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6-7

妖界のターン

 妖華と初めて出会ったのは九つの頃。母が亡くなり、スラム街に捨てられたあの頃のクリスは四つ下の弟を守ることに、ただ必死だった。


 クリスは父の七番目の妻から生まれた。忌子として生まれ落ち、両親からすら疎まれて育ったクリスを救ったのは同じ母から生まれた弟だった。

 彼だけが真っ直ぐで、汚い感情が一つとしてない瞳をクリスに向けてくれたのだ。皺くちゃな腕が伸ばされたあの日、クリスは何があっても弟だけは守ると心に誓った。


 弟はクリスと同じ忌子だった。母親は弟を生んですぐに心を病んで、自らの命を絶った。

 ただえさえ、クリスを疎ましく思っていた父や他の妻たちが二人を守ってくれるはずもなく、スラム街に捨てられたのは当然のことだ。少しばかりのお金が渡されていたのがせめてもの温情だった。


 節約に節約を重ね、他の住人に奪われないよう細心の注意を払い、渡されたお金だけでなんとか数年は生き永らえた。お金が尽きてからは他の住人を真似て、盗みを働きながら生き汚い生活を続けた。

 自分はいつ死んだって構わなかった。ただ、弟だけは絶対に守る。何を犠牲にしたとしてもそれだけは絶対に揺らがない。

 あの頃のクリスはただ弟を守るだけを考えて生きていた。


「弟に、何をしている!」


 弟から少し離れていた隙だった。空腹を知らせる弟の腹に苦笑し、彼のために果実を盗んで戻ってきたクリスを迎えたのは大柄な男たちであった。

 スラム街の者にしては身なりのいい男の一人が弟を掴み上げていることに気付き、目の前が真っ赤に染まった。抑えきれない怒りが全身を駆け巡る。


「その汚い手を離せ!」

「あぁ? こいつの姉か?」

「身なりは汚ねぇが、磨けばそれなりになるんじゃね。しかも、忌子。今日はついてんな」


 忌子は疎まれる一方で、邪気に強い適性を持つ故に使い捨ての戦力として重宝されていた。高い値段で売れるのだ。それが女であれば、ペットとして求める好事家も少なくない。

 殺気を宿らせた瞳で睨みつけ、身に宿る邪気を叩き起こす。


 許せない。弟に手を出したことを後悔させてやる。殺して、やる。

 子供相手だと油断している男たちに向けて糸が放たれる。


「なんだ、これ。糸? ただの子供騙しか」


 嘲笑しながら、糸に触れた男の指が一瞬にして切断される。

 聞こえる苦悶の声。怒りの声。全てが煩わしい雑音で、失くしてしまおうと糸に命令を加える。


「あらあら、大変なことになってるわね」


 男に襲い掛かろうとしていた大量の糸が透明な障壁によって阻まれる。


「邪魔、するな」

「残念だけれど、それは聞けないわ。代わりに助太刀してあげる」

「助けなんていらない」


 吐き捨て、睨み上げる。かけられた声は血生臭いものを知らないような純潔で、そうすれば引き下がるだろうと思っていた。

 けれども、光そのもののような彼女はただ笑みを浮かべてみせるだけだ。


「こういうときは素直に甘えるものよ」


 小柄な身体からは想像できない迫力に男たちは気圧される。彼女は指を切り落とされた男の傷に治癒を施し、「去りなさい」と凛とした声で告げる。

 悔しげに顔を歪め、負け犬の遠吠えとともに去っていく男たちを見届けた彼女は「さて」と弟に手を伸ばそう――としたところでその手を払う。

 きっと睨んでも、やはり彼女は暢気な顔で笑っている。


「貴方たち、忌子のようね」

「だったら何?」


 暗い中でも輝くような金色の髪。澱んだ空など比べ物にならないほどに澄んだ紺碧の瞳。肌は汚れなど知らないというほどに白く、身に纏う衣装は一目で分かれるほどの高級品だ。

 何より彼女の纏う妖力は誰よりも気高く澄んでいて、穢れを寄せ付けない彼女の姿に酷く惨めな気持ちになった。


「困ったことがあったら手を貸すわ」

「助けなんていらない」


 他人なんて信用できない。信頼するなんてもってのほかだ。

 クリスが信頼と、信用を向けるのはこの世でたった一人弟だけ――そう思っていた。




「私ね、部隊を作ろうと思うの。訳ありの子たちを集めた部隊。――クリス、貴方が隊長をしてくれたら嬉しいわ」


 自分に隊長が務まるとは到底思えなかった。

 大切なものを守るためにずっと一人で戦い続けてきたクリスには、誰かの上に立って戦うなんて無理だ。今もこれからもたった一人で守りたいものを守っていくだけで十分。


 だけど、彼女がクリスの力が必要だと思ってくれるのならば。

 だけど、彼女が自分が隊長に相応しいと思ってくれたならば。

 彼女がかけてくれた期待に応えたい。いや、応えなければならない。それだけがクリスが生きている理由だ。


「副隊長は誰がいいかしらね」

「それならとっておきがいるわぁ。だから、それまで空席にしておいてもかまいませんか」


 紅茶の入ったカップを傾け、広がる風味を味わったクリスは仄かに笑う。

 副隊長。自分を補佐する存在。適任はたった一人しかいない。




 それからしばらくして弟が入隊した。密かに想いを寄せる少女を連れて。

 彼女が恋をしたことも忘れてはいけない。生まれた子供もまた、処刑部隊に入隊した。


 気がつけば、守りたいものは両手では数えきれないほどに増えている。これからもきっとたくさん増え続けていくのだろう。


 彼女はたくさんのことを教えてくれた。弟だけだったクリスの世界を広げてくれた。だからクリスは彼女のために戦う。


「少し、お痛がすぎるんじゃないかしらぁ」


 こちらに向けられるのは深い緑の瞳。彼もまた彼女によって拾われた存在だ。

 樺という名前は彼女から貰ったものだと誇らしそうに語っていた姿は、今でも鮮明に思い出される。


「驚いたわぁ。まさか貴方が裏切り者だったなんて」

「すべて妖華様のためです」


 心からそう思っているのだろう。深緑の瞳は微塵の揺らぎもない。


 ここは王宮の中庭だ。視線を少し横に滑らせれば、彼女のお気に入りの花園が広がっている。

 多くの者が出入りしているはずの王宮内が静まり返っているのは、ここにいる二人以外の全ての者が眠りについているからだ。


 奇しくも、ムキリによって水ノ館が眠らされた事件と重なる光景。それは樺もよく知るところだ。

 違うのは使用されている術式が完成されたものであるということ。古い時代に伝わった術式の完成形を樺が使える理由は、彼の出自を考えれば明白だ。


「……私は妖華様の望みを叶えて差し上げたい」

「王宮の者を眠らせることが望みを叶えることに繋がるとでも思っているのかしらぁ」


 首肯する樺。やはり、その瞳に迷いはない。

 自分の行動が間違っているかもしれないと思いながらも、譲る気はないのだ。


「あの方は自由になりたいとおっしゃられた。王の立場など捨ててしまいたいと」


 妖の王という立場は妖華から様々なものを奪っていった。

 最愛の人と堂々と愛し合うこともできない。子供たちと普通に会話をすることもままならない。


 ――何も考えずに過ごしていたあの頃が恋しいわね。


 一番近くにいたからこそ、耳にした妖華の弱音はずっと樺の中で巣食っていた。


「不器用ねぇ」


 樺の気持ちが痛いほど理解できるからこそ零れた言葉だ。


「悪いけれど、貴方の企みは阻止させてもらうわぁ」

「本気でそう思っているならレミさんくらいは連れてくるべきでしたね」


 クリスが得意とするのは諜報や暗殺といった影に隠れて活動することだ。こんなふうに正面きった戦闘で、樺の相手など荷が勝ちすぎる。

 もっとも、聡明なクリスが何の手を打っていないとも考えられないが。


「貴方の考えが読めている以上、人間界の守りを薄くするわけにはいかないでしょう?」

「侮れない人だ」


 王宮ごと妖華を眠らせた理由。それは、彼女に手を出させないためだ。

 これから人間界――史源町で行われていることから遠ざけ、目を覚ます頃には全てを終わらせる。それが樺の狙いだ。


「一つ、予言してあげるわぁ」


 ただ妖艶な微笑みを浮かべ続けるクリスの姿はどこか不気味だ。


「貴方の思惑は上手くいかない。妖華様からこっぴどく怒られるといいわぁ」

「貴方の予言は外れる!」


 その言葉を最後に上辺だけの会話が終わりを告げ、膨れ上がった二人の妖力がぶつかり、爆発する。荒れ狂う風が花々を大きく揺らし、妖華お気に入りの花園は一瞬にして見る影を失くす。

 そのことに罪悪感を覚える間もなく、滑り込んできた影に樺は咄嗟に距離を取る。掠めた刃が服を切り裂いた。


「怒られる理由が増えちゃったわねぇ。大人しく二人で怒られるなんてどうかしらぁ」


 呑気に言葉を紡ぐクリスの肩口から出現した無数の糸が樺へと襲い掛かる。触れたものをもれなく切断する鋭さを持った糸を拳で受け止める。傷一つ負わない拳は一瞬にして糸を塵へと変えてみせた。


 そこからの動きは迅速だ。雷のごとき速さでクリスの懐に潜り込み、次々と殴打技を叩き込む。常人では決して捉えきれないほどの早さの攻撃を糸で防いだクリスは変わらぬ笑みと共に大きく後方へと下がる。


「貴方相手に出し惜しみなんてしていられないわねぇ」


 クリスが纏う妖力が質を変える。いや、あれは妖力ではなく邪気だ。

 己の身の内で眠る力を呼び起こしたクリスを前にして、王宮を穢したくないなどとは言っていられない。覚悟を決め、樺もまた身の内に眠る力を解放させる。

 二人の身体から尋常ではない量の邪気が溢れ出し、花園を満たしていく。


「すぐに終わらせる!」

「それはこちらの台詞よぉ」


 邪気によって生成された手がクリスを襲う。数えきれないほどの手を細い糸で切り裂くクリスは横目で樺の姿を確認する。


 樺の周囲には黒い靄のようなものが充満している。それは邪気と呼ばれるもので、クリスが纏うものとは純度が違いすぎる。いくら忌子だとはいえ、触れたらただでは済まない。


(そんなヘマするつもりはないけど)


 自分を囲むように、糸を生成する。少しの隙間もない防御壁に包まれながら、行動を開始する。

 襲い掛かる手の対処を続けたまま、地面を蹴って樺に迫る。黒い靄が防御壁の中へ入ってくるのも時間の問題。手早く片付けると纏う邪気に命令を下す。


 生成されたのは不可視の糸。クリスの目だけに見える糸は鋭さは変わらず、音もなく樺に襲い掛かる。


「!」


 攻撃に気を取られた一瞬の隙をついて、黒いものが視界を掠める。黒い球体だ。

 防御壁の中に入り込んだそれに気付いた時にはもう遅く、球体は軽快な音を立てて破裂する。飛び散った飛沫が降りかかり、クリスの肌を黒く染める。


「少し舐めてたわぁ」

「防御に攻撃。片手間で防げるほど甘くありません」


 鈍い痛みを発する肌から凄まじい勢いで気力が吸い尽くされるクリスは、苦悶しながら膝をついた。数秒だけでここまで力を奪われるとは思っていなかった。


「妹同然の貴方を手にかけるのは気が引けますが、これもあの方の望みを叶えるためです」

「ほんと、に……ぶき、よ、ね」


 乱れた呼吸の中で選んだクリスの胸元に黒い刃が生える。

 血に濡れ、てらてらと光る刃は的確に急所に突くとともに霧散した。傷口から大量の血が溢れ、地面を汚す。


 倒れ込むクリスを抱えた樺は、彼女の亡骸を優しく横たえる。

 痛みを感じないよう一瞬で終わらせたのは彼女に対する情ゆえだ。彼女がもう少し愚かで、鈍ければ、この状況も変わっていただろう。少なくとも樺がクリスの命を奪うことなどなかったはずだ。


「レオンのことは任せてください」


 樺が思い描いていた幸福の未来図は一つ欠けてしまった。

 大切なものを、最も大切なもののために壊した樺はもう後戻りできないのだと切なく笑った。

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