Chapter8-2
慎重に進む二人の耳のそばを、びゅうと風が切った。
地面から十メートル程の高低差しかないというのに、校舎の屋根上には地にはない強い風が吹いている。
時折耳元を抜け、時折全身に強くぶつかる強風に身を弄ばれながらも、織葉とジョゼは慎重に校舎の屋根上を進んでいく。
校舎の最上階からの景色よりまだ高い屋根の上。そこから見る学園の景色は、屋根が連なる赤い山々に見えた。
校舎と同じく老朽化が進んでいる赤い屋根瓦。時折、踏んだ箇所がパキリと砕け、足を上げると屋根の射角に従って滑り落ちていく。二人は一目見て分かるほどに痛んだ箇所を避けながら、しっかりと歩いていく。
「最初からここ歩けばよかったのか」
身のこなしが軽い織葉。織葉は軽いステップで割れた屋根瓦をとんとんと避けていくと、振り返ってジョゼに手を伸ばす。
「ありがとう。よっと」
足を痛めているジョゼを織葉の手を取ると、それを掴んで割れた屋根を飛び越えた。
「まだ校庭には遠いわね」
独特の風を髪に受けながら、ジョゼが展望する。赤い屋根瓦が続く最中にある校庭には、屋根伝いだとまだ時間が掛かりそうだ。
「凄く安全な分、進みやすくはないもんな。男たちも無事だといいけど」
織葉は遠くを見つめると、荒い言葉を吐きながらも三人の身を案じた。
気付けば太陽は、天高き所から降りてきている。
真っ白に輝き天頂から日光を降り注いでいたそれは、今や巨大な火の玉となり、空を真っ赤に染め始めている。
時は美しくも儚く、そして無常である。
こんな荒廃した次元ですら、美しく思わせる。
強かった風が急におとなしくなり、織葉の頬を撫でて、夕陽をたっぷりと吸い込んだ赤髪を揺らした。
(やっぱり学校、凄くきれいだな)
前景を見る、織葉の赤い瞳。
それが捉える織葉の学び舎は、ひどく壊れてもなお、美しかった。
この夕焼けが似合うこの時代のこの夕日景色を、もう明日は見ることができない。
織葉は見たことのない美しい学園の光景を、脳裏にしっかりと焼き付けようとする。
――かんっ
「……ん?」
橙色に染まる景色の中、織葉は一つの音を捉えた。
その音は耳に当たる風と共に流れてきたようで、何か硬質なもので、硬い何かを叩いた時に似た音のように思えた。
「ジョゼさん、今の音」
「うん。何か聞こえたわね」
夕日に染まる景色からジョゼへと視線をやると、ジョゼもその音を捉えていたようで、どこか遠くを見ながら音の位置を探ろうとしていた。
「敵の音、かな?」
織葉は声を潜めながらその場にしゃがむと、屋根に手をついて辺りに注意を飛ばした。
「分からないわ。けれどもその可能性も当然ある。注意して進みましょ」
ジョゼも周囲から織葉に顔を向ける。
織葉は一つ頷いて立ち上がると、数歩先に前に出ていたジョゼに続いた。
二人が今いる三十一号棟は真上から見ると、左右の縦線が極端に長い、アルファベットのHに似た形をしており、二つの建屋が一本の渡り廊下で繋がっている。
二人は割れた瓦や危険個所を避けながら進みながら、ようやくその廊下部分、Hの横棒にあたる、校舎を繋げる渡り廊下の箇所へと辿り着いていた。
二人は校舎に渡された橋のようにも見えるその屋根の前で、二人並んで奥の校舎を見つめた。
日はかなり斜めに傾き、西日がきつく射している。
「ここを渡る間、織葉ちゃんは左の確認をお願い。私は右を見るわ」
「了解」
この橋のような廊下の屋根は、校舎の校舎の間に位置しており、左右からの見通しが非常に高い。それはつまり、その視認性の高さに比例して、狙撃や襲撃の危険性も高いということだ。
「それじゃ、行きましょ」
時間がないのは周知の事実。いつまでもここに突っ立っているわけにはいかない。
ジョゼは織葉の顔を見てしっかりと頷き、出発を促した。
廊下屋根からの景色はまた異なっていた。先ほどと変わらないはずの屋根瓦とその屋根の造りがどこか心細く、峡谷にかかる一本の古びた橋を連想させる。
行き先と来た道の屋根は、水分を失った赤く固い大地にも見え、眼下を真横に通る乾ききった地面は、どんよりとした生気のない深い河川にも見えた。
足を撫でる風は股下をすぐに通り抜ければいいものを、幾重にも脹脛にぐるぐると巻き付いて周回し、散々足首に絡みついてからその身を遠くに吹き流した。
右からごうごうと流れくる風圧。二人の風はばさばさと左に流れ、右に立つジョゼの茶髪は織葉へと吹き流れていく。
ジョゼはばたばたと荒れる自分の長髪を疎ましく思いながら、右から容赦なく煽る風を一瞥した。
凝視する両目を乾かさんとする強風と、視界の隅から貫こうとしてくる西日。鬱陶しいことこの上ない世界の中、ジョゼの風と眩しさに耐える細い瞳が、校舎間の道の上に転がる、何かを捉えた
(あれって……)
乾ききった地面に転がる黒い枝、いや、あれは棒だ。そしてその棒の片端に一つ、赤い突起が付けられている――
「あれはっ!?」
「うぇっ!? いきなり何!?」
ジョゼは織葉の傍から急に離れると、屋根の際ぎりぎりまで足を進め、そこから更に首を突き出した。
「間違いない……。織葉ちゃん、あそこ見て! 久のレジエラが落ちてる!」
「ええっ! どこだよ!」
校舎の壁脇に落ちている一本の棒。
ジョゼが捉えたそれは、久の装備していた軽量槍、レジエラだった。彼の手中にある筈のそれが、主の元を離れて一人転がっている。
「ほんとだ、久くんの槍……!」
慎重に屋根の際まで進んだ織葉の目も、それを捉えた。
間違いない。久の槍だ。
「でもどうして、こんなとこに?」
織葉は地面の槍から視線を上げていく。
古びた校舎の壁と幾つかの窓枠が目に入るが、それ以外におかしな点はなく、視線はすぐに自分たちの行き先、向こう側の校舎の屋根へとたどり着いた。
「織葉ちゃん、向こうは何の校舎なの?」
半歩引き下がったジョゼが織葉に尋ねる。すると織葉は額を擦りながら、
「ええと、ここは何だったかな。あんまり来てないとこだから――」
織葉は頭を悩ませたが答えは出てこなかった。
「三人とも、この近くにいたのかしら?」
ジョゼはぐるりと屋根上から周囲を見回し、気配を感じ取ろうとする。
「どうだろ。窓から落としたのかもって思ったけど、見たとこ殆どのガラスが割れてるもんなぁ。ともかく、あれ拾ってくるよ」
レジエラが落ちていた付近の窓をそれぞれ見ていた織葉だったが、大半が割れていることに気付くと、そのまま屋根の上から飛び降りてしまった。
すとんと、音もなく着地する織葉。
高低差は先と変わらない十メートルほどあるが、健脚の織葉からすれば大した高さでなく、膝のクッションを軟らかく使って堅い地面に立ち上がった。
頭上から見守るジョゼ。織葉はそのまま足早にレジエラの元へ近づくと、それを手にして持ち上げながら、渡り廊下の際、ジョゼの真下まで戻る。
「間違いよ。やっぱり久くんの槍だ」
織葉の手に収まる細く軽い槍は、まごうことなき久の私物だった。
「ありがとう。でも、久が武器を手放すなんて考えられないわ。よっぽどのことがあったのだと思う」
「あたしたちみたいに、流されたとか?」
織葉が真上を向いたまま答える。
「えぇ。ともかく、私たちも色々と調査をしながら進みましょ。軽く校舎内を覗くくらいはしたほうがいいかもしれないわ」
「だね。なら早速こいつから行きますか」
と、応えた織葉はレジエラですぐ横の校舎壁を突いて見せると、「あたしはこのままここを歩いていく」と言って歩き出した。