6-2
駅を出入りする人々を漫然と眺める海里の腕で何かがキラリと光る。クリスの生成した糸だ。
立場上、自由に出歩けない身である海里がお供をつけずに出歩くために必要なものなのだ。海里の状況は糸を通じてクリスに伝わるようになっている。緊急時に糸を切れば、レオンとレミにまで伝わる仕組みだ。
複雑な術式を組み込んだ糸を簡単に出せるくらいに優秀なのだと、こういう時に思い知らされる。妖華といい、クリスといい、凄い人に限って奔放な振る舞いをするのだ。
行方不明になって、さんざん心配と迷惑をかけたというのに、海里が少しでも自由に暮らせるよう心砕いてくれることには感謝が尽きない。
積もりに積もった恩は少しずつでも返していかなければならない。
――まったく、心配したんだから……っ!
つり目の端に涙を溜めて、ようやく見つかった海里を喜んで出迎えた少女。彼女にもいつか、胸の奥底に隠した思いを伝えられたらと思う。
「わりぃ、遅れた。って、航平もまだか」
「迎えに行ってから来るって言ってたからね」
約束の時間に少しばかり遅れて登場した親友を笑顔で出迎える。相も変わらず気怠そうな彼は、穏やかな笑顔の裏に隠された感情に気付き、怪訝な表情を見せる。
「やっぱり気になんのか」
「……うん。変わった名字だからね」
今日、二人がこうして待ち合わせしているのは、サッカー友達に町案内するから付き合ってくれと、航平から頼まれたからだ。一昨日の放課後のことである。
ちょうど部活が休みだったこともあって快く引き受けた。
件のサッカー友達は『鷺谷』と言うらしい。海里はその名字に何か思い入れがあるらしく、ふとした瞬間に浮かない表情を見せる。
珍しく笑顔が剥がれ落ちた海里の表情を見ると、ひどく落ち着かない気分になる。踏み込むことのできない自分を情けなく思いながら星司は気付いていないふりを貫いた。
「町案内できるほど、俺もこの町に詳しくないんだけど」
気を遣った海里が明るめの声で空気を変えてくれる。
海里が史源町に来て、まだ半年程度しか経っていない。この半年近い年月も、以前この町で過ごした一年間も、駅周辺を訪れることはほとんどなかった。後者は、処刑部隊の任務に追われていたからだ。
「また別の日に案内するか? 月とか華蓮さんも誘ってさ」
「そうだね。楽しそうだ」
しばらくは処刑部隊の任務が入らないらしいことはレオンから聞いている。ゆっくりできる間にいろいろと見て回るのも楽しいかもしれない。
普通の子供としての生活を捨てた海里であるものの、割り切っているかと言われたらそうではない。憧れも確かに心の中にあるのだ。
賛同する海里が浮かべるのはいつもの穏やかな笑顔でいつもの彼が戻ったことを密かに安堵する星司である。
海里だって笑顔以外を浮かべることもある。それだけだ。深い意味なんて、ない。
逃げるように考えていた星司の視界が航平の姿をとらえる。隣にいる少年が案内するサッカー友達なのだろう。
「――ちゃん」
「え?」
微かに呟かれた声につられるように海里を見る。
痛みをこらえるような、切なげな表情。
懐かしいものを見る複雑で苦しげな表情。
「海里……? どうしたんだ」
問いかけに答える余裕のない海里はただ航平の隣に立つ人物を凝視している。見開かれた隻眼が、薄い唇か震えている。
互いの顔がはっきり見える位置まで来た頃、もう一人の人物の表情が一変する。航平のサッカー友達――鷺谷翔生だ。
驚愕に見開かれた瞳は恐怖を映し出し、震えた唇が乱れた呼吸を繰り返す。
「なんで……っ」
その声は震えていた。
「……翔、ちゃん」
中性的な声が翔生の名前を呼べば、彼の肩が大きく震える。見開かれたままの瞳はいっそう大きく揺れる。
「……なんで、カイがここに……っ。違う! そんなはずない。だって……カイは死んだはずだ!! ああ、そうか。そう、なんだろ。フウの奴がカイのふりをしてんだろ? ……髪まで、染めて……眼帯も逆だし……」
「翔ちゃ――」
「呼ぶな! その呼び方はカイのものだ!」
痛切な叫びが突き刺さる。隻眼は隠しきれない哀切を宿し、かけるべき言葉を探しているようだった。
星司も航平もまるで状況が読めず、ただならぬ空気を放つ二人を見ているしかできない
「なんで、だよ。せっかく、せっかく忘れられそうだったのに。……なんで、今更現れたりするんだ……っ」
今思えば、久しぶりに見たあの夢が彼と出会うことを教えてくれていたのかもしれない。もう少し早く気付けていたら航平の誘いは断っていたというのに。
「会いたくなんてなかった……っ!!!」
「――ごめん」
はっとして顔を見る。
長い藍色の髪で左側を隠した中性的な顔立ち。浮かべられているのは、見る人を安心させる穏やかな笑顔。
成長した今、その大人びた表情に違和感はない。それでも胸中に沸き起こる感情はあの日を彷彿とさせ、しでかしたことへの後悔が膨らんでいく。
どんなに後悔しても、口に出したことがどうにもならないことは痛いほどに知っている。
「もう鷺谷君には会わないようにするよ」
「ちがっ……」
弁明の言葉は最後まで音にはならない。
何が違うというのだ。翔生が言ったのはまさにそういうことで、翔生が望んでいるのはそういうことだ。
会いたくなかった。ずっと忘れていたかった。
あんな出来事はなかったと、悲劇なんてなかったと、普通の生活を送っていたかった。
「星司、航平。悪いけど、用事を思い出したから俺は帰るよ」
普段通りの表情と声で告げた海里は「気にしないで」と言うように翔生へ微笑みかけて踵を返す。
三者三様の思いで、遠ざかる海里の背中を見送る。誰一人、声をかけることはできなかった。
「町案内は別の日にするか。鷺谷も調子悪そうだしな」
「そうだな、そうするか」
無理矢理に明るい声を出す航平に賛同する形で、星司も重苦しい空気を払拭することに尽力する。
「……悪い」
「気にすんなって。家まで送るか?」
「いや……道は大体覚えたし、大丈夫だ。――それに今は一人になりたい」
「んじゃ、迷ったら連絡しろよ」
そんな航平の言葉のもと、三人は各々の道を歩き出す。例外なく帰路についていた星司はふと歩みを止める。
(カイって海里の別人格みたいな奴のことだよな)
穏やかな雰囲気を纏う海里と対照的に人を寄せ付けない鋭さを宿した存在。
獣のような彼と会ったのは今までに二回。
一度目は、海里と再会したあの日に記憶にあるものと全く異なる雰囲気にショックを受けたことを覚えている。
二度目は、敵の手に落ちた月を助けてもらったときだ。海里は月の心に干渉していたらしいことは後から聞いた。
そのどちらも会話らしいことはしておらず、星司は彼が何者なのか知らない。
――カイは死んだ。翔生の言葉が本当ならば彼は死に、海里に取り憑いているということなのだろうか。
しかし……。
「フウってのは……」
誰なのだろうか。
分からないことが多すぎる。
意を決して、すでに大分離れた位置にいる翔生を振り返る。今なら走れば追いつくだろう。
「鷺谷、だったか。ちょっと待って、くれ――話がある」
振り返った翔生の顔には覇気というものがなかった。絶望を絵に描いたような表情に圧倒されて言葉を飲み込む。
この期に及んで聞いてもいいのかと迷ってしまう自分が情けない。
「話ってなんだ?」
一向に話し始める様子のない星司に荒んだ声が投げかけられる。
「ないなら、俺は――」
「ま、待て。ええと、俺は岡山星司だ。航平の友達で……」
要領の得ない星司に、翔生が向ける視線には不審がどんどん強まっていく。
いよいよ本題に入る決心をした星司は、暗い視線と向かい合う。
「お前、海里と知り合いなのか」
言葉を選ぶような問いかけに、翔生の表情が明らかに曇った。暗い影を落とした視線には険しいものが宿っている。
踏み込んではならない部分なのだと罪悪感が胸の中で疼いた。それでも引かないと決めた心は裏切らない。
「……武藤海里。あいつは今そう名乗っているのか」
「あ、ああ」
返された言葉に嫌な予感がよぎる。裏切らないと決めたからには肯定するしかなく、表情を歪める翔生をただ見つめる。
「あいつは武藤海里なんかじゃねぇ。武藤海里は、カイはもういない」
ああ、カイは海里のことを指していたんだな。そんなことを遠いことのように考える。
急に翔生との距離が開いたような感覚に陥り、急に現実感のなくなった世界で翔生の声だけに耳を傾ける。本当は聞きたくなんてなかった。
「――カイは俺が殺した」
何かが崩れていく音がした。
武藤海里が死んでいるというならば、星司が海里だと思っていた人物は誰だというのか。
優しくて、温かくて、あの笑顔で周囲を安心させてくれる彼が自分たちを騙していたというのか。
翔生の言葉は信じがたい。けれども、違うと真っ向から否定できるほどの自信もない。
思えば、星司と海里の付き合いは片手で指で数えられる年数しかない。海里が生きてきた年数の五分の一にも満たない、短い短い時間。
どこか秘密主義にな彼の全てを知るには、あまりのも短すぎる。
「どういう、ことだ? 海里は――」
「あいつは海里じゃない! 生きてるはずない、そんなはずないんだ。だって……っ」
戸惑いを隠せない星司の言葉に、声を荒げた翔生は痛ましげに唇を噛む。
忘れられない後悔が今も心を蝕んでいるのだ。
星司にも心当たりのあることで、逃げるように去っていく翔生にかけるべき言葉が見つからない。ただ見送ることしかできなかった。
「……海里。今までのは全部嘘だったのか……?」
一緒に笑った。
一緒に戦った。
海里の秘密だって知った。
短い時間でも過ごした時間は確かなもので、誰が何と言おうとも自分は海里の親友だ。
そう思っていた。思ってきた。
なのに。
積み重ねてきた日々は最初から全部偽物だったのだろうか。
「俺は……お前を信じていいんだよな」
今日会ったばかりの翔生の言葉よりも、海里のことを信じたい。
脳裏に鮮明に残る翔生の表情。痛ましさだけを含んだあの表情を見てしまった星司には、ただの嘘だと断定することもできないでいる。
少なくとも海里と翔生が知り合いなのは確かだ。
――翔、ちゃん。
翔生の名前を呼んだ海里は懐かしさだけではない複雑な表情を見せていた。
あの表情が星司の胸にしこりを残し、海里を信じようとする心を揺らしているのだ。
いつもは穏やかな笑顔を浮かべていたばかりだから余計に。
自分は一体どうすべきなのだろう。どうしたらいいのだろう。