5-14
健を追いかけていたらしいレオンが部屋に戻ってきた。その表情を見る限り大した成果は得られなかったようだ。上手いこと、はぐらかされたのだろう。
レオンが彼を追いかけた理由はおおよそ見当がつく。
健が海里を助けた理由。その答えを海里は知っている。他でもない、健自身から聞いたから。
――海里さんは代替物なんです。
淡々とした声音が紡いだ答え。いつものはぐらかしでもなく、嘘でもないのだと無機質な瞳に隠された感情が語っていた。
誰の。何の
答えを聞いたとき、そんな疑問が脳裏を過った。今なら分かる。
自分は、武藤海里は、岡山健という存在の代替物なのだ。星司の意識が健に向くことを避けるための。
健の行動はいつだって正解だ。海里よりも遥かに多くのことを知っている彼の選択に間違いはない。健の選ぶ策はいつも最善策なのだ。
それを分かっていても、海里には間違っているような気がしてならない。春野家で療養していた短い時間の中で、彼の内心を覗き見たせいだ。無表情の中に隠され、今まで気付かなかった人間らしさのせいだ。
「――神生ゲームは本当に勝った人の願いを叶えてくれるんでしょうか」
零れた問いかけは投石で、静かに波紋を広げていく。
訝しげなレオンの視線を受ける海里の瞳は、おそらくこの中で最も神生ゲームに精通しているであろう人物へ向けられている。和幸だ。
健は下らないと言った。妖華は神生ゲームの本当の意味を知っているのだろうと言っていた。
知れば、下らないと称したくなるような神生ゲームの本当の意味。
二人は揃って口を噤む。大切なものを守るために口を噤む。
「俺はその質問の答えは持っていない」
最も神生ゲームに精通しているであろう人物――和幸は誤魔化しなどない真摯な眼差しで答える。
確かに和幸は海里よりも神生ゲームの深いところを知っている。けれども、海里の質問を答えられるところまでには至っていない。
健は神生ゲームのことになるとあまり語りたがらなくなる。あれも詳しいことを教えてくれはしなかった。
当事者に近いところにいながら、和幸は何も知らないままで生きてきたのだ。それはきっと海里も同じで、知りたいと思う彼の気持ちは分かるし、協力したいという思いもある。ただ和幸の知識は足らず、立場が思いを遂げることを邪魔する。
「代わりというわけじゃないが、百鬼を貸そう。聞きたいことがあれば聞くといい。――百鬼」
呼応するように姿を現すのは少女だ。月白色のツインテールの結び目から二本の角が生えている。大きく丸い瞳は真紅で、人懐っこさと怪しげな雰囲気を顕在させている。
紅鬼衆の一人、百鬼だ。藤咲邸に入り浸っていることの多い彼女は、海里たちにとってもっとも親しみのある鬼である。
百鬼に海里たちの相手を任せ、和幸は執務机に向かって仕事を再開させる。
「大したことは答えられないわよ」
九人もいる紅鬼衆の中でも、百鬼が得ている知識は少ない。知識量でいえばレオンと大差なく、違いは妖界側の知識か、貴族街側の知識の違いだけだ。
和幸が百鬼を選んだのはそれが理由であり、海里たちと親しいからであった。
「私たち、紅鬼衆の主、鬼神様は――」
「紅鬼衆の主って王様じゃないのか?」
こちらの話に耳を傾けながら書類仕事に勤しむ和幸を横目に星司が尋ねる。
星司は今まで和幸が主なのだと思っていたし、百鬼だってそう口にしていた。けれども、今は鬼神が主だと言っている。
「それも間違いじゃないわ。私たちの本当の主は鬼神様。幸は、仮初の主ってところかしら」
鬼神は遥か昔に肉体を失い、宿主を介さなければこの世に干渉できない状態にある。鬼神をその身に宿した人物は、大半の時間を眠って過ごしている鬼神の代わりとなる。
「つーことは王様が鬼神の宿主、なのか」
「いつの頃からか、春野家当主が私たちの主になるしきたりが生まれたの。だから、一概には言えないわよ? 私たちが認めさえすれば、鬼神様の宿主じゃなくても主になれるの」
相応しくない相手に仕えるというのは、紅鬼衆そして主である鬼神の品格を陥れる。一人一人が主となる人物を見極め、全員のお眼鏡にかなって初めて紅鬼衆の主と名乗れるようになるのだ。
ちなみに、春野家当主が主になるというしきたりは、鬼神の宿主が春野家当主になるという慣習から生まれたものだ。宿主がいない間、鬼たちと手綱を握るために生まれたしきたりとも言っていいかもしれない。
「宿主が誰なのかは答えないわよ。主の身を守るのは私の義務だもの」
レオンや海里が妖姫の宿主に関わる情報を秘匿するように、百鬼にだって主を危険に晒す情報には口を噤む。当然のことだ。
「ともかく、話を戻すわよ」と百鬼は支障のない程度に鬼神についての情報を話し出す。
鬼神。万物を操る力を持つ出来損ないの神。
その瞳は血に汚れたような紅であり、彼を象徴する色でもある。
「私たちも、鬼神様の力を使っているときは瞳が紅くなるわ」
言われて星司は、戦闘中の百鬼の瞳が紅く輝いていたことを思い出す。今は畏れを感じさせるような光は宿していない。
「俺の竹刀が紅く光ってたのもそういう理由か」
「鬼神様の加護を受けてたならそうね」
詳しい状況を知らない百鬼は曖昧ながらにも肯定する。
「なあ、眷属ってのはどうやったらなれるんだ?」
加護については以前レオンから聞いたことがある。
曰く、神本人もしくは宿主の意思によって授けられるものだと。
「本人の意思と、神か宿主の意思があればなれるわよ」
「――意思」
「そう、意思よ。眷属になったら今までの自分を捨てることになる。その覚悟とも言えるわね」
眷属になったことで、百鬼は風の生成以外の術を使うことができなくなった。神でもない存在が、神の力を永久的に授かるにはそれだけの代償が必要になる。
「眷属になりたいなら止めはしないわよ」
「……いや、聞いてみただけだ」
ただの興味本位。眷属になる覚悟なんて星司にはない。
スクルとの戦闘の時に聞こえてきた声。破壊を求めるあの声を思い出し、身震いする。
その時に聞こえたもう一つの声がなければ、星司は完全に我を忘れていた。聞いたことのない感情を含ませた、聞き覚えのある声に救われたのだ。
「もう一つ、聞きたいことがあることがあるんだけど……」
「なに?」
迷いながらも口にした星司に向けられる丸っこい真紅の瞳。
星司が貰った指輪は鬼神の加護を受けていた。ならば――。
「鬼神の加護を受けた指輪を使った時、声が聞こえたんだ。全てを壊せって声が……。なんか、心当たりあるか?」
「それは、星司自身の声ね」
「俺の……」
つまり星司自身が破壊を求めていたということなのか。自覚のない破壊衝動を指摘された気分で、掌を見つめる。
表情から星司の考えを読み取った百鬼は少し慌てたように「違うわ」と否定を口にする。
「言葉が足りなかったわね。神の力を使うには代償が必要だって言ったでしょ。鬼神様と相性が強ければ、より強い力が与えられる。その分、代償も強くなるの」
「あの声は力の代償だったってことか……?」
「そう。鬼神様の力を与えられた者には多かれ少なかれ破壊衝動が与えられるのよ。……星司は相性がよかったのね」
どこか複雑そうな表情を見せた百鬼は己の主へ視線を向ける。
仕事に勤しんでいたはずの和幸の手が止まっている。百鬼同様に思うところがあったらしい和幸は何事を考え込んでいるかのようで、言葉に迷う百鬼はそのまま口を閉じる。
和幸と百鬼の反応を見た海里は知りたかったことの革新に触れ、「やっぱり」と小さく呟いた。
「――お前は神生ゲームに勝とうと思っているのか?」
小さな呟きを聞きとがめた流紀が問いかける。藍白色の瞳には鋭さを宿して、隻眼を射抜くべく見つめている。
「いいえ。俺には神生ゲームに叶えてもらいたい夢はありません」
叶えたい願いは、自分の力で叶える。以前、星司に向かって宣言した言葉は今も揺るぎない。
言葉を続ける前に和幸の方を見やる。仕事を再開している和幸が海里の視線に気付いたのか分からない。
「……でも、俺は神生ゲームで願いを叶えようとしている人を知っています」
神生ゲームに勝って願いを叶えるというよりは、勝つことが願いを叶えることのように彼は言っていたけれど。
「そいつを止めたいのか?」
「俺は知りたいだけです。彼が何を為そうとしているのか知りたい。知ってどうするのか、今の俺には分かりません」
間違っている。彼と対峙して直感的にそう感じたものの、何も知らない海里に言えることもできるもない。まずはちゃんと知って、彼と対等な位置に立つところから。
真摯な言葉と表情を受け、流紀はふっと顔を弛緩させる。
「すまない。神生ゲームにはいろいろと思うところがあってな。中途半端な気持ちで手出ししてほしくなかったんだ」
「気にしてないので大丈夫ですよ」
隠しきれない哀切を含んだ表情を海里はよく知っている。自分の父について語る時、妖華や和幸が見せるものと同じ。
奪われた者の顔だ。きっと彼女は神生ゲームに大切なものを奪われたのだ。
海里はまだ神生ゲームの一端しか知らない。健が下らないと言った理由も、流紀がそんな表情をする理由も知らない。
――だから、少しずつ知っていこうと思う。
神生ゲームについての質問会も終わり、海里たちは揃って帰路についた。執務室に訪れる静寂は馴染み深いものだ。ようやく静かに仕事を進められると思ったのも束の間、窓が開けられる。
当然のように窓から侵入する影がある。サイズの合わない服に身を包んだ小柄な影。ほんの少し前に部屋を出ていったはずの人物は、何喰わぬ顔で応接用のソファに腰掛ける。
「なんだ、戻ってきたのか。星司たちは帰ったぞ」
「知ってる」
素っ気ない返答に息を吐き、わずかに不機嫌そうな面持ちに苦笑する。
といっても、幼い顔は相も変わらずの無表情で、親しい者にしか分からない程度の変化だ。健のことは、幼少期から一番近いところで見守ってきた和幸には手に取るように分かる。
「お前、加護を施した道具を星司に渡したんだってな」
「……少し、計算外だったんです。あそこまで相性がいーとは思いませんでした」
「大事にいたらなかったなら、俺から言うことはないが……」
「俺は助かりますけど、少し甘いんじゃないですか。監視役がそんなんでいーんですか」
半眼で問うてくる健に「いいんだよ」と投げやりに返す。監視役なんて名ばかりだ。
和幸はこれ以上、健を縛り付ける気はない。許されている範囲で行動するくらいならば、とかやく言う必要もないのだ。完全な黒でないなら問題はない。
「まさか、反対するとは思いませんけど、――許可はとっておきます」
桜から受け取った腕輪をいじる健は遠くを見るように目を細める。その視線の先にあるのはおそらく――史源町。
5章はこれで終幕です