黙ったまましばらく姫を膝に抱いて座っていた。


 佐奈姫のからだからは、ほのかに甘く瑞々しい花のような香りがしていた。

 心地の良い香りだった。


(衣に焚きしめた香のかおりか。それとも髪を梳くための香油の香か)

 その香りを辿るように首筋に顔を埋め、耳元からうなじにかけて唇でなぞるように動かしていくと姫のからだが少しずつ震えだした。

 勝頼は構わず、唇をすすめながら膝の上に抱いた姫の体を優しく撫でた。

 佐奈姫はくすぐったそうに身じろぎし、その度に花のような香りがくゆりたった。


 勝頼は、襟元に顎を埋めるようにしてひたすら俯いている佐奈姫のおとがいに手をかけて仰向かせた。

 その頬は夜目にも分かるほど桜色に上気し黒目がちの瞳は潤んで今にも泣き出しそうだった。


 勝頼は、そっと唇を重ねると姫の口を吸った。

 長い口づけのあと、ようやく解放された佐奈姫は力が抜けたように勝頼の胸に身を預けた。


 勝頼は姫を褥の上に優しく横たえてやり、(ふすま)をかけてやった。


 佐奈姫は熱っぽく潤んだ瞳でぼんやりと勝頼を見たが、勝頼が

「今日は疲れたであろう。よく休むがよい」

 と言って、こどもをあやすようにぽんぽんと衾を叩いてやるとしばらく戸惑ったように視線を彷徨わせていたが、そのうちにやはり昼間の疲れが出たのか寝入ってしまった。

 

 そのあどけない寝顔を見ているうちに再び、最初に迎えた正室妙姫のことが頭に浮んだ。

 あの時の妙姫は今の佐奈姫とひとつしか違わないのにも関わらずずっと大人びた一人前の成熟した女性に

 見えた。


 勝頼は、そのあでやかな美しさに惑乱するようにはじめての夜から妙姫を熱愛し一夜も妙姫のそばを離れたくないほどだった。

 しかし、別段、妙姫がおとなびていたわけでもなく佐奈姫が幼いということでもないだろう。

 要は、彼女たちを迎える側の自分が年齢を重ねたというだけのことだ。


 すやすやと寝息をたてて眠る佐奈姫の寝顔を見ながら勝頼は初めて、妙姫に可哀想なことをしたと思った。

 あの時の自分には気づくよしもなかったが妙姫も今夜の佐奈姫のように脅え、震えていたのだろう。

 若い日の自分には気づくことが出来なかったし、たとえ気がついていても相手を思いやる余裕などなかったであろう。


 腕のなかで佐奈姫がわずかに身じろぎした。

 その頬に軽く触れると何と思ったのかその勝頼の手をきゅっと握り、そのままそれを頬に押し当てるようにして眠ってしまった。


(まったく。(さだ)(とく)とそう変わらぬ…)


 側室たちの生んだ幼い娘たちのことを思い浮べて、おかしくなった。

 側室たちもまさか今夜、勝頼が新しく迎えた正室を相手にこんな子守のようなことをしているとは夢にも思っていないであろう。

 勝頼は、姫に手を握らせたまま、自分も枕に頭を乗せ目を閉じた。

 

 となりで繰り返されるすこやかな寝息とほの甘い香りに誘われるように眠りはすぐに訪れた。



 
















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