6-8
史源町。幼少期一年だけ過ごし、処刑部隊として半年と少しの月日を過ごした町。十六年の人生の中でも史源町で過ごした日々は短い。
それでも心に刻まれている容量は圧倒的で、今まで訪れたどの町よりも馴染みがある。
――そんな町が黒に塗り潰されていた。
灰色の雲が不気味に蠢く空から黒い雪のようなものがしんしんと降り積もる。黒雪は地面を、建物を、そして生き物たちを黒く染めていく。
肌を撫でる空気は不穏そのもので、澱んだ空気に不快感が込み上げる。
やむことを知らない黒雪に生気を奪われる感覚を味わいながら、既視感のある光景を呆然と眺める。
「 様!」
名を呼ばれ、我に返る。掌から伝わる馴染んだ武器の感覚の後押しで、今は戦闘中だったことを思い出した。
町中を蠢く部奇異な物体。邪気から生み出されるそれは邪念体と呼ばれるものだ。
龍刀を構え、邪念体を切り裂く。無数に増え続ける邪念を切り捨てながら、ふと周囲に見回す。
白衣を纏った青年に、ウェーブのかかった蜂蜜色の髪を二つに括った少女。寝癖頭の少年もいる。そして、髪をポニーテルにして結った気の強そうな少女。
見知った面々。見知った光景。
嫌な予感が脳裏をよぎり、堪らない焦燥が駆け抜ける。
「この程度ではやはり足止めにならぬか」
聞こえた声は倒したはずの――。
視界の隅で捉えた漆黒の煌めきを合図に激痛が走った。込み上げた液体を吐き出し、大分遅れて斬られたのだと気付く。
溢れ出る血が、降り注ぐ黒雪が生気を奪い、立っていることすらままならない。ゆっくりと地面に倒れ伏す間際、誰かの悲鳴が聞こえた。
憤る声。嘆く声。呼びかける声。重たい身体。少しずつ命が零れ落ちていく感覚。
自分の意思ではどうすることもできず、虚しさと悔しさが胸を締め付ける。
死ぬわけにはいかないという思い。死にたくないという思い。
全部、全部、知っている。
「海里!」
伸ばした手の先で、金色の光が悲しげに揺れていた。
はっとして目を覚ます。文字通り飛び起きた海里は見慣れた自室の風景を順繰りに見る。
短く切り添えられた藍髪が、海里の心情を表すように乱れている。心臓が早鐘を打ち、嫌な予感が頭から離れない。
「何日経ったんだ?」
倒れる前の記憶があやふやだ。
レオンと何か話していたところまでは覚えている。その先の記憶を掘り起こそうとして激しくなる頭痛に断念する。起きたばかりで、また倒れるようなことは避けたい。
「……カイ」
見ていた夢に掻き立てられる不安から口にした名前に返っている声はない。どうやら眠っているようだ。
「とりえあず、レミに話を聞いた方がいいかな」
家にある気配はレミのものだけ。おそらく、クリスやレオンは学校に行っているのだろうと推測しつつ、部屋を出る。と、海里の様子を見に来たらしいレミとさっそく遭遇した。
「海里様! お目覚めになられたんですね」
安堵の表情見せるレミにたくさん心配をかけた罪悪感を抱きつつ、眠っている間の出来事を尋ねる。
海里が倒れてから五日間。思っていたよりも時間が経っていたことに驚きつつ、特に何も起こっていないようで安心する。ならば、未だ消えてくれない嫌な予感はなんなのだろう。
「レオンとクリスは学校?」
「レオンはそうですけど、クリス様は妖界に戻っておられます」
「妖界に? なんで……?」
自問に近い海里の問いかけにレミは困ったように眉を寄せる。彼女にも理由は分からないようだ。
レオンなら知っているのだろうか。よぎった疑問を察したレミは無言で首を横に振る。
元々秘密主義なクリスだ。何も言わず妖界に戻ることは今までにも何度かあった。それでもやけに気になってしまうのは、おさまることを知らない胸騒ぎのせいだ。
――その時、ぞくりと何かが全身を駆け巡った。
驚いてレミを見れば、彼女を同じものを感じ取ったらしく顔を強張らせている。
「今のは……っ」
圧倒的なまでに禍々しい気が放出される気配が肌を殴りつける。
尋常ならざる気配に血相を変えた海里が窓の外へ目をやれば、“はじまりの森”から夥しい量の邪気が放たれていた。
「レミ」
「私は海里様の護衛を任されています。ここを離れるわけには」
護衛は必要ない。そう言えたらどれだけ楽だっただろうか。
海里の行動は全て妖華に返ってくる。勝手な行動をすれば、妖華が非難の的になってしまう。
「なら、俺も連れて行って」
「……分かりました」
目覚めて幾ばくもない海里を危険な場所に行かせたくはない。レミの思いを感じ取りながらも譲れないと見つめれば、渋りながらも了承してくれた。
「失礼します」
言って、レミは海里を抱きかかえる。お姫様抱っこの形だ。
少女に抱えられる光景に羞恥心を抱く間もなく、純白の翼を生やしたレミは家を飛び出す。
空を飛ぶというのはなんとも奇妙な感覚だ。次々に変わりゆく風景を眺めながら、飛行機に乗るとは違う感覚を味わう。
かなり速度を出しているように見えるが、レミからしてみれば遅い方だ。海里を気遣うとこの速さが限界なのである。
気遣う必要はないと強がりを言うこともできず、海里はただ異常事態に思考を巡らせる。
この禍々しい気には覚えがある。
「でも、彼は倒した」
懐かしい人の力を借りて倒したことは鮮明な記憶だ。彼の半身である彼女もまた彼の死を断言していたという。けれども、感じる気配は紛れもなく彼のものだ。
「そろそろ着きます」
レミの言葉に海里が頷いたのと同時に、再び禍々しい気が放出される。武藤家がある場所からだ。
天へ高く高く昇った二本の黒い奔流は史源町の中心で混ざり合い、黒い雪を降らせる。雪はしんしんと町に積もっていく。
従弟たちは今学校に行っているとはいえ、武藤家には知り合いが何人もいる。叔父だっている。
「武藤家に向かいますか」
「ううん、大丈夫。武藤家にはきっと誰かが行ってるよ。大本を叩くのが俺の役目だ」
大丈夫。きっと大丈夫。
なにせ、この町には信頼できる人々がたくさんいるのだから。海里は海里の役目を果たすことが一番大切なことだ。
「レミ、海里様……」
ふと呼ばれて振り向けば、華蓮と星司を引き連れたレオンが立っている。
「目覚められたんですね」
レミと全く同じ言葉で安堵するレオンは次いでレミを見る。
何故、海里を連れてきたのか。問いかけるレオンの視線にレミは申し訳なさそうに目を伏せる。
「俺が無理言ったんだよ。あまり責めてないであげて」
「責めてはいませんよ」
レミだって本当は連れてきたくなかっただろうことはレオンにだって分かっている。嘆息して思考を切り替えたレオンは現在の状況の確認に移る。
「武藤家には焔さんと流紀さんが向かいました」
「それなら安心だね」
“はじまりの森”と武藤家から上がった二本の渦。それは軛が放たれた証だ。
この町に施された軛は全部で五つ。残りは春ヶ峰学園、藤咲家、春野家の別荘の三つ。
学園には響と和心が、藤咲家には桜とその式がいる。問題は――。
「春野家か」
「あの方たちが何の手を打っていないとは考えられませんが」
これもただの憶測にすぎない。聡明で優秀な彼らならばという期待だ。
逡巡した海里は「彼らを信じて先に行こう」と“はじまりの森”の中へ足を踏み入れる。
「こんなに薄暗かったかしら」
“はじまりの森”の中へ入ったのは春以来だ。人の手が入らず、好き放題に生えた雑草と積もりに積もった枯葉。歩き辛い森の道を進みながら、華蓮は以前来た時のことを思い出す。
木漏れ日ばかりの森の中は確かに暗かった。しかし、こんなにも薄暗くはなかったはずだ。
「邪気の影響でしょうね」
渦へ近付けば近付くほど瘴気は濃くなっている。
忌子ゆえに邪気に耐性のあるレオンは平気だが、他の面々はそうはいかない。今はレミの妖力によって周囲の邪気を相殺している状態だ。
それでも相殺しきれなかった邪気が海里たちを蝕み、整備されていない道で消耗した体力に重くのしかかる。
「まったく、手入れくらいしなさいよ」
「一応、貴族街の管轄だから迂闊に手をだせないんだろうね」
この面子の中では一番体力のない華蓮の毒づきに苦笑しながら海里が答える。
「と、そろそろ着くぞ」
先頭を歩いていたレミが立ち止まり、指示を仰ぐようにレオンを見る。
敵の勢力が分からないまま愚直に進むのは得策ではない。思案するレオンはこの場にいる戦力を改めている確認する。
技術が上がってきたとはいえ星司も華蓮もまだまだ未熟だ。海里は病み上がりで、斥候として送り込むのにもっとも適しているのは考えるもなくレミだ。
レミは戦闘力をとっても、機動力をとっても申し分ない。
『その必要はない。会話せず攻撃を仕掛けるなどという無粋な真似をする気はないのでな』
レオンの指示のもと、動き出そうとしたレミを引き止める声が轟いた。聞き覚えのある声に海里は驚きを隠せないでいる。
一か月ほど前、史源町を闇の空が包み込んだ。その首謀者である妖は確かにこの手で殺した。
死体は目にしていないものの手ごたえはあったし、半身が死んだのだと断言していたこともあって、彼は死んだものだと思っていた。
嘘だったのだろうか。それとも――。
『警戒せずともよい。こちらへ』
ぞくりと悪寒が走り、まるで誘われるように足が動き出す。静止を求める心の声など意に介さず、足は一歩一歩進んでいくそれは海里以外の面々も同じようで、全員が困惑の表情を見せている。
「言霊か」
言葉に魂が宿るというのは古くから日本に伝わることだ。聞こえてきた声に込められた妖力が本人たちの意思に反して身体を動かしているのだ。
もはやどうすることもできず、海里たちは一歩一歩と“はじまりの森”の中心部へ近づいていく。
●●●
眼前に広がる光景は酷いとしか言いようのないものだった。
邪気のみで構成された柱が立ち上り、周囲には黒い奔流が渦巻いている。建物などへと被害は見られないが、邪気が蔓延した空間で生物がまともに生きてられるとは思えなかった。
落ちぶれているとはいえ、武藤家ではたくさんの使用人が働いている。彼らが無事なのかは、傍から見た流紀たちには分からなかった。
「流紀、大丈夫か?」
「問題ないとは言い難いな」
黒い雪のようなものにまとわりつかれた流紀は凄まじい勢いで妖力を奪われる感覚を味わいながら、歩を進める。いよいよ鬱陶しくなってきた黒雪を凍らせてみたものの、すぐに別の黒雪が降り積もりキリがない。
焔の方はといえば、触れた先から黒雪が燃やされている。霊力がまったく奪われていないとは言えないが、流紀よりは被害が少なそうだ。
「思ってたよりも早いんだね。まあ、どっちにしろ、目的は果たしちゃったんだけどね」
「お前は……」
聞き覚えのある声が焔の記憶を掘り起こす。
人形を倒した後に聞こえてきた声。最後の最後まで姿を見せず、逃げられてしまった相手だ。本人曰く、見たいと思っていたから姿が見えなかったらしいが。
「そんな姿をしていたのか」
ボーイッシュな少女とも、小柄な少年とも、取れる姿をしている。白いフードから零れる髪は水色で、唇は優位を示すように弧を描いている。
「どう? 期待通りだった? 外れだった?」
下駄で地面を叩き、サカセは己の姿を見せびらかすように一回りする。
「お前がこの惨状を生み出したのか」
「そうだよ。あのおじさんがいなかったらもっと楽しいことになっちゃってたのにさ。本当にウザいったらないよね」
「おじさん……?」
心当たりのない流紀は疑問符を浮かべて焔を見る。焔も知らないようで首を横に振って答えた。
邪魔をしたということは味方と考えていいのだろうか。この状況で新たな敵というのも想像したくない。
「さて、僕にはまだ仕事があるから。ここでバイバイだね」
「っ待て」
「待たないよ」
ひらひらと楽しげに手を振ったが最後、サカセの姿が消失する。
後には邪気で荒れ狂う武藤家の屋敷が残されるのみだ。これだけ邪気が蔓延していれば、邪念体も大量に生まれるわけで二人は歯噛みしながら対処を行う。
炎で、氷で、次々に邪念体を撃破していく二人をひっそりと屋敷の窓から覗く存在がいる。
天井にぶらさがる百足のような生き物だ。ゆらゆらと身体を左右に揺らしながら、悔しげに外の様子を見つめている。
「わりぃな。俺にはこうして屋敷ん中を守るしかできねぇんだ」
ずっと何百年と暮らしてきた家の危機を、見守るしかできないことを歯痒く思うヤツブサはただ己の身体を左右に揺らしていた。