6-11
「その程度で、よくあんな大口が叩けたな」
「くそっ」
肩で息をする星司の手に握られたおもちゃのナイフは、霊力で数倍の刀身が構築されている。
制服は土で汚れ、ところどころ破けている。満身創痍とまではいかないものの、星司の身体は傷だらけだ。
正直、予想外だった。
いくら妖の力を借り受けていても人間だ。それも特別な力なんて持たない、どこにでもいる普通の人間。
まさか、ここまで差があるとは思ってもみなかった。
海里と再会してからの数か月、星司は修練を積んできた。霊力の扱い方も覚えた。それが何てざまだ。
「カイが悲しむからお前を殺しはしない。そこで大人しくしとけ」
召喚された巨大な骸骨の手が星司を押し潰そうそうと影を作る。
疲労のせいで遅れた反応は致命的で、せめての抵抗に霊力の剣を振りかぶる。ダイヤモンド並みの強度を持つ骸骨の腕は、剣先が掠っただけではびくともしない。
潰されるしかない運命を受け入れた星司の頭上に炎が駆け抜けた。
「ごめんなさい! 星司君、大丈夫?」
「あ、ああ。大丈夫っす。むしろ助かった」
華蓮が加減を間違えた炎によって灰へと変えられた骸骨の手が、命拾いをした星司の上に降り注ぐ。
余韻として残った熱が星司に常の調子を取り戻される。華蓮がもたらした熱が真逆な性質ながらに星司の頭を冷やしたのだ。
大きく息を吐き出した星司は霊力の剣を正眼に構えて、溜まった疲労を脱ぎ捨てる。
「俺じゃ、お前に及ばない。正直参ってはいるぜ? 今まで積み重ねてきたものが無駄になった気分だ。でも、それは諦める理由にはなんねぇ。……諦めたら、絶対に勝てなくなっちまう。だから俺は絶対に諦めない。今、そう決めた!」
「な、んで……なんで、そんな目ができるんだよ……」
消え入りそうな声で歯噛みする翔生のすぐ横で砂塵が舞い上がる。
炎の渦と霊力の刃を避けて着地したサカセは、苦心する翔生の姿に口角を上げてみせる。無邪気な子供のように、悪魔の微笑みのように。
「せっかく力を貸してあげちゃってるんだよ? 出し惜しみなんてもったいない真似しないでよ。全部、全部、ぜーんぶ、剥き出しにしちゃって。感情的になってちゃって」
「なにをするつもり――っ」
「外野は黙っちゃいなよ。――邪魔だ」
星司の身体が吹き飛ばされる。全く動きが見えなかった。
木の幹に背中を強かに打ち付け、呼吸が止まる。刹那の時を経て、咳き込みながら酸素を取り入れた星司は蹲るように腰を落とす。
喘ぐように息をしながら、傍に転がるおもちゃの剣へ這うように手を伸ばす。
「っあが……っ」
「もっと面白くしちゃって、オンモ様の目的に貢献しちゃいなよ」
地面から生えた肋骨が星司の腕に突き刺さる。初めて味わう激痛に翻弄され、翔生を唆すサカセの声を聞く余裕はない。
歯を食いしばり、地面に縫い止められた腕を引き抜く。地面に染み込んだ大量の血は無視した。
「星司君の仇……」
死んでいないとツッコミを入れる気力もなく、サカセに向けて次々に放たれる炎を玉を見つめる。
「もっとちゃんと狙っちゃわないと僕は殺せないよ」
「どうかな――斬!」
身軽な動きで炎を避けたサカセの眼前に突如として現れた海里は袈裟斬りの要領で龍刀を振り下ろす。
サカセに避ける術はなく、薄い赤の瞳はただ見開かれる。肩から斜めに深く斬られた傷口からは大量の血が零れ、サカセは仰向けに倒れ込む。
生き足掻くような浅い呼吸に合わせて血が溢れ、纏っていた白い布が赤く染まっていく。
これ以上の手ごたえを得た海里は終わりかけの命に瞑目するみたいに、そっと視線を逸らした。
「せ……を……さ、まに」
消え入りそうな声が耳に届いた。
はっとして目を向けた海里は喉元からせりあがってきた何かを地面に撒き散らす。口の中が鉄臭い。
激痛が全身を駆け巡り、身体から急激に体温が奪われる。自分に何が起きたのか確認する術もないまま、視界が暗転した。
「こ、れは、夢と……」
「海里様!」
いち早く状況を理解したレオンが駆け寄ってくる音を聞きながら、夢と同じ光景だと海里は意識を手放した。
怪我の具合を確認したレオンは慄然とする。
肩から脇の下へ斜めに切り裂かれた傷はサカセの傷とよく似ている。いや、似ているのではない。まったく同じだ。
「どういう、ことよ。……なんで、海里が……っ」
「世界を逆さにしただけさ」
なんでもないように言葉を返したのは、つい数秒まで死の淵に瀕していたサカセだ。
その身体に海里が施した傷が見受けられない。ただ衣が大量の血で汚れているだけだ。
「傷を海里様に返したということですか……?」
「簡単に言っちゃうとそうなるかなー。僕の奥の手、だよ」
傷はかなり深い。致命傷だ。
それもそのはずだ。海里は殺すために龍刀を振るった。
情け容赦のない一撃はサカセを瀕死の状態まで追い詰めた。妖であるサカセですら瀕死なのだ。海里の助かる見込みは限りなくゼロに近い。
半分だけでも妖の血を引いているおかげで、今は何とか持ちこたえている状態だ。
それもいつまで持つかは分からず、ありったけの妖力を絶えず注いでいるが、今は血を止めるのが精一杯だ。
「背中、がら空きだよ」
海里の命を繋ぎ止めることだけに集中するレオンめがけて泥の腕が振り下ろされる。が、泥の腕がレオンを押し潰すよりも先に霊力の刃によって切り裂かれる。星司だ。
「大丈夫なの?」
「なんとか。すげー、痛いっすけど」
利き手は使い物にならず、左手のみでおもちゃの剣を構える星司。
正直、めちゃくちゃ痛い。許されるのならば叫んで転げ回りたいほどに。
みっともないからそんなことはしないし、死の淵に瀕している親友を前にして逃げたくはない。
戦う。守る。
今までたくさん助けてもらってきた恩をここで返す。
「レオンさんは治癒に集中してください」
「そうね。二人のことは私たちが守るわ」
背中越しの声に苦笑する。二人とも随分と成長したものだ。
そんなことを考えるレオンは意識を切り替え、海里の治癒に集中する。聞こえる戦闘音をBGMに妖力を注ぎ込み続ける。
これで助けられなかったなど絶対に言ってたまるか。
「こちらは任せて大丈夫そうだな」
勢いよく地面に着地したレミが息絶え絶えにそう呟いた。
「レミさん……!? それは……」
肩甲骨辺りから生えていた一対の翼。見惚れるほど美しいそれは片翼が引きちぎられ、見るも無残な姿に成り果てている。
上を見上げれは、引きちぎったばかりの翼をオンモが捨てているところだった。
「案ずるな。大したことはない。飛べないのは少々不便だがな」
虚勢ともとれる言葉を吐いたレミは睨むようにしてオンモを見る。
傷だらけで満身創痍とも言うべき姿のレミと、多少服が乱れている程度で無傷のオンモ。
レミの攻撃が届かなかったのではない。どれだけ傷を与えようとも、瞬く間に治ってしまうのだ。
今も黒雪に妖力を奪われ続けているレミは完全にジリ貧状態だ。
ふと腕輪を一瞥し、頭を振る。この状態で力を解放すれば、暴走しかねない。
同じくジリ貧状態の華蓮たちや、死の淵にいる海里を前にして下手な博打を打つことはできない。
「もう降参か」
「……なわけ。あるか」
巻き起こした風で引きちぎられた片翼を補完し、宙に浮く。
打開策は何も浮かんでいない。それでも諦めるわけにはいかない。
邪気の刃が肌を切り裂き、血の雫を降らせる。万全の状態であれば、避けられるはずの攻撃も今は躱せない。
海里を除いて最も傷を負っているのはレミだ。その上にこの疲労。
妖華に次ぐ実力を持つ者を相手にするにはさすがに荷が勝ちすぎる。
姉の姿を思い浮かべる。ダメだ、彼女は今武藤家に行っている。妖界に戻った上司の顔を思い浮かべる。ダメだ、彼女は今妖界で己の役目を果たしている。弟同然の存在を思い浮かべる。ダメだ、彼には貴族街を守る役目がある。
折れそうな心で、この場を打開できる誰かを思い浮かべては否定を繰り返す。
「誰か、じゃない。私がどうにかしなければ……」
限界に近いレミは向けられた浅黒い手に遅れて気付く。回避は間に合わず、脇腹の肉を抉り取られた。
激痛に、身体を支えていた風が乱れ地面に叩きつけられる。限界に近いレミには痛い一撃だ。
「しまいだな。次は――っ」
起き上がることのできないレミから興味を逸らしたオンモの頬にナイフが掠めた。
瞬く間に塞がる傷に触れたオンモは警戒を最大限に周囲を見回す。
気配はない。が、ナイフは確かに森の中から飛んできた。
「防御結界三十%展開」
耳に滑り込んできた声により、星司たちはオンモより少しばかり遅れて闖入者の存在に気付いた。
艶めかしさを宿した美しい少女の声。聞いた者の心を捕らえてやまない声に誰一人として心当たりはなく、張られていく透明な膜を呆然を見つめる。
円形の空間を避けて“はじまりの森”を覆った結界は、降り注ぐ黒雪を弾いていく。
敵なのか。味方なのか。
誰もが警戒を露わにして声の主の登場を待つが、いっこうに現れる気配はない。
代わりに一人の少年が降り立った。
華奢な身体にサイズの合わない服を纏わせた少年。灰色のパーカーが煽りを受けてはためいている。
感情が排除された無機質な瞳が呆然とする円形の空間を一巡し、「うん」と少し高めの声が呟いた。
「け、ん……?」
零れ落ちた兄の声を聞き取った少年、岡山健は場に不釣り合いな笑みを浮かべてみせた。