6-13
救世主のごとく現れた小柄な少年は、ほぼ全員の視線を浴びながらも顔色一つ変えない。それどころか、気安さを持って佇んでいる。
隙を見せない佇まいは敵を攻撃する機会を奪い、気軽な雰囲気は味方に安心感を抱かせる。
「もー少し早く来るべきだったね」
血塗れで倒れるレミと、レオンの必死の治癒で命を繋いでいる海里を見て悪びれることもなく健はそう言った。
虚空、森の奥、そして呆然とする面々を順繰りに見たのちに再び口を開く。
「動ける人は結界の中へ。陰鬼は敵を足止めしながら怪我人を運んで」
「はあ、鬼使いの荒い人ですね」
健の傍らに音もなく出現したのは長身の男性だ。長い前髪の隙間から覗く瞳は血を零したような真紅であり、頭には二本の角が生えている。
どことなく陰鬱な雰囲気を纏う男性――健が陰鬼と呼んでいた――はいつの間にか浮かんでいた灯を頼りに地面を踏み抜く。
「影縫」
瞳を紅く輝かしながら一言。刹那の時を経て、敵の動きが止まったことを一瞥で確認する。
文句を言いつつも、しっかり役目を果たす陰鬼はレオンに協力する形で海里を結界の中へ運んでいく。続くようにレミを抱え上げた陰鬼を見届けた健は、未だに状況を掴めていない二人の人物へ目を向ける。
「兄さんたちも結界の中に。罠とかはないので安心していーですよ」
冗談交じりの健に促された星司は華蓮は消化不良ながらも、結界内に足を踏み入れる。と同時に身体が軽くなった。
邪気が混じっていない空気を吸ったのは久しぶりな気がする。それほど長くはない時間でも、邪気が満ちた空間にいるというのは心身ともに疲れるものらしい。
緊張が緩んだためか、忘れていた痛みが蘇ってくる。じわじわと力を増していく痛み。
華蓮も華蓮で、蓄積した疲労を思い出したようにその場にへたり込んでいる。負傷だけでいえば一番被害が少ない華蓮ですらそうなのだから、レオンたちの疲労は相当なものだろう。
あのまま戦っていたら完全に負け戦にしかなりえなかった。そう考えると健の登場は天の恵みと言える。
回らない頭でそんなことで考える星司の肩を誰かが触れた。
――仄かな殺気。
心臓を鷲掴みにされた気分で、反射的に振り向く。
完全に気を抜いていた。ここは健が用意した結界の中とはいえ、今は生死をかけた戦闘中だ。警戒を最大限に振り向いた先に立っている人物を見て、星司は目を丸くする。
「そんな怖い顔しないでくださいよー」
丸い目に涙をためて、そんなことを言うのは星司の弟である悠だ。
健の双子の弟でもある彼は驚くほど健と似ていない。小柄な健とは対照的に身体つきは平均的で、浮かべる表情も正反対だ。
顔立ちは似ているものの、体格はまるで違う。双子というよりは兄弟といった方がしっくりくる。
そんな彼がまさか敵なわけがなく、先程感じた殺気はなんだったのだろうと小首を傾げる。
「なんでお前もいるんだ?」
健と双子とはいえ、悠は妖を含めた裏の世界とは無縁の人間だ。戦場の真っ只中にその無邪気さは不釣り合いだ。
きょとんとした顔で星司を見返していた悠はすぐに自信満々のドヤ顔を見せる。胸がわずかに反っているように見えるのは、きっと気のせいではない。
「なんでもなにも、健兄さんに頼まれたからですよ? 僕の力が頼りなんですって。いやぁ、そんなこと言われると照れちゃいますね」
「悠、うるさい」
最後に結界へ足を踏み入れた健は、地面に捨てられていたレミの片翼を渡す。
二人の空気感はいつも通りで、少し拍子抜けしてしまう星司である。
「あ、拾ってくれたんですね。さすが、健兄さん。助かります。一から再生すると時間も労力もすっごく必要ですからね」
「じゃ、後はよろしく」
「合点承知です。健兄さん、くれぐれも無茶な真似はしないでくださいね。あ、無理もダメですよ。言っても聞かないのは分かっていますけど、絶対の絶対にダメですからね」
しつこいくらいに念を押す悠をあしらいながら、健は背を向ける。満身創痍の中、一時の休息を取る面々に背を向けた意味を悟った星司は思わず彼に呼びかける。
ふっと無機質な瞳がこちらを向く。機械的なまでに感情が読めない瞳が和らぎ、呆気にとられているうちに、わずかに綻んで唇が開かれる。
「大丈夫。俺は死なないから」
聞き覚えのあるフレーズは不思議な説得力を持っている。
引き止める言葉を失った星司は、一人で結界の外へ出ていく健を見送るしかなかった。
「さあて、僕は僕の役目を果たすとしましょうか。あれ? 星司兄さんってば、どうしたんですか」
「……一人でなんか無茶だ」
あれだけ強いレミですらオンモに敵わなかった。手酷くやられ、今は辛うじて意識を保っている状態だ。
その実力は妖界で五本指に入るらしい彼女ですら苦戦を強いられたオンモに加え、サカセや翔生だっている。負け戦という文字がはっきりと浮かんだ。
「大丈夫ですよ。健兄さんはお強いですし」
「けど……っ!」
「陰鬼さんの足止めは時間稼ぎにしかなりません。これが最善の策です。それとも星司兄さんには他に妙案があるんですか?」
「俺は」と口を開きかけて息を呑む。
知らない。こんな悠は知らない。
無邪気で、子供っぽくて。裏の世界とは無縁だと思っていた。今考えれば不思議な話だ。
悠はいつだって健の傍にいる。うざがられても構わずずっと。
裏社会の奥深くにいる健の傍に常にいて何も知らないなんてありえない。そのことに思い至りながらも、やっぱり悠は裏とは無縁の人間のように思えてしまう。
「星司兄さんが動いても邪魔になるだけです。怪我人は大人しくしていてください」
一瞬、棘のようなものを感じた気がした。
気のせいかと目を向けたときにはすでに悠は次の行動に移っていた。
悠が健に与えられた役目は怪我人の治癒だ。
未だ、海里の治癒に全霊を注いでいるレオンに声をかける。結界内の澄んだ空気の手助けもあって血は止まったものの、余談は許さない状況なのは変わらない。
「レオンさんもお疲れでしょう。後は僕が代わります。腕には自信があるので、大船に乗ったつもりでいてください」
「助かります……」
疲労を色濃く映し出した顔には微かな緊張が宿っている。
こうして駆けつけてくれたことにはありがたいと思う。反面、レオンにとって岡山健は味方とは言い難い存在であることも事実。
彼に付き従う悠もまた、侮れない人物であることに変わりない。
本当に悠に任せてしまったもいいのだろうか。
「大丈夫ですよ」
空気が読めない。そう思っていた人物の言葉に思わず警戒がよぎる。
付き合いが浅いということもあって健以上に読みづらい。
「海里さんにも、他のみなさんも、危害を加えるつもりは一切ありません。そうですね。神に、いえ、健兄さんに誓って」
最も信頼する人物を引き合いに出す悠の気迫は他者に抗えさせない何かを持っている。
他に策がないのも事実なので、レオンは頷くしかない。
信用できないなどと駄々をこねて、海里の命を損なうよりずっといい。
緊張の糸をほどき、久しぶりの澄んだ空気を肺でいっぱいにする。疲労で茫洋としつつあった意識に喝を入れる。
「悠さん、いくつか質問してもかまいませんか」
「いいですよ。僕に答えられる範囲ならいくらでも」
すでに海里の治癒を始めた悠は当然のように答える。答えられる範囲なら、と保険を入れているあたり、やはり健の弟だ。
治癒に専念してもらいたいという思いもあるので、手短に済ませられるように脳内で整理する。
「この空気は一体どこから?」
今、史源町には絶え間なく黒雪が降り注いでいる。邪気から生み出された雪は町を汚染していく。
その中心地である“はじまりの森”がこんなに清浄な空気に満たされているわけがないのだ。仕掛けは周辺を覆う結界にあるとレオンは踏んでいる。
可能性は二つだ。一つは、清浄な空気を生成して結界内を満たすというもの。そしてもう一つは、どこか清浄な空気を閉じ込め、運び込んできたというものだ。
前者は時間も労力もかなり必要とする。健が選ぶならば後者だろうと推測するレオンの読みは当たりらしく、悠は「貴族街からですよ」と無邪気に答える。
「はじまりの森は貴族街まで続く広大な森ですからね。幸い、あちらの被害はゼロですし? 繋げちゃいました」
「繋げた……!? そんな簡単にできるとは思えませんけど」
「簡単、ではないですよ。難しくもないってだけです。要は結界の境目を基準にして空間を繋げただけ。まあ、協力を得るのにちょこっと苦労はしましたけどね」
協力という部分に反応を見せたレオンに、悠はしたり顔を見せる。治癒しながら随分と目敏いものだ。本当に侮れない。
「もしかして健兄さんがやったと思ってましたー? できないとは言いませんけどね。今回は違いますよ」
「それで、協力というのは誰なんです? 貴族街の関係者というのは想像つきますが」
「そこまで分かれば十分ですよ。喋るなって言われませんから喋りますけど」
その口振りから察するに、口止めされていることもあるかもしれない。
無邪気かつ奔放に振る舞う悠にいいように振り回されている気がしてならないレオンである。
「一鬼さんって言っても分かりませんね。……うーんと、紅鬼衆のまとめ役さんです。空間を捻じ曲げたり、繋げたりできるんですよ」
貴族街の戦力とも言える情報を躊躇いなく明かす悠。
「結界を隔ててるといっても万全ではないですし。少しでもあっちに邪気が流れ込む素振りがあれば、すぐに繋がりを切るって条件付きですけど。まあ、時間の問題ですね」
外の汚染が進めば、いずれ結界内にも邪気が入り込むだろう。貴族街で空間を繋いでいる一鬼が邪気を感知した時点で接続は切られる。
あちらにはあちらの守るものがある。贅沢は言っていられない。
条件の範囲内で事を片付ければいいだけの話だ。
「というほど簡単ではありませんね」
オンモたちを倒しただけで終わるわけではない。町を浄化し、軛を打ち直して初めて全てが終わるのだ。
それを短時間で、しかも一人で行うのはいくら健でも不可能と言える。
難しい顔を見せるレオンと対照的に、悠の表情には余裕があった。
「できちゃうのが健兄さんなんですけどね」と一瞥する悠につられるように、レオンは初めて結界の外へ目を向ける。
三人の敵と対峙する健の姿。思えば、健が戦う姿をちゃんと見るのはこれが初めてだ。
小柄な少年が持つのは二振りの剣。細身の剣は闇色の刀とかち合う。激しい剣戟の果て、健は背後に向けて剣を投げる。鮮血を散らし、迫りくるサカセに突き刺さった剣を気にする素振りのない健の手には、別の剣が握られていた。こちらは先程よりも刀身が短い。
使い捨てるようにいくつもの武器を使う、というのがどうやら健の戦い方らしい。
捨てられた武器は人知れず霧消する。ただ消えたのとは違う消え方に違和感が付きまとう。
「還元。それが健兄さんが得意とする術です」
還元。物事を元のかたちに戻すこと。
発動した術を元のかたちに戻すというのは、霊力を戻すということだ。
術を行使しても、霊力を消耗しない。そんな術が本当に存在しているというのなら、何故知られていないのだろう。妖界に伝わる術を一通り知っているレオンでも、還元なんて術は耳にしたことがない。
「厳密に言うと還元できるように術式を組むらしいですけど。しかも、いろいろと条件付きだとか」
「……条件ですか」
「術式は固定化したものに限られるみたいですね」
戦闘で使うにはあまりにもメリットが少ない固定化を健が多用している理由はそれか。
霊力や妖力によって生成されたものは、非常に不安定なものだ。使用された力の分だけしかこの世に存在を保てない。長時間、存在を保たせるにはそれだけ力を注ぎ込まなければならない。
それを免れるのが固定化だ。生成したものをこの世に繋ぎ止める。技術も、力も必要とする上に不安定故の特性を失われてしまうため、戦闘で使われることは少ない。今の健のように武器を作り出すのが精々だ。
「聞いた私が言うのもなんですが、話しても大丈夫なんですか」
「あっ!! ど、どうしましょう。健兄さんに怒られる……。さっきまでの話はなしって、できないですよね」
レオンは味方というわけではない。そのことに今更思い当たったらしい悠は分かりやすく慌ててみせる。
素なのか、演技なのか。見ているだけでは全く分からない。健の双子だからと警戒しすぎといわれたらそうかもしれない。
ただ、慌てふためいているようで変わらず高い練度を保った治癒の術を行使し続けている姿を見る限り、レオンの警戒も的外れではないように思える。
見れば、血はとうに止まっており傷口には薄皮が張っている。一先ず、山場は越えたといったところか。
「でもでも、口止めされていたわけじゃありませんしね。そうですよ! 口止めしなかった健兄さんが悪いんです」
「……う」
責任を兄へと丸投げする悠の傍で微かな呻き声が上がった。
聞き逃さなかったレオンは今までの思考を押しやり、海里の傍で膝をつく。
瞼が震え、隻眼が薄く開かれる。焦点が定まらない瞳が宙を彷徨い、レオンを見つける。同時に浅い呼吸を繰り返すばかりだった唇がゆるゆると孤を描く。
「じょ、きょ……は」
「健さんが助太刀に来てくださいました。海里様は安心して休んでいてください」
「けん、くんが……?」
横目で結界の外を見れば、一人で三人の相手をしている健の姿が映る。遅れを取るどころか、あしらうような戦いぶり。
一人の小柄な少年に翻弄される者たち――そのうちの一人を目で追っていた海里は、ゆっくりと視線を元に戻す。元に――そこには海里の治癒を行う悠の顔がある。
双子というわりに、彼とはそれほど似ていない。丸い瞳は海里の視線に気付き、何度か瞬きをする。
「ゆ……くん。っ……五分で、どこまで治せる……?」
「海里様!?」
申し訳なさそうに微笑む隻眼に明確な意思が宿っている。
「中途半端に治しても足手纏いにしかなりませんよ。心配しなくても、健兄さんはとってもお強い人です」
「わかって、る」
分かっている。彼の戦いぶりを見れば、一目瞭然だ。
健は誰かの手助けなど必要としていない。それでも譲れないものが海里にはある。
向けられる無邪気で純粋を装った瞳。実は、悠と面と向かって話すのはこれが初めてで説得できる言葉はもっていない。だからこそ、飾らない言葉でと息を呑む。
「分かってるよ。――それでも、俺がやらなきゃいけないことなんだ」
「情で訴えても無駄ですよ。僕はそんなものでは動かない」
冷たいものが駆け抜けた気がした。きっと、それが悠の本当の――。
構わず、海里は言葉を続ける。
「全ての責任を健君に押し付けるなんて俺にはできない。俺が背負うべきものは自分で背負う」
今日初めて悠の動きが止まった。はっと息を呑み、見開いた瞳で海里を見つめている。
「海里さんのそういうところ好きですよ」
満面の笑みで言われた言葉に既視感を覚えた。もっとも、前に言われたのは真逆の意味だったが、と考える海里は好感触にほっと息を吐く。
「分かりました。全力で海里さんの治癒にあたりましょう」
「……ありがとう」
「いーえ。健兄さんの負担が軽くなるのは僕にとっても喜ばしいことですし。と、その前に」
治癒を中断した悠はレオンの方を振り向き、その右腕に触れる。仄紅い光が瞬けば、それだけで治癒が完了する。損なった妖力すらも補填してくれるアフターケア付きだ。
「これから僕は海里さんの治癒に全力を注ぎます。レミさんや星司兄さんたちの治癒ができなくなるので、代わりをお願いします」
「分かりました。私の力で悠さんの代わりは役不足でしょうが」
「大丈夫ですよ。死ななければいいんですから」
冷たさを孕んだ声に心臓を鷲掴みされた気分になりながらも、レオンはレミの治癒を始める。
本当なら海里を止めるべきなのだろう。けれど、海里の苦悩を知っているレオンには止めることができない。
せめてと任された役目を全うしようと考えるレオンは結界の外へ目を向ける。