6-5
幼い少年が真っ暗の中を沈んでいく。目を開けることすら億劫で、流れに身を任せるように全身の力を抜く。
何か心を乱すような出来事があったような気がするが、今はどうでもいいことのように思える。ただ左腕の疼痛がやけに気になった。
ゆっくりと落ちてくる幼い少年を優しく受け止めるのも、これまた幼い少年だ。髪色さえ除けば、二人は驚くほどによく似ている。
唯一違う金色の髪が仄かに輝いて、暗闇を照らし出す。鮮明になる眠る少年の顔立ちに注がれる視線は慈愛だ。
「海里」
慈しむように己の腕の中で眠る少年の名前を呼ぶ。返ってくる声はない。
それでも構わない。ただ触れられる距離に彼がいるだけで十分に幸せを感じられる。
彼が眠ったことで身体の使用権はカイへと移った。もちろん突っぱねるつもりだ。海里がどんな状況でも、何が起こったとしても、この身体は海里のものだ。それは揺るぎない事実で、彼に許可なく使うことはできない。
――けれど。
「俺はあいつが許せない」
深い闇だって彼が傍にいるだけで、陽の光に照らされているように輝く。今、一番近くに彼がいるのに闇が晴れないのは、あいつのせいだ。
あいつは海里を悲しませた。
あいつは海里を苦しませた。
――あいつは忘れようとしている。
あの日の出来事は絶対に忘れてはならない。忘れることなど許されない、あいつとカイの罪だ。
「だから少しだけ。海里はここで眠っていて」
意識が覚醒する。隻眼を開けば、闇の中で何度も見た部屋の風景が眼前に広がる。
整理整頓が行き届いているようで、どこか生活感が残る部屋。きっと後で片付けようとそのままにしている書類の山に口元を綻ばせる。
身体を使うのは数か月ぶりにもかかわらず、よく馴染んでいる。嫌な感覚が綻んだ表情をすぐに険しいものへと変える。
家の中にある気配は一つだけ。レミのものだ。
今日は平日なので、レオンは学校に行っているのだろう。レミが残っているのは眠る海里の護衛のためだ。クリスがいないのは少しばかり気になるが、今は構っていられない。
「少しくらいなら問題ないな」
言って、霊力の塊を生み出す。わずかに妖力も混じった塊は曖昧ながらに人の形をしていて、ベッドに横たわらせる。自分には陰業の術をかけた。
レミが部屋を訪れさえしなければ一時間は騙せる。気配を読むことに長けているクリスが不在でよかったと心から思う。
周囲に誰もいないことを念入りに確認したカイは窓から飛び降りる。半人半妖は身体能力はさすがのもので、二階から飛び降りるなんて朝飯前だ。
目指すのは、史源駅前広場――海里があいつと再会した場所だ。
今日は平日。学生なら学校に通っている時間のはずでいるはずがない。それでも、確信があった。
「やっぱりいると思った。――鷺谷翔生」
「お前は……」
広場に佇み、物憂げに駅を行き交う人々の姿を眺めていた少年を見つけて呟けば、暗い瞳と目が合った。影を濃くした翔生は何か言いかけて口を閉じた。
昨日の今日で迂闊なことを口走ってしまうことを恐れているのだ。
「何を言ってもいい。俺は海里じゃないからな」
素っ気ない言葉を咀嚼し、時間をかけて意味を理解した翔生は肩を震わす。
肩より少し長い藍色の髪。左目につけられた黒い眼帯。見間違えようのない外見を持つ少年は、数日前にあったときとまるで雰囲気が違う。
周りの全てを敵視しているような鋭い隻眼。刺々しい雰囲気は近付くものを刺し殺してしまいそうな勢いがある。
今の彼にはあの笑顔を浮かべることはできないだろう。
温かくて、人を安心させるとような笑顔を浮かべられるのは、翔生が知る限りこの世でたった一人だけ――本当は全部分かっていた。
「俺はお前を許さない」
向けられる敵意には覚えがある。鋭さばかり目立つ気配には覚えがある。
昔はずっと傍にあったものだ。彼がいたことで和らげられた表情は、彼がいないことで際限なく研ぎ澄まされる。
「お前は海里を傷つけた。重ねた罪を忘れさせはしない」
「……罪」
開けてしまわないように、奥深くに仕舞い込んだものが震えている。
ダメだ、これ以上は。思い出したくない。忘れたままでいたい。知らないふりをして、気付かないままで、自分を苦しめるものをすべて遠ざけていたいのだ。
けれども、険しい表情でこちらを見る彼は翔生の甘えを許してはくれない。昔からそういう奴だった。
「思い出させてやる――上映開始」
漆黒だった隻眼が金色に瞬き、絶望を連れてくる。視界が暗転した。
間もなく光を取り戻した情景は懐かしくて、同時に一番見たくないものだった。
二人の子供が道端に佇んでいる。歳は五つくらいだろうか。長く伸ばされた藍色の髪と右目につけられた眼帯というやけに目立つ姿を持つ少年と、どこにでもいるような平凡な身なりの少年。
見た目こそ正反対ながらも、二人は仲良さそうにじゃれあい、楽しそうに笑っている。
「ヤツブサのじいちゃん、おそいなー」
「フウもいっしょだからすぐだよ」
フウはしっかりしている。同い年には思えないし、無邪気に笑う彼の弟だとは到底思えない。どちらかと言えば、彼の方が子供っぽくて弟のようだと言うのに。
「ねえ、翔ちゃん」
来たと思った。胸の辺りが締め付けられ、呼吸が乱れる。表情は苦しげに歪められ、今にも泣きそうだ。
どうか悪戯心など起こさないでくれと幼い自分に祈りながら、翔生は目を離したくても話せない光景をただ見ていた。
「――俺のこと好き?」
夢の中で、何度も何度も聞いてきた問いかけ――。
向けられる隻眼が何を求めている言葉に気付いていながら、幼い翔生は悪戯心に従った。言うな、といくら念じても過去が変わることはなく口はゆっくりと開かれる。
「嫌いだよ」
泣くと思った。だって彼は泣き虫だから。泣いたら謝って冗談だと笑えばいい。
浅はかな考え。高校生になった翔生はその考えが裏切られることを知っている。
穏やかな笑顔。温かくて、柔らかくて、見る人を安心させるような、そんな笑顔。まだ五つの子供が浮かべるとは思えない大人っぽい微笑み。
物心つく前から近くにいて、彼の弟に負けないくらいに理解していると自負していた翔生は、知らない部分を突き付けられて酷く動揺した。幼馴染が急に別人になったような気がして、耐えられなくなって逃げだした。
彼の表情を見たくなくて、彼に表情を見られたくなくて、顔を俯けて走る翔生の足が道路を踏む。と同時に誰かに引っ張られた。
「危ない!」
遅れて聞こえた声が彼のものだと気付いた頃、翔生は尻餅をついていた。すぐ傍まで迫っていたらしい鉄の塊に、身代わりとなった彼の身体が跳ねられる。
小さな身体は面白いくらいに跳ねて、赤い道を描きながら道路に転がっていく。青い空と舞う藍色、差し色の赤が混ざり合う光景は皮肉なほどに美しかった。
「海里!」
悲痛を詰め込んだ声とともに金色の何かが横を通り過ぎる。
長く伸ばされた金髪の残滓を追いかけた翔生は、通り過ぎたものが彼の弟だと大分遅れて認識した。
武藤風斗。道路に横たわる彼の双子の弟。誰よりも彼のことを大切にしている少年。
翔生が彼に悪戯をしかけるたび、彼が涙を浮かべるたび、鋭い隻眼は更に鋭くなる。翔生は昔から、風斗の鋭く尖った雰囲気が苦手だった。
「海里、海里……目を覚ましてくれ…っ……」
彼を中心に世界を回していた少年の悲嘆にくれる背中が翔生を責めたてる。絶望に彩られた声が彼の名前を呼ぶたびに、「お前のせいだ」と言われているような気がした。
「頼む。誰か……誰でもいいから助けてくれよ。なぁ……?」
耐えられない光景に弱音を吐いた翔生はあることに気がついて周囲を見渡す。
当時は気にもとめていなかったが、周囲に人影が一つとしてない。人通りが多いとは言えないものの、時刻は昼間で普段なら誰かしらが歩いている道だ。
何より、彼を轢いた車の運転手の姿すら見当たらないのはどういうことだろう。
いや、そもそも、あの車に運転手なんて乗っていなかったのではないか。
思えば、この事故はどのメディアにも取り上げられていないどころか、近所の噂にすらなっていなかった。幼い子供が亡くなったにもかかわらず。
「――わけがない」
考え込んでいた翔生の耳に震える声が届いた。絶命した彼の前に座り込む風斗の声だ。
「海里が、死ぬわけない。そんな世界はありえない。――そんな世界は偽物だ」
狂気とも言える光を宿した隻眼にかける言葉が見つからない。息を呑み、恐ろしさすら感じさせる幼馴染の姿をただ呆然と見つめる。
――その時、風が吹いた。不自然な風に掻き乱された金髪と藍髪が混ざり合う。
「……海里は死んでなんかない」
「なるほど」
ふくよかな声が耳朶を打った。
浮世離れたした雰囲気を纏った青年が立っている。生成りの衣服を身に纏い、透明な玉が連なった耳飾りをぶら下げている。髪は見慣れた藍色で、長い一房を金の髪留めで纏めていた。
――そして、柔らかな瞳は嘘のように美しい銀色の光を宿している。
翔生も、風斗も圧倒的な存在感を放つ青年から目を離せないでいる。
「質問です。貴方は彼の生を望みますか」
「当然だ。海里は生きてなくてはならない。そのためならなんでもする。なんだって差し出す」
迷いのない瞳を真少年から受け止めた青年は微笑し、続いて銀の瞳を幼い翔生へと向けた。
「貴方は?」
「俺、は……」
海里が生き返ってくれるのならそれが一番だ。今まで通りを続けていられるのなら、それに変えられるものはない。
答えに迷う翔生の考えを読み取ったように青年は鷹揚に頷いてみせる。
「その願い、聞き届けましょう。特別です」
眩い光が立ち込める。それから先は曖昧で、視界が晴れた頃には景色が一変していた。
場所は同じ。けれども、横たわる少年の姿も、絶望する少年の姿もない。ただ、二人の少年が向かい合う光景がある。
「俺はこの町を出る。……お前には伝えておく」
金髪の少年がそういった直後、鋭い瞳がふと和らいだ。自分に向けられることなんて一度もなかった風斗の柔らかな表情に翔生は呆気にとられる。
「翔ちゃんは、俺のこと好き?」
心臓が大きく跳ねた。
彼とよく似た顔で、彼とよく似た声で、彼と同じ問いかけを紡ぐ。
勘弁、してほしい。
あの日から何度も、何度も、毎日のように夢を見る。
嫌いだと、そう言った。彼が浮かべた笑顔に耐え切れなくなって走り出し、身代わりになって跳ねた藍色を呆然と見つめる。現実味のない絶叫を聞きながら目を覚ます。
忘れたい。忘れさせてほしい。もう思い出したくなんてない。全部、全部、否定してしまえば忘れることができるのだろうか。
「……お前みたいな化け物、好きになるわけないだろ」
言ってしまった。
背中に突き刺さる殺気には気付かないふりをして、何も聞きたくないと耳を塞いで、逃げるように立ち去る。
もういいではないか。
風斗はこの町を出ていく。きっともう会うことはない。ならば、忘れてしまってもいいではないか。
すべてを拒絶して、翔生は忘れた。夢で見る罪だけが全てだと思い込んで――。