Chapter10-6
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『ジョゼ! いいから、逃げろ!』
泥の記憶。
『そんなっ! 二人を置いていけないわよ!』
血の匂い。
右の脇腹が抉れている。傷口を押さえる左手は、どくどくと早鐘を打つ自分の体内に押さえつけられている。
腕や足は幾つも切れ、血が滲んだ服装は鼻を刺激する。手裏剣のポーチも、腸を割かれたかのように、べろりと内布が表にひっくり返っている。
愛篭手も壊れ、その篭手の欠片が利き手に幾つも突き刺さり、真っ赤な鮮血をだらだらと誘い出している。
指は、何本か失くなっていた。
もう、手裏剣を投げるどころか、何かを満足に掴むことすら叶わない。
切れたこめかみの傷が邪魔して、よく定まらない世界の中、血だらけの私は燃え盛る森の中で背中を合わせる二人の親友に、血を吐きながら大声を張り上げた。
『大丈夫だ……! 必ず、必ず追いつく……! 先に行けっ!』
自慢の金髪を真っ赤に染めた弩使いが、片目から鮮血を流しながら、辛うじて私を見つめた。
彼の眼鏡は、何処へ落ちたのか。
彼の左手は、何処へ落ちたのか。
腕力の残っていない右腕で持つ赤い弩は、肩から溢れる鮮血でより赤に染まっている。
『行け! ジョゼ! 早く行けぇぇっっ!!』
咆哮にも似た、槍使いの怒鳴り声。青色掛かる彼の端正な銀髪も、赤黒く汚れ、毛先ではそれが固まり、幾つもの毛髪を汚く束ねている。
体に幾つもの斬撃を受けた者とは思えない程の雄叫びが、燃えて崩れゆく森林に響いた。
『つっ……!』
ふらふらと深森に姿を隠そうとする。足元が定まらない。視界がふらつく。
一歩踏み出せば、脇腹から一層の血が溢れた。
涙を流し、二人の親友の指示に従った私は、二人の吐血と、飛び出た内臓を見ることは無かった。
燃える森林を、ただひたすら、目的地も無く、奥へ奥へと逃げる。
耳に入るのは爆音と、樹木が燃え盛り、折れ行く異音。
血を流し進んだ距離はどれほどになるのだろう。それは数歩にも、数キロにも思える。
ただひたすらに、言われた通り、逃げる。逃げる。逃げる。
脚が動くまでは。脚が前に進むまでは――
ざくっ。
そして、脚が止まる。
脳が感じる痛みは限界を超え、それは違和感としてしか認識されない。
体内に何か、何かがめり込む感覚――
『あああっ……!』
気付けば、左頬のすぐ下、鎖骨を通り抜けた左胸の上部から、剣の切っ先が飛び出ている。
真っ赤に染まるそれには肉片が貼り付いており、それは重力にしたがってぼとりと落ちた。
背後に何がいるのか、振り向かずとも分かる。
ここに居るのは皆、黒く、薄い存在だけだ。
『うああああああっ!』
数秒も遅れ、脳に到達する痛覚。肩から鎖骨に至るまで食い込んだ鋭利な剣が、その叫びに合わせ、真後ろに引き抜かれた。
気付けば、天を仰いでいた。
目に入るは、燃え盛る大木と、あちこちから上る黒煙。
そして、大剣を握る、黒い存在。
剣を染める赤は、自分の残り少ない血液なのだろう。滴り落ちるそれは、森の地面に染み込んで行く。
『ごめ、――ひさ、たけ……』
視界にはノイズが走り、色が奪われていく。最後に見えた視覚情報は、剣を振り上げる影と――
『まに、あった―――』
ナイフで凌ぎ切れず、上半身を真っ二つにされた、小柄な、人影――
そして影は、彼が間際にぶつけた何かによって、その身が爆発した。
頬を焼く熱波。それが私の、意識を失わせた。
そこからどうやって助かったのかは分からない。
気付けばどこか分からない、小さな診療所で包帯に巻かれ、寝かされていた。
四肢は固定され、動くことは愚か、声すら出ない。顔を半分以上覆う包帯の所為で、僅か数メートル先にあるはずの天井の距離感すら掴めない。
目覚めた私に医師は奇跡だと驚くと、助けた時に拾い集めたという、私物をベッドの脇に置いてくれた。
辛うじて微かに動く首を横に向けると、真っ赤に染まった私服や、ポーチに引っかかって残っていたのだろう、幾つかの冒険道具が目に入る。しかし距離感が掴めず、手の届くところにあるかと思いきや、次の瞬間、遥か遠くに移動してしまう。
遠く離れては目元まで近づき、また離れていく私物の中に、見慣れない物が一つ、埋まっていた。
それは、真っ赤な物の中でも一つ、輝きを放っていた。
金と、黒。そして、蛇――だろうか。
それが何か分かった刹那、血が流れ出ていた私の瞳から、熱い涙が溢れ、頬を伝った。
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