1-9
課題に勤しむ華蓮の横で、世にも珍しい銀色の毛並みを備えた猫が眠っている。
猫こと流紀と出会ったのは数日前であるにも関わらず、脳内は見慣れた光景と処理している。
シャーペンが走る音を聞きながら目を閉じていた流紀は近付いてくる気配を察知し、耳を震わせる。
「華蓮」
ノックもなしに開かれた戸の先に立っていたのは異装の少女。
ツインテールの結び目にそれぞれ生えた二本の角と口元から除く上下二対の牙が人ではないことを教えてくれる。
藤咲家に半居候している紅鬼衆が一人、百鬼である。
最近は不在がちだったので久しぶりの登場だ。
「月が来ているわ」
「月が?」
数十分前まで一緒に帰宅していた友人の顔を思い浮かべながら自室をである。
互いの電話番号もメールアドレスも知っている。携帯を利用せず、わざわざ家を訪ねてくるような用事があるのだろうか。
思案しながら歩く華蓮の後ろを流紀は伸びをし、ぽてぽてとついていく。
残された百鬼は自分がしっかり任務を果たしたことに満足したのか、しきりに頷いて姿を消した。
玄関に着くと、海草のごとくゆらゆらと揺れながら月が華蓮を待っていた。三つ編みにされた金に近い琥珀色の髪が動きに合わせて揺れる。
「あ、華蓮!」
華蓮の姿を見るなり表情が一変、歓喜に満ちた表情になる。三つ編みが一際大きく揺れた。
男が見たなら見惚れてしまいそうな無邪気な笑顔だ。
「今から私の部屋で勉強会しない?テストも近いし」
「いいわね。準備してくるから待ってて」
「うん」
小走りで自室に戻った華蓮を見送った月は再び左右に揺れながら鼻歌を歌う。思いついたメロディーを適当に歌っているようだ。
欠伸を一つした流紀は絵になるといっても過言ではない光景をのんびりを眺める。
月は華蓮とは別種の美少女だ。華蓮は美人系だが、月はどちらかというと可愛いといった感じだ。
天然な性格も月の愛らしさを引き立てているような気がする。
流紀の視線に気がついたのか、月は動きを止めて流紀へ視線を向ける。
「流紀ちゃんも来る?」
目線を合わせるようにしゃがみ問う。
まるで本物の猫に対するような態度だが、月がすると受け流してしまえるのが不思議だ。
華蓮や焔にされたらこうはいかないであろう。焔にされたらうっかり氷の礫を降らせてしまいそうだ。
「ああ、華蓮のお守りをしないといけないしな」
「そっかー。大変だね」
「まあな」
「華蓮のことよろしくね。短気で気が強いから勘違いされやすいけどすっごく良い子なんだよ。優しくて真っ直ぐで」
自分のことのように語る月の表情は嬉しそうで、華蓮の大切に思っていることが伝わってくる。
「分かってるよ」
「ふふ、流紀ちゃんは華蓮の良い相棒になるよ」
いいな、と呟く月の顔に一瞬だけ翳りが生まれる。
目敏くそれに気づいた流紀は微かに目を細めるが、敢えて何も言わずにおく。
それほど悪い感情に思えなかったのが一番の理由だ。孤独を感じさせるような、そんな表情。
「遅くなってごめんなさい」
小走りで戻ってきた華蓮に月は「ううん」と無邪気な笑顔で迎える。
翳りなど一切感じさせない普段通りの表情だ。
「さて行こっか」
立ち上がる月。
先程の表情を忘れることができない流紀は逡巡ののち、月の肩に乗っかる。
「ありがと、流紀ちゃん」
女子二人が向かい合う形で勉強に勤しんでいる。華蓮の横ではいつものように銀猫こと流紀が丸まっている。
教科は数学。互いに分からないところを教え合っているが、やはり月が教える側に回ることが多い。
彼女のベッドに寝転がっている星司は意味をなく二人の様子を眺める。
その視線に気がついた華蓮は不機嫌そうに眉を寄せる。
「何よ。文句があるなら言いなさい」
「言ったら怒るじゃないっすか」
眠たげな口調で反論する星司に、華蓮の表情は更に不機嫌そうなものへ歪んでいく。
気怠げな仕草で片目を開けた流紀は呆れたように尻尾を揺らす。
今にも喧嘩に発展しそうな二人に月は思い出したように声をあげる。
「昨日作ったカップケーキ余ってたんだ。持ってくるね」
不機嫌なままの華蓮は鼻を鳴らすとそっぽを向く。
月の気遣いを無下にするわけにはいかないと別の話題を模索する。
これ以上華蓮を不機嫌にさせず、むしろ機嫌をよくするような話題だ。
幼馴染とはいえ、華蓮を怒らせることの多い星司にとっては簡単に見つからない。一先ず、自分が興味のあるところから攻めていくとしよう。
「華蓮さんて何度か妖退治したんすよね。どんな感じなんすか」
「っそれがね。イケメンに助けてもらったのよ。髪が長くて女の子みたいだったんだけど、すっごくかっこよくて」
勢いよく振り返り、捲し立てるように言葉を並べていく華蓮に「話の選択を間違えたな」と星司は心中で呟いた。
不機嫌から一変、上機嫌になったのは成功と言えるだろう。
ただ興奮状態なので何を言っているのか分からない上に、こうなった華蓮はしばらく止まらない。そのことを理解している星司は上手い事、華蓮の話を聞き流しつつその場をやり過ごす。
「そうなんだ。私も会ってみたいな」
いつの間にか戻ってきていた月が華蓮の話に相槌を打つ。
適当に相槌を打っているのではなく、話の内容を理解して頷いているのだ。
「さすが月」
十数年一緒にいても星司には身につかなかったスキルだ。そこは同性だからといったところだろうか。
尊敬の眼差しを向ける星司に月は不思議そうな視線を返す。
誤魔化すように笑った星司は月が帰ってきたことをこれ幸いにベッドに寝転がる。
目敏くそれに気づいた華蓮のつり目がさらにつり上がる。美人故に凄みが増しているが、見慣れている星司にとっては大したことではない。
「ちょっと星司君聞いてるの?」
「聞いてるっすよ」
聞いてないといたら煩くなるのは明白なので適当に答えておく。
ひらひらと手を振りながら答える星司の適当さ加減に怒りが上乗せされたのか、華蓮の額に青筋を浮かべる。完全に逆効果だ。
「自分から聞いたんだからちゃんと聞きなさいよ!」
「少し静かにしてくださいよ。寝れないっすよ」
「人の話の最中に寝ようとしてるんじゃないわよ」
こうしていつものように口喧嘩が勃発する。
捲し立てるのはいつも華蓮で、星司は適当に言葉を返すのみだ。その態度が華蓮の怒りを蓄積していく。
数分程経てばおさまるので、それまでの我慢だ。長年の付き合いで身に着けた華蓮に対してのみに使える処世術。
そもそも怒らせるような真似をしなければいいだけの話なのだが。
「こんにちはー。今日は随分と賑やかですね」
ひょっこりと顔を覗かせたのは星司の弟である健だ。
虚弱という言葉が似合いそうな少年だ。驚くほど身長が低く、童顔も相まって小学生にしか見えない。
今帰ったばかりなのか服装は春ヶ峰学園中等部の制服だ。一回り以上大きい服装は決してお下がりというわけではない。
「貴方の兄のせいよ。ちゃんと躾けときなさいよ」
「兄の躾けは専門外ですよ。調教師を雇った方が確実です」
口調からも表情からも本気か冗談か分からない言葉を返しながら、華蓮の隣に腰かける。
昔馴染みということもあって高校生に囲まれても物怖じする様子はない。
「健に調教されるならそれもありか……」
「気持ち悪い」
彼女のベッドの上に寝転がったまま真剣に考える兄に目をやる。
無表情の中に最大限の蔑みが混ざっている。
ショックを受けたのか、やはり彼女のベッドの上で丸まる兄から視線を逸らし、テーブルの上に向ける。
華蓮と月が勉強している形跡が残されたテーブルの中央には先程月が持ってきたカップケーキが置かれている。
「食べる?」
首肯することで答えた健は月からカップケーキを受け取る。
小動物さながらにもくもくと食しながら、口の中に広がる甘味を堪能する。鼻腔を擽るシナモンの香りが心地良い。
「おいしいです」
表情は相変わらず乏しいが、端々に幸福の色が滲み出ている。
健に気に入られたことを素直に喜んだ月は次のカップケーキを差し出す。
「こらこら俺の弟に菓子を与えるな。俺以外に懐いたらどうする?」
「元々そこまで懐いていないけど」
自己申告が与える効果は抜群だ。一度起き上がっていた星司は再びベッドの上に倒れ伏した。
「そうそう、手紙が届いてたよ」
用件を思い出したという口調で立ち上がった健はちょうど星司の顔辺りに件の手紙を乗せる。
白い便箋には整った字で『星司へ』と書かれているのみだ。
のそのそといった手付きでそれを確認した星司の表情が険しいものになる。
「おー、ありがとな」
力ない言葉を返し、ひらひらと手を振る。
その行動の意味することを察した健は「用事は済んだから」とそそくさ部屋を去る。
「誰からの手紙?」
「誰からでもいいじゃないっすか」
内に広がる動揺を悟られないように笑いながら、隠すように手紙を握りしめる。
鈍感な華蓮は幼馴染の変化に気付くことはなく、勉強を再開する。
月は気付いているようだったが、心配そうな顔をするだけで特に何も言ってこなかった。
勉強会が終了し、現在の星司がいるところは自室だ。
華蓮はすでに帰っており、月は下で料理の手伝いをしている。
握りしめたせいで皺だらけになってしまった手紙をゆっくりと開く。
やけに大きい心臓音が耳障りだ。呼吸は浅く、喉が異様に渇いている。
震える手で中身を取り出す。
二つ折りのされた白い紙。高鳴る緊張をよそに開き、丁寧な文字が連なる四行を見つめる。
星司へ
俺はもう星司に会うことはできない。
だから、俺のことは忘れてほしいんだ。
約束を守れなくてごめん。
武藤海里
悲しいほどシンプルな三行。書き手の心情は一切読み取ることができない。
数年近く手紙すら寄越さなかったのに一体どういうことだろう。
今更、何故こんな手紙を寄越したのだろう。
読む前以上の動揺が星司の中で広がっていた。急かす気持ちを抑え、勉強会の後に読んだのは正解だったかもしれない。
こんな顔、華蓮にも月にも見せるわけにはいかない。
「なんでだよ……わけ分かんねぇよ」
手紙を握りしめ、力が抜けたように座り込む。剥き出しにされた床の冷たさを感じる。
そのお陰で頭が冷えたのだろうか。
星司はあることに気がついた。ゆっくりと立ち上がると慌てて自室を後した。
早足で目指すのは二つ奥にある部屋。ノックをすることは頭になく、躊躇いなく扉を開ける。
部屋の中はやけに暗く、よく見るとカーテンが閉め切られていた。
ベッドの上には様々なジャンルの本が重ねておいてあり、中心には部屋の主が鎮座している。
熱心に本へ注がれていた無機質な瞳が静かに星司へ向く。
「どーしたの」
手紙のことで頭がいっぱいになっていた星司は白々しい彼の態度が無性に腹がたった。
それでも頭に血が上った状態では彼の思うツボなのだと自覚している星司は努めて冷静な声を出す。
「お前、海里の居場所を知ってるんだろ?」
自分でも驚くほど低い声だ。
部屋の主こと健は怖気づくこともなく、首を傾げてみせる。
「さあね」
「惚けるなよ!」
感情が爆発する。
少し前まで形だけの好意を向けていた相手に今は全力の怒りをぶつけている。
健の前でここまで感情を露わにするのは初めてなのかもしれない。
「海里からの手紙を渡すのはいつもお前だ。あいつの手紙には住所は書かれてないし、切手もついていない。そんな手紙が郵便で届くわけないだろ。手渡し以外でどう届ける?」
星司から怒りをぶつけられても尚、無表情を貫いていた健が初めて表情を浮かべる。
喜び。嘲り。安堵。驚愕。憧憬。畏怖。後悔。愛しさ。怒り。悲哀。痛み。
全ての感情が入り混じったかのような複雑な表情。
あまりにも美しいその表情に星司は怒りを忘れて呆気にとられる。
「手渡し以外にもいくつか方法はがあるわけだけれど」
独り言のように呟き、健は読んでいた本を閉じる。
「ねえ、兄さん。兄さんは海里さんが本当に存在していたのか、最近ではよく分からなくなってるんじゃない?」
図星を指された星司は喉を鳴らす。
蠱惑的な笑みを乗せた健はさらに言葉を追い詰めていく。一言一句が悪魔の囁きのようだ。
「知っているはずの華蓮さん達は一人として覚えていない、覚えているのは自分だけ。本当は自分が見た夢だったんじゃないかって。兄さんから話を聞いて知ってる俺になら海里さんになりすまして手紙を書くことなんて簡単だよね」
何かを言わねばならない。無意識にそう思った。
煩いほどに聞こえる自身の鼓動に気付かないふりをして、健を見返す。
全てを見透かす黒曜石の瞳に怯みそうになる心を必死に抑え込む。
「確かに……夢かもしれねえ。けど、お前言ってたよな。『死んでる可能性だってある』って。俺の夢だったらわざわざそんなこと言う必要はないだろ」
「その言葉には何の根拠もないよねー。俺って虚言癖あるし」
蠱惑的な笑みの中に無邪気さが入り混じる。幼い子供が新しい玩具を見つけたときのような無邪気さだ。
ステップを踏むようにして星司に近付き、笑みを深める。
「まあ、でも六十点くらいかな。海里さんは実在するよ。兄さんが貰った手紙も本人が書いたものだ。と、ここでクイズを一つ」
人差し指を立て、星司の前で揺らす。空いている方の手で星司が握りしめていた手紙を奪い取る。
「この手紙は誰が書いたものでしょーか」
手の中で手紙を弄びながら、星司の答えを持つ。
無邪気さを露わにする弟の言動にただ恐怖を増幅させる星司は何も答えられずいる。
見かねた健は「仕方ないな」とでも言うように肩をすくめ、口を開く。
「正解は俺でした。筆跡を真似て書くのって難しいね」
「……なんで」
「秘密。ちなみに、海里さんの居場所を知らないのは本当。知ろーとすればできないこともないけど」
実の弟のはずなので得体の知れないものにしか見えない。
奥底から湧きおこる恐怖に侵された星司にはいつものようにブラコンを気取ることすらできない。
不意に甘い香りが漂った。
強いその香りはゆっくりと星司の意識を闇へ引きずり込む。目を瞑ることに抵抗する気も起きず、そのまま意識を手放してしまう。
完全に星司が気を失ったことを確認した健は座り込み、星司の上に柔らかく手を置いた。
星司を恐怖させた表情は鳴りを潜めていた。けれども無表情に戻ったわけではない。
「ごめんね。俺には何も教えられない。聞きたいことがあるなら本人に直接聞いてあげて」