6-12
妖界サイド
かさついた唇にこびりついた血。肌は蝋のように白く、山吹色の髪はくすんで見える。
灰色の瞳には蓋がされ、もう二度と見ることができないのかと思うと胸が痛んだ。
家族のように、妹のように。大切に可愛がっていた彼女の亡骸に歩み寄り、優しく触れる。欠けてしまった未来図はもう取り戻せない。樺はもう、立ち止まることはできない。
「全ては妖華様のために」
生まれたのは、死体の山の中だった。
親などいない。死が蔓延した町で『屍』と呼ばれ、ただ生きるだけの日々を送っていた。
薄汚れた世界を知らないまま、自分もいつか死体の山の一部になる。絶望的な未来を当然のように受け入れ、無意味に時間を浪費し続けた。
死という名の救いが早く自分に訪れるように祈りながら。
他の幸せなんか知らなかった。他の希望なんか知らなかった。
そんな『屍』の前に、希望が現れた。眩いほどの金を纏った希望は、優しく微笑んで手を差し出した。
――屍なんて名前、貴方に相応しくないわ。
――うーん……そうね。樺なんてどうかしら?
――人間界には白樺っていう木があるの。白い幹に、緑の葉。まるで貴方のようだわ。
死体のような白い肌を見て、薄汚れた緑髪を見て、彼女はそう笑ったのだ。綺麗だと笑ったのだ。
差し出された手をとったあの瞬間、いや、彼女が目の前に現れた瞬間から樺の“じんせい”を彼女に捧げようと心に決めた。
樺の希望が心から笑っていられる日々を。彼女に幸福を。
「クリスが死んだと知ったら、あの方は悲しむだろうな」
それでも譲れないものがあった。
妖華が流した涙は樺の負うべき罪だ。罰は甘んじて受け入れよう。
そして、流された涙の分だけ、彼女に幸福を捧げるのが樺の役目だ。
「ごほっ」
死体が大きく跳ねた。いや、死体ではない。
蝋のようだった肌に赤みが増し、もう見ることないと思っていた灰色がこちらに向けられる。肉厚の唇が艶やかに孤を描く。
「どうしたのかしらぁ。幽霊でも見た顔をして」
「何故……確かに死んだはず」
急所を貫いた。即死の一撃だ。妹同然の存在とはいえ、手を抜いたりはしていない。
数秒前までのクリスは確かに死んでいて、それはちゃんと確認した。
「早とちりしたんじゃないかしらぁ」
からかうように笑うクリスは立ち上がり、確かな足取りで樺の前に立つ。
そっと頬にあてられた手はちゃんと血を通っている温かさだ。
「予言したはずでしょお。貴方の目論見は叶わないって」
「……っ」
艶めかしく動く指は這うように樺の唇に触れる。
「お兄様ったら、私の力を忘れてるんじゃなくって?」
わざと気取った口調で言うクリスの言葉で、樺は大分遅れてあることに気がついた。
開かれた当初、灰色だった瞳が今は金色に輝いていることに。
金色。樺が信奉するあの人の髪を同じ金色。
樺に与えられているように、クリスにもまたあの金色は分け与えられているのだ。
「貴方の守りたいものは何?」
――樺、貴方の守りたいものは何?
問いかけは儀式。
守りたいものが力となる。彼女はそう言っていた。
樺の守りたいもの。それはもう決まっている。
汚れていない、美しい世界を教えてくれた。生きていく理由を与えてくれた。
妖華だ。妖華が笑顔でいてくれたら、樺の世界は燦然と輝く。
言葉にせずとも樺の思いを読み取ったクリスはただ妖艶な笑みを見せるだけだ。
クリスもまた、妖華に同じ問いかけをされた一人である。金色に輝く瞳がその証。
「私に邪気は効かない。それどころか、いい燃料よぉ」
空気中を支配していた邪気がクリスに吸収されていく。樺の攻撃を受けて憔悴していた身体が瞬く間に元気を取り戻す。
邪気を己の力へと変換する。それが力を与えた神本人すらも驚かせたクリスの力。
いずれ、身の内の邪気に侵され、身を滅ぼす忌子の宿命。それから愛する弟を守るために得た力である。
幸運なことにこの場には樺の生み出した大量の邪気で満ち満ちている。致命傷を治すくらい造作もない。
「この状態だと少ぉし相性が悪いんじゃないかしらぁ。観念してくれてもいいのよぉ」
「私も妖姫様の眷属です。そう簡単に遅れはとりません」
場の邪気を全て己の力に変換したクリスの肩口から糸が出射される。
刃のごとく鋭さを持った糸は刹那の時間、瞳を金に光らせた樺は前に出した掌でこれを受ける。
「どうちょ――」
「遅いわぁ」
先から分裂した糸は樺の掌を巧みに避け、肌に突き刺さる。鋭い糸は生き物のように蠢き、赤い飛沫を飛ばしながら樺の体内へ深く深く入り込む。
走る激痛を無視した樺は手刀でそれを切断するが、体内に入り込んだ糸は内から樺を蹂躙する。内臓を掻き混ぜられる感覚を味わう樺は赤黒い吐瀉物を撒き散らす。
「っかは……ど、ちょう」
口の端から残りの血を零した樺の瞳が金色に輝く。
クリスが埋め込んだ糸が体内で溶けていくのを感じつつ、口内の血を吐き捨てる。
視界の隅ではより合わされた糸が大きくしなを作っている。瞬時に生み出したナイフでそれを断ち切る――。
「!」
「はい、終わり」
意識が糸へ向いた一瞬の隙を突いて、縄と呼べるほど太くなった糸が四肢に巻き付く。
宙吊りにされる形となった樺が引きちぎろうと四肢に力を入れるが、糸はびくともしない。強靭な糸は四肢を動かせば動かすほどに食い込み、地面には血の斑点で模様が描かれる。
「同調。……っ……何故!」
三度、瞳を金に輝かせた樺は喘ぐように声を上げる。
樺が金色を纏う神から与えられた力は、術式と同調して術を無効化する、というものだ。
解除とは違い、術式を理解する必要がないのでタイミングが合えば全ての術に使うことができる。
今回はそれが叶わなかった。術を無効化できない。力が上手く発動していないのだ。
「力が発動していないのは、そなたの思いが揺らいでいるからじゃ」
「貴方は……!」
金色が世界を包み込んだ。
圧倒的なまでの存在感を放って現れたその存在は驚くクリスを見て愉快げに笑う。
身の丈よりも長い金髪を背中に流し、豪奢な着物に身を包んだ女性。二人がよく知るその人物の身体であるものの、中身が別物なことは一目瞭然だ。
「こうして話すのはいつぶりかのぅ。久しぶりじゃな、クリス」
「お久しぶりです、妖姫様」
出来損ないの神の一人、妖姫。金の瞳と、万物を守る力を持つ存在。二人に、守るための力を与えた存在。
普段は奥深く、深淵からこちらを覗いている彼女がこうして表に出てくるのは非常に珍しい。
「妖華様は、今、動けないはず……」
実体を失った妖姫は宿主を介してでしか、この世に干渉できない。
彼女の動きに封じるには宿主の動きを封じるのが一番効果的だ。だから、宿主である妖華の動きを封じた。
彼女を守るためであり、妖姫の動きを封じるため。
「あれで妾を封じたつもりか? 妖華の思いやりに胡坐をかいているだけの若造が。道化としても笑えぬ」
金の瞳には明らかな怒りが宿っている。美人が怒った顔には迫力があるのというのはよく聞く話で、傍か見ているだけのクリスは無意識に身体を強張らせる。
「忠義を誓った相手を裏切った罪、死を持って償うか?」
「死など怖くない。妖華様のためなら、私の命など喜んで差し上げます!」
妖華に出会わなければ、とうに尽きていた命だ。今更、惜しくはない。
今生きているのは妖華のお陰。そして、彼女の幸福のためだ。
「ほう。妖華のため、か。愚言も極まれば、いっそ愉快よの」
くつくつと喉を鳴らした妖姫の顔から一瞬にして表情が消え、金の瞳がすっと細められる。
憤怒を宿した表情は、鬼のような美貌と相まって迫力がある。
「たわけ!」
凛とした声が庭園に響き渡る。決して大きな声ではないはずなのに、ガラスを割らんばかりの存在感がある。
「自分の欲望を満たす言い訳に妖華を使うでない!」
「欲望など……。妖華様はおっしゃられたんだ。自由になりたいと。王でなかったらと。だから、俺は……」
「それで妖華の全てを語ったつもりか? 確かにあれの歩んだ道は幸福とは言い難い。最愛を失い、友や子と遠く離れ、嘆くことは許されぬ。だが、不幸ではない。妖華の“じんせい”は悲劇ではない」
四肢を縛っていた糸が緩み、樺はようやく宙吊りから解放される。地面にへたり込んだ樺に戦う意志が消えたのと、クリスの限界が近いのが理由だった。
周囲の邪気を己の力に変換したとて、クリス自身の身体が強化されたわけではない。その上、眷属としての力はクリスとは相性が悪い。
遠のきそうになる意識を気力で持ちこたえさせるクリスを一瞥した妖姫の瞳が悲しげに揺れる。いや、あれは――。
「ごめんなさい」
震える謝罪の声に、樺はゆるゆると視線を上げる。
憤りを宿していた金の瞳は消え失せ、代わりに哀切を含んだ紺碧の瞳がこちらを見ている。胸が痛んだ。
「いろいろと背負わせてしまったようね」
「……妖華様」
樺のこと信頼していた。だから少しだけ気が緩んでしまった。弱音を吐いてしまった。
そのせいで、彼にいらない重荷を課してしまった。
「これは私の責任でもある。だから命を奪ったりはしないわ。けど、罰は受けてもらう」
紺碧の瞳に宿っていた哀切が消え失せる。泰然と不必要な感情を切り取った表情は樺が一番見たくないと思っていたものだ。
彼女にそんな表情をさせないために動いていたのに、今は自分がさせてしまっている。
「樺、私の側近から外れてもらうわ」
絶望をもたらす宣言に樺の瞳が揺れる。
彼女のために生きてきた。彼女のの傍でなければ意味がない。
王としての責で覆われた表情。その中に隠された苦悩を読み取り、「分かりました」と絞るように声を出した。
駄々はこねない。それだけのことをした自覚はある。彼女を困らせることはしない。
「黒ノ国で頭を冷やしてきなさい。オンラにはもう話をつけてあるから」
「はい。……妖華様……!」
謝罪しようと顔をあげれば、すぐ傍に妖華の顔がある。息を呑むのも束の間、妖華の表情が弛緩する。
腰を折った妖華は海よりも深い紺碧の瞳で樺をじっと見つめ、深緑の髪にそっと手を置いた。柔らかい手つきは、かつてを思い出させる。
母親のような眼差し。頭を撫でる優しい手。
嗚呼。
「待っているわ」
「っかならず……必ず、戻ってきます」
信じてくれている。期待を裏切るような真似をした樺に変わらない信頼を向ける妖華。
目頭が熱くなり、零れそうになった涙をこらえた返事は震えていた。
「ええ」
言葉に込められた万感の思いを残らず受け止めた妖華は立ち上がり、すぐに表情を王としてのものに切り替える。
妖華は我が子同然の青年の処遇に迷っている間、人間界は悪化の一途を辿ってしまっている。
軛が放たれた影響が妖界にも現れ始めている。揺らぐ次元から目を逸らし、己の内に存在に語り掛ける。
金を纏う彼女はつい先程までの憤りを忘れたかのように、妖華の声に応じてみせる。
〈貴方の力を貸してちょうだい〉
〈他でもないそなたの頼みじゃ。聞いてやろう。軛が放たれて困るのは妾とて同じじゃからの〉
妖華の纏う気が再び変化する。神気とも呼ぶべき神聖な気は圧倒的な力を持って、邪気に蹂躙された空間を満たしていく。
瞳を金色に煌々と輝かせ、薄い唇を開く。桃色の唇から紡がれるのは歌だ。
歌詞のない、メロディーだけの歌は水のように柔らかく、静かに王宮の中に浸透していく。王宮だけではない。妖界全体、そして揺らいだ次元の隙間から人間界へと。
流れる旋律の美しさに樺は瞑目し、クリスは身体を弛緩させる。クリスの身体はもう限界に近い。気を緩ましたが最後、あっという間に意識が遠のいていく。
本当ならば今すぐにでも人間界へ行きたい。大事な弟の傍に駆けつけられないのは、とても歯痒くてもどかしい。
「後は妾に任せてゆっくりと眠るがよい。目覚める頃には全て終わっているだろう」
妖姫の歌を子守歌に、クリスは完全に意識を手放した。
どこまでも響き渡る歌声。広がった波紋を全身で感じる妖姫はふっと笑みを浮かべた。
懐かしい気配。かつて共に戦った同胞の――これほど強く感じたのはいつぶりだったろうか。