6-3
星司たちと別れ、帰路についていた海里はふと歩みを止める。
目の前には処刑部隊が、史源町で拠点としている一軒家。藤咲堂へバイトに出ているレミ以外は全員いるはずだ。
そこまで考え、玄関扉を開けようとしていた手を下ろした。正直、まともな表情をできている自信がない。
自分の腕につけられた妖力の糸をそっと見つめる。海里の状況は糸を通じてクリスへと知らされる。彼女は海里が戻ってきていることに気付いているだろう。こうして玄関の前で立ち止まっていることを不審に思いながらも、何も行動しないのがクリスだ。
ありがたいと思いながら踵を返そうとした時、誰かに腕を掴まれた。
「海里様」
聞こえた声につられるようにして振り向く。なんとか笑顔を作ることには成功し、心中でほっと息を吐く。
立っていたのは青年だ。白衣を身に纏った優男。気配に気付いて出てきたらしい彼は、普段と違う海里の様子に怪訝そうな表情を見せる。
「随分とお早いお帰りですね。……何かあったんですか?」
「ううん、何もないよ」
多少の違和感を感じ取られてもこう言っておけば、踏み込んでこない。そう、思っていた。
「話してください」
誤魔化しは許さない。
向けられる漆黒の瞳がそう言っている気がして隻眼が揺れる。「分かった」と観念した声は少しだけ震えていた。
とりあえず、とレオンは海里に中へ入るよう促す。リビングの椅子に腰かけた海里はレオンが入れたお茶で、渇ききった喉を潤す。コップを通じて掌へと伝わる熱が乱れた心を落ち着けてくれる。
「昔の…知り合いにあったんだ。俺がこうなる前の、知り合いに」
目の前にレオンが座ったところで、海里はそう切り出した。
こうなる前。ぼかされた言葉の意味に小さな衝撃を受けながらも、レオンは表情には出さないよう、静かに耳を傾ける。
「会いたくなかったって言われちゃった」
浮かべられる笑みには悲哀の欠片もなく、痛ましさを余計に目立たせる。
武藤海里という人間はいつもそうだ。辛いこと、悲しいことを目の前にした時こそ、笑顔を浮かべて心の奥底を隠し通す。
レオンが気付けたのは付き合いの長さからだ。海里が処刑部隊に入った頃だったらきっと気付けていなかった。
「俺は、苦しむくらいなら忘れてほしいと思う。……思ってた、けど」
航平から“鷺谷”という名前を聞いた時、もしかしたらと思った。
もし、本当に彼なら会いたい。そう思ったから、可能性に気付きながら町案内という頼みを引き受けたのだ。
「覚えていてくれたらと思っていたのも事実なんだよ」
その結果があれだ。
翔生の反応は当然のものだ。あの日の出来事を覚えていたとて良いことはない。覚えていてほしいという思いは海里のエゴだ。
「もう会わないようにするよ。この町は広いから偶然会うってこともあまりないだろうし」
「海里様はそれでいいんですか」
「うん」と肯定した海里の笑顔は完璧で、レオンは胸が締め付けられる思いがした。
大丈夫と言うのも、笑顔を作るのも、幼い頃からの彼の癖だ。
見慣れた笑顔を前にレオンは密かに覚悟を決める。彼がいつもレオンたちを支えてくれるように、レオンも海里を支えてたい。
「無礼を承知で申し上げますが、私は海里様のことを弟のように思っています」
処刑部隊は家族と言うのはクリスの言葉。
レオンは海里が生まれる前から知っている。生まれてからは事あるごとに妖華に呼び出されて面倒を見てきた。最初は仕事だと思っていた世話も、いつからか楽しみになっていた。
人間の子供は驚くほどの早さで成長していくもので、それを間近に体験するのがあんなにも嬉しいことなんてレオンは知らなかった。海里が教えてくれたのだ。
「だから甘えてください。私は、海里様の弱音を聞きたいんです」
はっと息を呑んだ海里の表情がゆるゆると崩れていき、泣きそうに歪んだ。
初めて見る表情を、レオンはただ静かに見つめる。
「嘘のつもりは、ないよ。それでいいって……本当にそう思ってる」
翔生の気持ちを尊重したいというのは心からの思いで、微塵も嘘はない。それだけは、はっきり断言できる。
ただ胸を締め付ける感情があるのもまた事実で、それが海里の表情を歪ませているのだ。
「……鷺谷君は、最初の友達だったんだ。妖のことも、神生ゲームのことも、あの頃は何も知らなかった。一番幸せな時間だったかもしれない」
何も知らないことがどれほど幸せだったのか、とふとした時に考える。
知ってしまった今が不幸だと言いたいわけではない。課せられた重責を前に、素直な表情を浮かべられなくなってしまっただけ。
「真っ直ぐで、素直で、ずっと前だけ見てる人だった。……大好きだった。俺が半人半妖だって知っても変わらず友達でいてくれて、それどころか励ましてくれて――」
――お前みたいな化け物、好きなるわけないだろ。
声が聞こえた。
そうだ。翔生は受け入れてくれた。変わらない友情を示してくれた。
だから安心して友達でいられたのだから。あの事件が起こるまでずっと、翔生は海里の一番の友人だった。
ならば。ならば。心を揺さぶるこの声は一体、何なのだろう。
こめかみの辺りが激しく痛み、顔を顰める。
「海里様? 大丈夫ですか」
「俺が……」
頭だけではなく、左腕も激しい痛みを訴える。苦悶する海里はついに耐え切れなくなり、レオンにもたれかかる。
「俺は翔ちゃんを……っ」
そこまで口にしたのを最後に海里は意識を手放した。
人一人分の重みを受け止めたレオンは困惑と焦りが綯い交ぜになった表情で、何度も呼びかける。
熱はない。呼吸も安定しており、わずかに汗が滲んでいるものの表情はいつも通り。見た目だけでは、ただ眠っているようにしか見えない。
「! 髪が……!」
藍色のはずの海里の髪が毛先から徐々に金色に染まっていく。
何を意味しているのか、金色が何を象徴しているのか。
それらを知っているレオンには、倒れた以上に不吉に思えて氷塊が滑り落ちたような感覚がした。
それから三日間。海里が目覚めることなく、自室のベッドで眠っている。髪色が変わったのはあの時だけでほっと胸を撫でおろしている。
呼吸は落ち着いており、胸は規則正しく上下している。ただ眠ているだけのようにも見えるその姿をレオンは毎日のように眺めている。
少しでも何か変化はないかと思いながら、結局何も変わりない状況に息を吐く。
――俺は翔ちゃんを……っ。
倒れる前に海里は何かを思い出そうとしていた。おそらくは鷺谷翔生のこと――。
彼らの関係がどういうものなのか、レオンの知っているのは妖華から聞いた程度の情報だ。親友だった少年たちの関係は悲劇的な出来事を介し、複雑なものとなった。
「後、どれくらい残っているんですか……?」
倒れた直後、海里の髪色は金色に戻っていた。それは期限が近付いているということだろうか。
眠る海里の左腕に触れる。今は包帯で隠されているあれを見れば、答えがすぐに得られることは分かっている。けれども行動に移せないのは、まだ知らない幸福に浸っていたいという思いがあるからだ。真実を知る覚悟ができていない。
「――レオン」
静かに扉が開いたかと思うとクリスの声が耳朶を打った。彼女らしくない神妙な面持ちに、神妙な声音だ。
「こんな状況で悪いけれど、妖界に行ってくるわぁ」
「何かあったんですか」
「少し、ね。長くかかりそうだから、ここのことお願いするわぁ。頼りにしてるわよぉ、副隊長」
何も語らないということはレオンが知るべきではないのだ。
誰よりも信頼している彼女の言葉ならば、手放しに信用できる。
「分かりました。お気をつけて」
漆黒の瞳に込められた確かな信頼に微笑んで答えたクリスはそっと部屋を後にする。
残していく不安も、心配もある。それ以上の信頼があるから任せられる。彼ならきっと大丈夫と考え、息を吐き出す。
瞬間、クリスから表情が消えた。妖艶すら鳴りを潜めたクリスは今、妖界で起こっているであろうことに思いを馳せる。
異変はもっと前からあった。それこそ海里が行方不明だった頃からだ。
「信用して任せていたのだけれど……。本当に手のかかるお兄様だこと」