Chapter7-5
「そんな、バカな――」
最初に影を睨んだとき、確かに二体だった。その左右にも前後にも、他の影はどこにも見当たらなかった。
だがもう、それは過去の話だった。
刀に手を掛けることも忘れて思わず立ち上がる織葉の目に入るは、一列五人の盾持ちの影が、その後ろに何組も何組も続いている様だった。
先頭列から三、四列くらいまでは頭が見えているが、それより後ろはどうなっているのか見当もつかない。ただ一つ分かっているとすれば――
(ちょっとやそっとの、数じゃない……!)
隊列はおそらく、一桁を越えている。
つまり、五十人は下らない。
ここから見えている前列の影たちは盾を持っているが、全てがそうとも限らない。
「こいつら!」
織葉はようやく刀に手を掛けると、じわりじわりとこちらとの距離を狭めてくる影の一団を睨む。それはいつもと変わらない鋭い眼光だったが、数十人の隊列を止めるのは到底至らない。足並みと足音を一つに揃え、一歩、また一歩と二人に迫り来る。
(後ろには、下がれない……よな)
後ろを振り向かずとも分かる。自分の後ろに続く道の果てが行き止まりなのは、この道をそこから進んできた自分が一番良く分かっている。
だが、眼前の影をなぎ倒して前進することも出来ない。奴らに自分たちの攻撃が効かず、不利な状況を作り出してしまうだけということも、身を持って知っている。
(どうすれば……一体どうすれば……!)
後退も出来ない。鞘から刀を引き抜くことも出来ない。
織葉の焦る脳内に響くのは足並み揃う行進音だけ。音量だけが次第に上がる、その一定のリズムが、織葉のリズムを狂わせていく。
額の直上、前髪の生え際からは脂汗が滲み、じっとりと額を占拠していく。
「あたしは、何をすれば――」
とうとう織葉の口から、言葉が漏れた。出すまいとしていたそれは、地面を踏みこむ隊列の一定のリズムに誘われ、口の隙間からぽとりと零れ落ちた。
「織葉、ちゃん」
足音で一杯になっていた意識と脳内に届く、別の音。せき込む声だ。
「ジョゼさん!?」
その弱々しい声は、織葉を我に返させるには十分だった。
その場から振り向いた先に見えたジョゼは、幾分か回復したのか、先ほどよりも自力で地面に腰かけている。
「いい、織葉ちゃん。私を置いて逃げて」
「――えっ……?」
そうしなければ二人とも死んでしまうというお約束の説明は、織葉の耳には届かなかった。
「そんな……! やだよ! ジョゼさんを置いてはいけないっ!」
織葉はとうとう影の一団を視界から外し、未だ座り続けているジョゼに駆け寄ってしゃがんだ。
「優しい織葉ちゃんなら、そう言うと思った。――でも、駄目よ。手負いの私を抱えて振り切れる数じゃない」
小さな咳を幾つもしながらも、ジョゼの声色ははっきりとしていた。眼前の織葉を射抜く二つの目も、いつも通り強い。
「情が移った行動で、自分を滅ぼしちゃ駄目。 行って?」
何処か重く腕を上げ、進むべき道を示すジョゼ。その腕には無残に壊れた籠手、テンペストの破片がぶら下がり、時折その破片を落とした。
ざくっと、進み来る足音が枯れた雑草を踏んだ。
見ると先頭の盾持ちが、十メートルほどしか離れていない箇所で、この地で辛うじて生き延びていた植物を踏み殺した。
「でも、でも――」
もっと早く敵に気付けば良かった。服なんか絞らずすぐに発てば良かった。校庭で自分がジョゼを守ればよかった。
押し寄せる後悔の念は止まる事を知らない。
自分が逆の立場であればすぐさま取るであろう行動に、うんと頷いて先に進むことが出来ない。
「やだよ……」
織葉が取れた行動は、情けない声でジョゼに言い返しただけだった。
「あたし、二度も仲間を置いて逃げたくない……あの時だって、何も出来ずにあたしは助かった……。だから……」
今も一人聳える、エルマシリアの奥。武神の塔。
そこでのゆいとの別れは、織葉の心に強く強く刻み込まれている。
あの時も後悔した。
何故死ぬのは自分じゃないのかと。どうしてもっとゆいを下がらせなかったのだろうと。
どうして、どうしてゆいが全てを背負わなければならないのだろうと。
「世界がどうだとか、あたしには分からない。でも、でももう、仲間を一人残してどこにも行きたくない……!」
織葉に向けられた、ゆいの最後の笑顔。
その笑顔を、もう二度と見てたまるものか。
影の足音がより一層近づいた。
首を動かさずとも分かる。彼らはもう、自分たちのすぐ横まで迫っている。
だからこそ、織葉は吠えた。
あれから少し、大人になった織葉。
織葉は学生の頃の無鉄砲さを身に纏うと、構えもいい加減に勢いに身を任せて紅迅を引き抜いた。
「あたし、絶対に何処にも行かないっ! ジョゼさんに、何と言われようともっ!!」
強引に鞘から抜かれる愛刀、紅迅は鞘口を擦り、幾つかの火花と小さな炎を生み出しながら、真っ赤に熱された刀身を露わにした。