Chapter9-1
前略、七年前より
図書館棟の埃っぽい空気。湿気を含んだ黴香るそれが鼻腔に流れ込んできた瞬間、自分たちはまだ過去の世界にいるのだと脳が強制的に認識させた。
鼻を抜け、脳に届き響く嗅覚情報。その埃の匂いの中に、石鹸にも似た香りが漂う。
僻地に一本生えた小さな花弁から発せられたようなそれは、五人の目の前で尻もちをつく、銀色の長髪を持った魔導師から確かに香っていた。
「本物の、織葉ちゃん、なの?」
少し石鹸の匂いが増す。見ると、顔を上げた魔導師が、長い髪を少し揺らしていた。
「あ、あんたこそ、ゆいなのか……?」
銀髪の魔導師のすぐそばに膝をつき、顔を覗き込む織葉。そこにある顔は、確かにゆいだった。
見間違えようのない蒼い瞳。ふっくらとした頬と小さな鼻。
そして、伸びてしまっている特徴的な銀髪。
星の光を吸い込んだみたいだと自分で言ったことのあるその髪色は、何よりも見間違えることは無かった。
「これを――」
まだ震える口を必死に動かしながら、茶色のマント裏から何かを取り出そうとするトウカ。
腰を持ち上げてごそごそと動きながら、おぼつかない動きで、腰から刀を引き抜いて見せた。
「なっ!? これはっ!」
マントから突き出された震える腕。その腕が掴んでいたその刀には、見事なまでの桜の鍔が施されていた。
「これ……氷焔っ!?」
髪色の変わった魔導師が震える手で取り出したのは、かつての織葉の愛刀、ライグラスの廃塔で折れてしまった氷焔だった。
思わず刀を掴み取る織葉。黒塗りの刀、氷焔はこの荒廃した世界の中にあっても、手入れが行き届いている。久しく主の手に戻った氷焔はどこか嬉しそうで、織葉に早く刀を抜いてもらわんとばかりに、なめされた柄紐の艶を見せつけた。
「……。」
柄を握る織葉。その掌に感じる懐かしい感覚。
ずっしりと感じる、自分を守り続けてくれた重み。ゆっくりと引き抜かれ、露わになって行く氷焔の刀身。
「ひえん……」
数年ぶりに戻る織葉の愛刀、氷焔。その刀は数年の時をまたぎ、今一度その身を織葉に握らせた。
「一体これは、どういうことなんだ……?」
鞘に仕舞われゆく氷焔を凝視しながら、ハチが疑問符を飛ばした。
腰が抜けて、ぺたりと座りこむゆい?の反応を見るに、演技や嘘ではないように思える。
しかし、ゆいが自分に向ける視線には、強い警戒心が未だ見えている。
数年前、ゆいに絡みに絡んだ八朔。猛烈なアピールを繰り返した自身の行動は早々に忘れられるものではないのではないのかと、ハチは自身の行動を吟味した。
「君は、一体誰なんだ……?」
ゆいなのか? トウカなのか? と、久が膝を折ってゆいに近づき問う。
銀色の長髪を揺らす正体不明の魔導師は、久にも警戒心のある視線を向けたが、どこか堪忍したように、軽く目を閉じて、一つ息を吐いた。
「こんな状況、見られちゃったもんね。……貴方の思う通りよ」
髪を変わる瞬間と、織葉を見た時の狼狽は、もう到底ごまかし切れるものではない。そう判断した魔導師は、トウカは本名ではないと確かに言った。
声に出さないその名こそ、自分たちが探し求めていた、一人の女性の名だった。
「だが、君はゆいはもう死んだと、オレたちの前でそう明言したじゃないか」
「ちょっと、それ、どういうこと!?」
男たち三人がトウカから聞かされた情報は、まだ二人とは共有できていない。タケの質問にゆいが答えるより早く、ジョゼの驚愕の声が響く。
「……。」
またしても黙り、タケにも警戒心を見せるゆい。久しく見たゆいの群青の瞳はこんなにも厳しく強いものだったかと、タケは記憶の糸を辿る。
「ともかく、ここから移動しましょう」
落ち着きを取り戻したのか、銀髪の魔導師はその場に立ち上がると、全員に出発を促した。
その端的な口調と、男三人とジョゼを睨む姿は、自分たちの知るゆいとは程遠い。髪を銀に染め直したトウカだ。
「何処に行くってんだよ」
一歩踏み出し、睨みをきかすハチ。ハチはこの。「霧島ゆい」が気に入らなかった。
「私たちのアジトよ。もう日も暮れてるし、ここは安全じゃなくなる。そこで状況を整理しましょう?」
「はっ。俺たちを凍らせた口がよく言うよ。どうせまた隙を見てなんかする気だろ」
酷く汚い睨みを効かし、ハチが一瞥する。籠手の下で閉じ開きする拳は、今にもゆいの襟首を掴み上げそうだ。
「……。」
睨み返すゆい。ハチはそのきつい眼差しに驚いた。こんな顔をする女子ではなかった筈だ。
「俺たちはゆいを連れ戻しにここまで来た。もし、お前が俺たちの探すゆいで間違いないのなら、俺はお前を連れては帰らない」
「っ!? ハチ、お前っ!?」
堂々としたハチの発言に織葉は戸惑い、名を呼ぶことしかできなかった。
「織葉、俺はマジだぞ」
今度は織葉にその厳しい目つきが向けられる。この手裏剣使いに出会って初めて、織葉はその目つきに恐怖を感じた。
誰も、何も言わない。
いつもならすぐにハチをなだめるタケもジョゼも、フォローに回る久も、今回ばかりは口を開こうとしない。
三人は黙り、正体不明のゆいからの発言を待っている。
「じゃあ知らないわ。さようなら」と言われれば最後であるにも関わらず、三人はただただ、孤立するゆいを凝視し続けた。
天井の隙間から指し込んでいた夕陽の光は完全に消え、廃校舎に闇が充満しようとする。
冷やかな風が何処からか吹き込み、全員の顎をくすぐり去っていく。
「……ごめん、なさい」
もうお互いの顔もはっきり見えない世界の中、どこか懐かしく久しい声が静かに耳に入っていた。
闇が占領しようとする世界の中、目を凝らすと銀髪が傾き、毛先を床へと向けているように見えた。
「ここは、闇が聞いているの。だから、多くを話すことが出来ない……。だから、私に着いてきてほしい」
頭を下げるゆいの言葉を聞き、暗闇の中で顔を見合わせる五人。はっきりと顔の見えない闇の中、久が縦に頷いた。
「わかった。君を信じる。俺たちをそこへ案内してくれ」
闇に通る、久の聞き取りやすい声。それが五人の総意だった。
「……ありがとう。じゃあ――」
刹那、目の前に光源が現れた。
闇に突如現れた光の玉。それが杖先に灯った明かりであると気付くには、五人はたっぷり五秒要した。
瞳の中に焼きつく赤い残像。視界を覆うその邪魔な明かりの隣には、髪色を黄色に戻したトウカが地に足を付けており、皆の視線が集まったその瞬間、口を開いた。
「軍団長と会うとき以外、私を本名で呼ばないで」
光の横には、泥水のトウカが立っていた。