Chapter7-6
影の隊列は、織葉のほんの数歩先にまで迫っていた。
「こいつらを倒せなくても、あたしはここから動かない!」
一閃。織葉の刀は真横に薙がれた。
利き手に取った紅迅は、さながら鍛造の只中の様な真っ赤な刀身で、最前列の五体の影を盾ごと真っ二つに切り裂いた。
手ごたえの無い斬撃。空を切る感覚。
見えているのに切れていないこの感覚を、もう一度この手に覚えたくは無かった。
斬撃を受け、解ける様に宙へと流れる影の上半身と、地面に吸い込まれるように消えていこうとする下半身。しかしその両半身は、想像通りの結果となる。
巻き戻し映像のように、宙に消えつつあった半身と地に吸い込まれつつあった半身が戻り、そして、影は二つに増える。織葉が切り裂いた五体の影は、その数を倍に増やした。
(ちいっ!)
左に振り抜いた紅迅の刃を篭手を返して逆に向けると、織葉は更に切り返した。
宙を振り抜ける赤い刀身。やや斜め下から繰り出されるその斬撃は、最寄りの影の膝辺りから入刀し、最奥の影の喉元まで斬り上がった。
命あるものであれば致命傷だ。だが、やはり刀は空を切る感覚だけを残し、見れば影は消滅。そして次の瞬間、倍に増えた。
「くそっ、くそがっ!」
影の倍加と再構築が終わるたび織葉は刀を振るう。
また一人消え、また二人増える。終わりはなく、負け戦にしかならない。
影はこの後の結末が読めているのか、全くもって攻撃を繰り出すことなく、織葉の斬撃を受け止め続ける。
空を切り続ける刀は強い遠心力を何度も生み出し、振り切るたびに織葉の腕と手を持って行かんとせんばかりに引っ張りくる。
空気を相手にする掛かり稽古のような動作は織葉を疲弊させていく。
それでも織葉は愛刀を振り続けた。
もう何度切り抜いたか分からない。眼前を覆い尽くす影が何倍になっているのかも分からない。ただ一心に刀を振るい、降りかかる危機を遠ざけようとした。
それは一重に、守らなくてはならない仲間のため。
そして、もう一度会いたい仲間のため。
(だから、こんなところで――)
「負けてられないんだぁッ!!」
下段に構えた紅迅がもう一度刀身を真っ赤に燃やし、織葉の横凪ぎに答えた。
ゴウッ!
下段から真横に振りぬかれた紅迅は大気の酸素を反応させ、織葉の眼前を爆炎で覆った。
瞼に感じる熱波と、頬を擦る煙。斬撃か魔法攻撃か分からない織葉の一撃は、隊列をなしていた影の軍勢を押しのけ、左右に倒れこませた。
左右に倒れるドミノのように、隊列の中央にほんの少しの空間が生まれる。
その向こうに見えるは、自分たちが目指していた三十二号棟の棟端。影の隙間から見えるそれは、遥かに遠い。
地面ではもう、影が立ち上がり始めている。
中には織葉の爆炎で片腕を失った者もいるが、それがもたらす結果は火を見るより明らかだ。
織葉はもう一度、影の隙間を縫って棟端を見つめる。
影の隙間より見えるそこは、離れていくかのように遠く見える。
(誰か、気づいてくれ……!)
刀を握る手に柄紐が食い込んだ。
眼前ではとうとう、影たちが各々の武器に手を掛けていた。
当初の二倍、いや三倍には膨れ上がった影の隊列。
薄い命のない、殺戮にしか興味のない彼らが、ぬるりと、不気味に光る武器を手にした――
ズドォン……
刹那、足に感じる揺れ。
遠くで大きく一つ揺れたかのようなそれは織葉と、今にも飛びかかろうとしていた影を制止させた。
「今のは――」
誰も動かないこの空間は、ひどく静かだ。大気に充満していた殺意は何処かへと吹き流れ、影と二人を包み込み――
ガタガタガタッ!
「うわぁっ!? なんだよ!」
突如、地面が連続的に揺れた。
織葉は刀を地面に思わず突き刺すと、それを強く掴んで耐えた。縦揺れだ。
上下に残像を残す視界の中、影たちはその連続した衝撃に耐えれないのか、その場に一人、また一人と倒れていく。
織葉の足にも強い小刻みな振動が波のように押し寄せてきており、どこかくすぐられるような感覚が、両足から踏ん張る力を奪っていく。
(これは、魔法、なのか――?)
地に突き立てた刀から両手にも振動が伝わり、柄を握る握力も消失させようとしている。
織葉は決して膝はつくまいと、ばたばたと倒れ行く影を睨んだ。
「なっ!? ウソだろっ!?」
震える両目で捉えた先。影の隊列のその先ではなんと、校庭でも見た、あの濁流がこちらに迫ってきている。
巨大な蛇が大口を開いて迫りくるような、茶色い強烈な濁流。
地面と校舎の壁にぶつかりながら水しぶきを舞わせ、隊列の崩れた影の軍勢を飲み込もうとしているのだ。
(ここにいたら、マズいっ……!)
濁流は瞬きの間にも距離を詰め、確実にこちらを捉えている。あれに意志はないだろう。
地面はまだ揺れている。足裏に感じる揺れが気持ち悪い。
それでも織葉は、地面から刀を抜いた。
「うおぉっ!?」
支えを失った織葉の小躯は簡単にふらついた。世界が真横に傾いたかのように、織葉の体も横に流れていこうとする。
「こ、らえろっ!」
自らの足を叱責し、横転を堪える。
ふらつく世界の中で織葉はなんとか愛刀を鞘にしまい込むと、目が回ったようなぐにゃぐにゃと歪む世界の中を、必死に駆けた。
すぐ後ろに濁流が迫っている。それは音で分かった。
うなじには水しぶきが跳ね飛び、もうそこまで大口を開いた濁流が迫っていると身をもって感じさせた。
「ジョゼさん!」
織葉は脹脛に力を込めると、乾いた堅い地面を蹴り、宙をかっ飛んだ。
背後にまで迫っていた濁流からほんの少しだけ離れた織葉は、そのまま空中で二、三歩、幅跳びの要領で足を漕ぎ、痛めた足でなんとか立ち上がっていたジョゼの目の前に飛び降りた。
「おりは、ちゃ――」
「掴まって!」
言うが早いか、行動が早いか。
織葉は目をまん丸にして驚いたジョゼの胴に腕を回して力の限り掴むと、まだ少し着地で痺れている両足で地面を蹴り込んだ。
足の骨に響く、強烈な衝撃。
そして、自分が宙に浮かびあがる、ふわりとした浮遊感。
直後、つい数秒、いやコンマ数秒前まで二人立っていた校舎の壁には、地面を掻き荒らしながら全てを飲み込まんとするような、汚れに汚れた濁流が激しくその身をぶつからせていた。
大しけの海岸沿いのような激しい飛沫を上げる濁流と校舎の壁。
雨の様な飛沫と、激しい落下音にも似た水同士が激しくぶつかり合う轟音。
その世界の中、地面から飛び上がり、眼前の校舎の壁を蹴りながら上へと逃げた織葉は、そのジョゼを掴んでいない空手で、校舎の屋根に取り付けられた雨どいをなんとか掴んでいた。