Chapter9-2
トウカを先頭に図書館棟を出た五人は、誰もトウカの横に着こうとしなかった。二歩ほど先で先陣を切るトウカとは、一メートルも離れていない。
五人はお互いの足を何度もぶつけながらも、黙ってトウカに続き、その背中を見つめていた。
六人の頭上に広がる空は、不気味なまでに濃紺だった。月どころか、星一つ、雲一つない。空と地の間に皺を綺麗に伸ばした一枚布が張られているかのようだ。
あまりにも単調で違いの無い紺の空は距離感が掴めず、空はそこまでも高く広がっているようにも見えるし、手を伸ばせば天頂に届きそうな高さであるようにも錯覚する。
それでいながら、月が出ている夜と同じように空は光り、地や自分たちを照らしている。
「……闇が聞いている、か」
光る濃紺の空を見ながら織葉が呟く。先ほどトウカから聞いたばかりのその言葉が洩れたが、それも単色で塗りつぶされた空に吸い込まれていくかのように、何処にも反響せず、その場に溶けて消えた。
自分たちの足音や呼吸の音以外、物音の存在しない闇夜。トウカの杖先に灯る一つの明かりだけが、この闇夜に囚われた心を解している。いつも光ってくれた五人のブレスレットも、今やただの飾りものになってしまっている。
暗夜でも、静夜でもない。
例えるならこれは、「死夜」ではないだろうか。
「着いたわ」
図書館棟を出て数分、一同が歩を止めたのは大きな一枚壁の目の前だった。
なだらかな屋根を持つ、夜に佇む巨大な建屋。
「ここは――」
六人の前に現れた巨大な校舎。それは、幾つもの部屋を造れるにも関わらず、そこにはたった一つ、大きな部屋が一つだけ存在している。
五人の眼前の校舎は、体育館だった。
正方形に近い体育館の校舎は、夜の世界にずっしりと鎮座している。壁や窓は今まで見た校舎と同じく破損しているが、どこか強靭に見える体育館は、他よりも頼りがいがあるように見えた。
多くの生徒が一度に出入りする体育館は、その横腹に出入り口が幾つか設けられている。
トウカは今立つ場所から最寄りの入り口まで進むと、もはや施錠もされていない、両開きの引き戸に手を掛けた。
扉が乗るレールと戸車は痛み、がたがたと往生際悪く、引っかかりながら開いていく。
引き戸の片方を全て開くと、暗い館内から埃と黴の混じった、ツンと鼻を刺す刺激臭が漂った。匂いの強さは図書館棟のそれよりも濃い気がする。
「入るわよ」
トウカは少しだけ首を横に向けると、誰よりも先に館内に踏み入り、安全であることを示そうとせんばかりに、身体をまだ館外にいる五人に向けた。
五人は数歩先のトウカに近づくように、闇の充満した体育館に足を踏み入れた。
「不意打ちはもうなしだぞ」
館内で先ほどと同じ隊形を取ると、ハチがトウカに釘を刺した。
「分かってるわよ。何度も言わないで」
三人を凍らせたことに反省はないのか、トウカは遠慮気味な発声をすることもなく、堂々とハチに答えてみせる。
「……。」
言い返さないハチ。ハチは、このトウカの気丈さは、やはり自分の知るゆいとは程遠いと改めて思い直す。
自分たちと幾つかのズレが生じている、現歴8019年。
ハチはその、自らの身に起きていない数年に強い注意警戒が必要ではないかと、自分の好いたゆいとは違うゆいを見て、強く肝に銘じた。
体育館は外面こそまだましに見えたが、室内は他の校舎と同じく、やはり荒廃が進んでいた。
体育館床の特徴的な艶のある木材はすべてその美しさを失い、継ぎ目から割れて地割れの様に床全体にひびを入れている。
壁に取り付けられていたのだろう、各種用具を掛けておく棚は腐って崩れ、壁際でゴミの山と化していた。
床には体育科で使用した教材であろうスポーツ道具の備品がそこかしこに転がり、その中のボールは空気が抜け、床上で死んでいた。
長年にわたり多くの生徒を受け入れ、入学から卒業までを祝ってくれた体育館もその使命を取り上げられ、緩やかな時の中で死を待っている。
月明かりもない暗い館内を、トウカの杖の明かりだけを頼りに五人はトウカに続く。トウカはやはり慣れているのか、杖明かりを補助の様な感覚で扱い、不安定な足元を見ることもなく、腐った床板を進んでいく。
六人は入館した扉から見て、左方向に進んでいた。
一行の周囲には闇が充満し、振り返っても自分たちが入った扉が見当たらない。うっすらと壁や壁につけられた窓枠が鉛筆で引かれた輪郭線の様に見えるが、それすらも何であるのかははっきりとしない。
(気持ち悪い……)
ジョゼの感じた気持ち悪さは、長年換気されない館内の空気のせいではないだろう。
死夜が覆うこの世界に、生気も時間の流れも感じない。翌日という概念が壊されているのかもしれないという恐怖感が、ジョゼの背中をするりと這う。
顔を上げて視線を先に向けても、トウカの明かりが届く範囲は僅か。
闇中には誰もいないようにも、何もかもが潜んでいるようにも思える。
そんな暗中に、トウカの光が何かに届いた。
目の前にぼんやりと現れた、大きな段差。その高さは胸の位置ほどあるだろうか。それは次第に照らされ、その全貌が徐々に明らかになる。
光に照らされたその段差の輪郭線が、ぼんやりと光る明かりの橙色に、ゆっくりと照らされ、闇の中に姿を現した。
その段差は体育館の舞台だった。
「ここを上がるわよ」
トウカは杖を舞台上に先に置くと、手を掛けて飛び上がり、壇上に立ちあがった。
トウカは壇上の杖を拾い上げると、杖先を下へと向け、五人が上がりやすいようにと、舞台の縁を照らした。
五人も舞台に手を掛けると、そのまま飛び上がって壇上に立つ。やはりここも傷んでおり、舞台に上がると腐った床がぎしりと凹んだ。
「……真っ暗だ」
黒く染まる髪を少し揺らして、織葉がつぶやく。五人は舞台に登ると、いつしか横並びになり、闇が落ちた館内を茫然と見つめていた。
夜中の海原のように、眼前にどこまでも闇が広がっている。
突き当たりにある筈の対面の壁は見えず、館内の大きさ、距離感が掴めない。
この壇上から降りたが最後、何処までも続く深淵の深穴に呑みこまれてしまうのかもしれない。自身の立つこの場所だけが、ほんの小さな足場であるかのように、心が錯覚する。
「みんな、ここまできて」
すると、背後から声がかかる。
振り返ると、自分たちの後ろにトウカが立ち、手招きをしている。見ると、トウカのすぐ横には、舞台に取り残されたここの学校旗が旗台に刺さって鎮座している。
五人は意を決してその小さな足場から一歩踏み出すと、在ると分かっている筈の舞台床に一歩足を付け、トウカのそばに寄った。
赤の別珍と金糸で装飾された学校旗。風の無い館内で萎れた花の様な学園のシンボルは、至る個所が破れ、折れ、裂けている。
久はその旗面に手を掛け、旗を伸ばす。すると、あの見慣れた逆十字の校章が、折れ目のついた旗布から顔を覗かせた。
「全員、学校旗の柄を握って」
「? 旗を持つのか?」
「そう。いいから早く」
トウカの指示の意図は不明だが、五人はそれに従い、錆びた学校旗の柄を握った。朽ちてざらざらになった鉄柄の表面が掌に刺さって気持ち悪い――と、感じた刹那。
「なっ!?」
「えっ?」
久とジョゼ以外、驚きの声も出なかった。
気付けば六人は先程とは何もかもが違う場所、ランタンの光が照らす、洞窟の中に立ち尽くしていた。