Chapter8-4
「……。」
自分の中で、細い糸がぷつりと切れた。
それは確かに細いものだが、密度の低いものではない。確かに自分が両端を結んだ、しっかりとした糸、線だ。
その、杖から伸びる氷で紡いだ固く細い糸が、間違いなく、今この瞬間、切れた。
「隊長――。どうか、しましたか?」
よほど怖い顔をしていたのか、眉間に深く皺を寄せてしまっていたのか。近くの隊員がそれに気づき、顔を覗きこんで不思議そうな顔をしている。
「いえ、なんでもないわ」
私は表情をできる限りいつも通りに戻し、首を横に振って見せる。それに合わせて長く黄色い髪が左右に揺れた。
「この辺りにも何もないようね。隊員を引き連れて本部に戻っていいわ」
三十二号棟裏付近も、何の異常もなかった。
「了解です。トウカ隊長は?」
「……私は少し、調べたい所があるの。貴方たちは先に戻って報告と状況整理を頼むわ」
「了解しました」
お願いね。と、振り向きざまに答え、私は三十二号棟裏を後にした。
傾く太陽は地に潜り行くように空の低い箇所に位置し、空の割合は夜が勝りつつある。
異様なまでに伸びた自分の影を視界の片隅に収めながら、私はここより幾つか隣にある、一つの校舎を目指した。
バギン!
「うおっ!? 何だ!?」
夜の迫る司書室に、何かが砕ける音がいきなり響いた。もう動くことをやめた男たち三人は、その体をびくりと跳ねさせると、音の出所を探った。
「外、だよな?」
ハチが扉を凝視する。
どうやら音の発生地は扉の向こう、図書館側であるらしく、久とタケの二人もそこを凝視した。
ギィ。
そしてゆっくり開く、木製の厚い扉。訪問者がトウカであれば問題ないが、これが影やその類であれば最悪だ。
三人は身動きを取ることが出来ず、武器もない。依然として動かない脚に力を込めながら、三人はきつい眼差しを、光度の落ちた司書室の扉に突き刺した。
「あっ! いた! 久くん!」
「なっ!? 織葉! 無事だったか!」
扉の開いた闇の向こうから、足音と共に現れたのは赤髪の剣士、織葉だった。織葉は見事に扉の氷塊を打ち砕いたのだ。
「久っ! よかった、三人とも、無事だったのね……」
扉の奥、織葉の背後からもう一人が現れる。ジョゼだ。ジョゼは三人の顔を見ると安堵した声を漏らし、その場でよたよたをバランスを崩した。
「二人も無事でよかったよ。それはそうと、これ、何とか出来ないか?」
眼鏡の奥の目を柔らかいものに変えてタケも全員の合流と無事を安堵すると、床を指差して、三人を拘束している氷を何とか出来ないかと訊いた。
「あたしがやる。扉の氷も壊してきたし」
織葉はもう一度刀を抜くと、今度はそのまま床に刀身を突き立て、柄を握った。
「扉? そこの扉も凍ってたのか?」
先と同じように赤く光っていく紅迅の刀身。それを見ながら久が織葉に問う。
「うん。……知らないの?」
「あの野郎ぉ……ムカついてきたぜ」
刀に魔力を送り込む織葉を見ながら舌打つハチ。脳裏には自分たちを凍らせた一人の女性が浮かんでいる。
「あの野郎? てか、なんでこんなとこで三人は凍らされてるわけ?」
「そうよ、こんな場所で一体何があったの? 誰かと遭遇したの?」
次第に溶けていく床と三人の脚に絡みつく氷。段々と足の自由が訊き始めた三人に対し、二人が質問をぶつけていく。
「二人が校庭で濁流に飲まれた後、校庭でトウカと名乗る女性と出会ったんだ」
二人の質問にタケが落ち着いて答え始めた。
「トウカ? それは敵、味方どっち?」
「味方、だとは思う」
歯切れが悪くなるタケ。
今思えばトウカの立ち位置は謎だ。影を濁流で流したり、様々な情報交換を行ったりしたが、その素性は未だ不明。それに三人は凍らされ、二人の話によると扉まで閉ざされてたという。
「ともかく、その人に連れられて色んな事を聞いてたんだけどさ」
タケに変わる久。久の両足は殆ど動くようになっていた。
「その最中、影が現れて二人が襲われてるみたいな話になったんだよ。それで、俺たちも行くって言ったら、この有様。敵味方はっきりしてない奴らは連れていけないとかなんとか言われたよ」
よっ。と、久は膝を曲げてジャンプした。すると、ほぼ溶けて薄くなっていた氷が割れ、久の両足がようやく氷から抜けた。
「久くん。これ、落し物」
一度刀から手を放すと、織葉は扉付近に立てかけ置いていた、レジエラを久に手渡した。
「あぁ、良かった……。織葉、ありがとう」
かつて、この逆を行ったことがある。今度は久が織葉から受け取る番だ。
織葉は頬を少しだけ赤らめて久から視線を外すと、突き立てた刀の元へと戻り、今一度握った。
「それがこの校舎の横に落ちてたの。それで、ここを覗いたら久たちを見つけたって訳ね」
ジョゼがここに来た経緯を説明する。
久の槍が窓から落ちたのが幸いして、二人はこの場所にたどり着くことが出来ていた。久は言葉にも表情にも出さず、自分の取った行動を褒めた。
あとの二人もその後すぐに脚に自由が戻り、ハチは手の凍結も溶かしてもらった。
「織葉、ありがとう。ジョゼも無事で何よりだ」
氷から抜けたタケが二人に頭を下げる。二人はいえいえと首を振って見せ、今一度全員の無事に安堵した。
「皆、聞いてくれ」
小さな司書室で合流できた五人。久は軽く息を抜くと、全員の意識を向けさせた。久はその中でもさっき行流したばかりの織葉とジョゼに顔を向けた。
「二人には話してないが、判明したことが沢山ある。それを伝えたいが、この場所はあまりにも危険だ。だから一度、聖神堂まで戻ろうと思う。そこでお互いが見たもの、得たものを共有して、状況を整理しよう」
今ここの時代の西暦や、影の事、天凪先生のこと。二人に伝えなければならないことは山の様にある。久は真剣な面持ちで、これからの行動を示した。
「ええ。それがいいわ」
誰もそれに異議はない。ジョゼが代表して反応すると、残りの三人も強く頷いて見せた。
「よし、それじゃあ行こう」
久は今一度レジエラを強く握ると、先陣を切って司書室から飛び出した。その後ろをすぐにタケが続き、最後に織葉とハチがジョゼ抱えて続く。
扉を抜け、階段の踊り場に飛び出る男二人。だが、その足は、踊り場の端、階段の縁ぎりぎりで止まった。
二階へと続く大階段。その階段の下を凝視し、きつい睨みを利かす二人。
視線の先は一階層の階段の最下段。そこで黄髪の魔導士が中杖を手にして仁王立ちしていた。
まるで、久たちが揃って出てくるのを分かって待っていたかのように。
「参考までに聞かせて貰えないかしら。どうやって私の氷を溶かしたの?」
先に口を開いたのは階段下のトウカだった。
トウカは上階に揃った複数人を前にしても、気丈な態度を崩さない。むしろ、先ほどよりも高圧的にも見える。
それに対し、久は足を一歩だけ前に出して片足を一段下に降ろした。
「それに答えるつもりはない。今度こそ、行かせてもらうぞ」
久はレジエラの赤い切っ先を階段上からトウカの喉元に向けて見せた。
「二度、同じことは言わないわよ」
中杖を段上の久に向けるトウカ。貴方たちを行かせはしない。トウカはそれを言葉にせず、久と同じく行動で示した。
「あんたには感謝してる。だが、これは俺たちの時代の、俺たちの問題だ。俺もあんたと同じく、託されたことに向き合う。どいてくれ」
図書館棟の小さな入り口から吹き込んできた風だろうか、風はレジエラの柄を撫で、久の頬をこすると、銀髪を少し揺れて見せた。
「そう。なら、仕方ないわ」
トウカの中杖を構えた腕が下ろされる。久は腕こそ下ろしはしなかったが、槍を構える腕の筋肉の緊張を解いた。
その刹那。
久の目が、一瞬輝くトウカの中杖を捉えた。
(しまっ――)
油断した。トウカは目的を選ばないと、そう自分で明言していたというのに、久はこの場に及んで彼女を信じてしまった。
それが、トウカの狙いだった。
中杖から放たれたのは、一本の氷柱。それを久の両目が捉えた時には、既に氷柱はレジエラの切っ先よりも自分に近くあり、目指す先が自らの眉間だと理解した。
トウカはもう、足止めをするつもりはなかった。
キンっ
細い鋭利なものが突き刺さると、こんな音がするのか、などと思った時、久は自分が無事だと気づいた。
そして気づく、ほんの少し切られた前髪。
「させないっ!」
トウカの放った氷柱は、織葉の刀が突き刺さる寸前に凌ぎ、その身を粉々に砕いていた。
「織葉っ!」
いつしか自分の横に立ち、愛刀を片手で振り上げたその剣士に、久は思わずその名を呼んだ。
「おいお前! さっきから聞いてたら偉そうにっ……!」
織葉は久には向き直らず、真っ赤に熱された刀身をトウカに見せつけた。
「……。」
「何とか言え! 今度久くんに攻撃してみろ。お前の首、落としてやるッ!」
織葉の横顔は怒っていた。目は獅子の如く鋭く煌めき、口の隙間から見える食いしばる歯は、その身を擦り潰すような圧が掛かっている。
「おい、何とか――」
「そんな……まさか――!」
声を荒げる織葉に対し、沈黙を通していたトウカ。しかしその姿は、先ほどの気丈な態度とはいつの間にか打って変わっており、目を見開いて狼狽していた。
「な、なんだ? 一体どうした、あいつ?」
ジョゼを抱えながら、久の肩ごしの階段を下を覗くハチ。明らかに驚きを隠せないトウカらしからぬその異変に、目が離せない。
「なんで、どうして……」
驚き、ふらついた足を一歩後ろに下げるトウカ。杖を構えていた腕はここから見て分かるほどに震え、とうとう杖を床に落とした。
「おりは、ちゃん……?」
顔を片手で覆うトウカから発せられた言葉に、全員が耳を疑った。五人はゆっくりと階段を降りていき、驚愕したままの魔導師に近づいていく。
トウカは口を開き、手で顔の半分を覆いながら、階段上の織葉を真ん丸な瞳で見つめている。
その、トウカの長く黄色い髪が少し光ったかと思うと、いつしか染めたようなあの黄色の長髪が、星色にも似た、銀色の髪に戻っていた。