Chapter3-3
少し散り始めた桜に小鳥が止まったかと思うと、僅かな羽ばたきが数枚の桜花を散らした。
村に届く爽やかな朝日が桜の花びらを柔らかく照らし、寝ぼけたような柔らかな桜色の花を、白く輝く花弁へと変貌させていく。新しい一日の始まりである。
朝日で十分に明るい台所で一人、タケはモーニングコーヒーを淹れようと湯を沸かしていた。
テーブルの上にはサイフォンとアルコールランプ、挽かれたコーヒー豆と愛用のカップが既に用意されている。
その時、壁に掛けられた時計が一つ、低い鐘の音を鳴らし、時刻を告げた。
見ると時計は、出発一時間前の時刻を告げている。長針と短針を上下に真っ直ぐ、ぴんと伸ばしていた。
支部と来駕家は静かなもので、少なくとも男性陣はタケ以外、まだ起床していない。
ジョゼと織葉は別室なのでよく分からないが、まだ今朝になってからは顔を見ていない。
「よしと」
コンロにかけていた赤いやかんの口から湯気がしゅんしゅんと吹き出るのを見て、タケは火を弱め、流し台にサイフォン一式とコーヒーカップを移動させた。
カップに熱湯を少し注いだあと、化学の実験機材のようなサイフォンの下フラスコに湯を注ぎ、そこへロートを斜めに軽く差して、挽いた豆をスプーンで掬い入れた。
コンロの火を完全に落としたタケはマッチを擦ってアルコールランプに着火させると、熱湯で満たされているフラスコの下にそれを滑り込ませた。
白い芯から上がる炎は青く透明で、風の無い室内で真っ直ぐに燃え上っている。
小さいながらも十分な火力のランプは、すぐにフラスコの下部に小さな気泡を幾つも作り出した。
(いよいよ、か)
沸騰が迫るフラスコを見つめながら、タケは今日までの数年間を振り返った。
セシリスに待望のギルド支部が出来てもう二年。
ギルドの業務を務めながら今まで通りの依頼業もこなしているからか、設立から今日までは上流の川の流れの如く、速く流れた気がする。
フラスコ内に溜まって行く気泡たちは、仲間同士集まるかのようにガラス沿いに動き、その大きさを変えていく。
そして、織葉とゆいに出会って早三年。
あの初対面の時を思い返すと、今日までは嵐のように過ぎ去った気さえする。フラスコの気泡は更に小さな気泡を集め、大きくなろうとしていた。
そして気泡はいよいよガラス面を離れ、フラスコ内に泡として旅立ち――そして水面で弾け消えた。
六人で共に乗りきったユーミリアスの危機。
あれはほんの二週間ほどの出来事だった。それは何に形容するまでも無く、短すぎる期間。
その中で、織葉以外の四人が、ゆいと話した時間は数時間にも満たないのだろう。
ほんの数年前の、たった二週間。更にその中の、ほんの僅か数時間。
その数時間が四人の心に刻んだものは計り知れなかった。
あれから、何も変わっていないのかもしれない。何も動いていないのかもしれない。
全てが変わったのかもしれない。大きく動いたのかもしれない。
スタートラインなのか、ゴールテープ直前なのか、それともまだコース中盤なのか――
(終わったのか、終わっていないのか……)
「――タケ、大丈夫? お湯、沸いてるわよ?」
「……えっ」
どれほど考え込んでいたのか分からない時間。驚きの声を上げたタケの横には、どこか心配そうなジョゼの姿があった。
「うおっ! ジョゼか」
「どうしたの? 怖い顔してサイフォン睨み付けて」
視線の先には、ずっと見ていた筈のフラスコがいつの間にか、ぼこぼこと大きく沸騰している。タケは慌てて上部のロートを差し込むと、撹拌させる竹べらを手にした。
「ともかくおはよう。何か心配事?」
ジョゼは動き出したタケを見ると半歩下がり、タケに挨拶をした。ジョゼはまだ髪を括っておらず、茶髪が背中いっぱいに広がっている。
「おはようジョゼ。大したことじゃない。数年前からのこと、色々思い返していたんだ」
包み隠すようなことでもなく、タケは正直に話す。
眼前のサイフォンはゆっくりと下フラスコから湯を吸い上げ、ロート内で豆と混ざりながら水位を上げていく。タケは軽くへらでかき混ぜながら、その出来栄えを香りで吟味した。
「なるほどね。私も何度も思い返すわ。あれからまだ数年なんて何だか変な感じよね」
ジョゼは食器棚から手近なカップを取り出すと、流し台上のタケのカップの横に置いた。
「オレたちももう二十歳だしな。世界が変わったとは言わないが、身の回りは結構変化したし」
ランプの火を落とすと、ロートのコーヒーが下がって行き、フラスコ内に再び戻った。
タケは全て落ち切ったのを確認すると、出涸らしの残ったロートを外して流し台に置き、フラスコのコーヒーを二つのカップに均等に注いでいく。
「カップ温めなくて良かったのか?」
「うん。そんなに熱々じゃなくていいわ」
ありがとね。と、湯気の立つカップを手にすると、ジョゼは席に着く前にテーブル横の窓を開けた。
すると、朝のまだ少し冷たい風が優しく吹きこみ、二人の長髪を撫でて通った。
部屋の中に流れた朝の空気が、湯気から上るコーヒーの香りを少し際立たせた。二人はその微かな香りを楽しむと、淹れたてのコーヒーに口をつけた。
「未来にコーヒーはあるのかしらね」
カップを両手で持ち、冷ましながら飲んで行くジョゼが、適当な書籍片手にコーヒーを難なく飲んで行くタケに話しかけた。
するとタケは本を机に置き、
「そりゃあるさ。珈琲豆は人類最大の発見なんだからな」
と、どこか得意げに答え、もう一口すすった。
舌に感じる独特の芳ばしい苦みと、その中に隠れる優雅な甘み。口内から溢れる特有の香りは鼻孔を抜け、脳をふんわりと包んで心をも落ち着かせてくれる。
少し中毒性があり、飲み過ぎると胃に良くはないと聞くが、この独特な味と香りを生み出す珈琲豆を発見し、それを飲料として始めて試みた人々は、伝記になったどんな偉人よりも褒め称えるべきだと、タケはいつも豪語する。
「さてと、そろそろ三人も起こす?」
少し冷めた最後の一口をジョゼがくいと飲み干し、立ち上がった。
見ると時計の長針が、文字盤の上で頭を下げるように折れている。出発四十分前ほどに迫っていた。
「だな。織葉を頼むよ。オレは二人を叩き起こしてくる」
「了解よ。織葉ちゃん起こしてそっちに向かうわ。コーヒー、ごちそうさま」
ジョゼはカップを軽くすすいで流し台に置くと、そのまま書斎へと歩を進めていった。
タケも席を立ってカップをすすぐと、ジョゼのカップの横に置き、支部の方に退室した。