Chapter5-8
ひとかげ
その単語は、過去にギルドが正式決定した“影”の正式名称だ。
その名称を初めて聞いたのは数年前、武郭のとある邸宅だったはずだ。
「まぁ、貴方たちの素性が不明だから、それこそ嘘かもしれないけどね。さて、じゃあ私からの質問に答えてくれるかしら」
久たちの素性が分からないことを盾に、それすら嘘であるかもしれないと明言してしまう強気な魔導師は、いよいよ自分の問いをもう一度切り出した。
「わかり、ました。その問い、お答えします」
眼前の魔導師の素性だって分からない。だが、この魔導師はギルドが呼称した影の呼び名を知っている。
それに、その影をも流す魔術。あれは紛れもなく本物だ。威力も高い。
自分を信じ込ませるだけに、あれだけの影を圧倒するとは考えにくいし、演技としても大がかりすぎる。
それに思い返すと、自分が影の敵でないと否定した時の表情や声色も、演技とは思えなかった。
久たち三人は、この魔導師は敵ではないと仮定して、自らのことを口にした。
「私たちは、ここよりも“過去”から来ました。未来……この時代に飛ばされてしまった、大切な仲間を連れ戻しに行ってほしいと、そう頼まれてここに来たんです」
理解されるとは思っていない。まだ時間移動を経験していない自分たちが逆の立場であれば、それは間違いなく信じがたい話である。
しかし、それを聞いた魔導師は、それを嘘と一蹴することなく、それを吟味するかのように濁流の中の三人を凝視した。
三人の顔にも目にも、嘘や偽り、ふざけと言ったものは僅かにも見受けられない。
突拍子のない話に思えるそれは、三人の真剣そのものの顔によって、真実へと昇華していきそうになる。
「それは一体誰に頼まれて、この時代の誰を探しに来たの?」
三人の足に触れる水流が、分かるほどに穏やかになっていく。
その足に伝う感触は、三人に安心と、この人は敵ではないという感情を与え始めた。
そして全てを答えるために、最後に口を開いたのは久だった。
「依頼者は、もしかすればまだ生きている人かもしれません。その人の名は――」
そして久は、自分たちの知りえる最上級の魔導師の本名を口にした。
濃紺のローブと三角帽子を身に纏う、桃髪の雷撃使い――
「……天凪桃姫と、確かに言ったわね?」
間違えるはずもない。三人は強く頷いて見せた。
「そう、よく分かったわ」
その小さな発言の直後、三人を襲う水流の強さが、更に穏やかなものへと変わり、そして、ダムの放流が終わったかのように、ぴたりと水流が止まった。
小さな生き物の大移動が終わったかのように、水の流れはその終わりを見せると、校庭の果てに流れていき、そして視界から濁流と、そこから生まれる音を消した。
雨上がりにも似た、どこもかしこも濡れきった地面。
足に感じる重みはすでに無くなり、三人は久しく、地面だけの感覚を得た。
「三人とも、着いてきてくれないかしら」
「……何?」
ズボンの裾から垂れる水滴の音が、やけに大きく聞こえた。
「少し、貴方たちから話を聞きたい。着いてきてもらえないかしら」
ここにきてようやく、魔導士の女性は口調を少し、穏やかにした。
「それは、俺たちと敵対する気はない。と捉えていいんですか?」
久が一歩前に出て、より強い視線で問う。
背中に担いでいる黒柄の槍が揺れて見せた。
「そうね。よっぽどのことがない限り、私から攻撃することはないわ」
敵対するかどうかという久の質問に対し、曖昧な返答が戻る。
「……着いてきて、もらえないかしら?」
女性はほんの少し、首を傾げた。
不自然なまでに黄色い髪が、それに合わせて少しだけ揺れる。
「わかり、ました。ですが、私たちもよっぽどのことがない限りは、攻撃しない立場であると言うことを覚えておいてください」
久はそれに承諾したが、まだ心まで許しはしなかった。
どこか冷たい魔導師の言葉を自分のものにして一つ宣言し、自分たちもそちらのことを疑っているという点を、強く表明し、相手の出方を待った。
「それでいいわ」
黄髪の女性はくるりと背中を向けると、着いて来いと言わんばかりの動きで、足を前に進めていく。
「おい、女!」
すると、踵を返し進んでいく眼前女性に対し、ハチが汚く声を荒げた。
「何かしら、手裏剣使い?」
左足を半歩下げて振り返る女性の表情は、やはり厳しいままだ。
酷い時代を生き抜いてきた猛々しい瞳が、呼び止めたハチを睨む。
「お前、なんて名前だ。魔導師だ女だ、呼びにくくて面倒だ」
ハチは女性の態度の悪さに対抗するかのように顎を少し振って、女性の名を訊いた。
「……」
女性が三人に振り向きなおった時、校庭に風が吹いた。
温かくも冷たくもない、感情のない風は校庭の湿った地面を撫で抜けて行くと、そのまま女性にぶつかり、茶色いマントと真っ黄色の髪を同じ方向にばさばさと流し靡かせた。
「……トウカよ」
髪色の対比色とも取れる群青の瞳が、名乗りと共に三人を凝視した。
「トウカ、さん?」
久がぽつりと、名乗られた名を確認するかのように復唱する。
「そうよ。私の名はトウカ――“泥水”のトウカよ」
茶色いマントは軽いマフラーの様に、更に宙を靡き、スカートと腰に下げた二種の武器をも揺らして見せた。
久たち三人の目の前に現れた水を扱う魔導師。
全てを風に靡かせ久たちを睨むその女性は、「泥水のトウカ」と、そう名乗った。