5-11
和幸たちが席を外し、二人きりとなった部屋に沈黙が流れている。陰鬼もいるので、正確にいうと二人きりではないのがが、今は些末なことだ。
短くなった髪に落ち着かない気分の海里は、何気なく健の方へ視線を向ける。
何か考え事をしているらしい健。幼い顔立ちには似合わない難しい表情が浮かべられている。
和幸と父、海斗の昔話を聞いてからずっとあの調子だ。
健は海里の知らないことを知っている。健には海里に見えないものが見えている。
知らないでいたことを知れば、少しは彼の見ているものを共有できるのだろうか。
「――健君」
思案げな表情を消し去った顔が向けられる。無機質と称されることの多い漆黒の瞳。
「ありがとう」
「なんのことですか」
「こんなに早く傷が治ったのは健君のお陰だよ。思ってたより早く復帰できそうだ」
全治半年との話だったが、一か月足らずでこうして起きていられるまでとなった。傷もほとんど塞がり、少し身体が怠いことを除けば概ねいつも通りだ。そろそろリハビリがてらに鍛錬を始めてもいいかもしれない。
「半妖の回復力を見誤っただけです。特別なことは何もしてませんよ」
感謝の言葉の裏に隠されていた問いかけを気付いた健の答え。
好意にケチをつけるつもりはない。単純に、健が計算を誤るとは思えなかったからこその問いかけだった。
答える健の表情は相変わらずの無表情で、本当か嘘か判別はつかない。
それでも――。
「――信じるよ」
真っ直ぐに向けられる隻眼にむず痒さを感じる。逃げるように視線を背ける。
健がここまであからさまな態度を出すのは珍しい。
「海里さんのそういうところ嫌いです」
不貞腐れるような口調。
刹那に感じた殺気はおそらくカイのものだろう。彼は、海里が悪く言われることを良しとしない。
当の本人は隻眼を大きく見開いたのちに、ゆるゆるといつもの笑顔を浮かべてみせる。
嘘でも、冗談でもない。それを理解していても海里は揺らがない。
「健君がそんなこと言うなんて珍しいね」
健という人間は、感情的な意見を言うことを極力避ける傾向にある。
本音か嘘か分からないように言葉を紡ぎ、真意を簡単に読み取らせはしないように常に気を遣っている。こうして真っ直ぐに、感情的に、言葉を紡ぐことは本当に珍しい。
怒ることも、嘆くこともしない海里は珍しい健の姿にただ驚くばかりである。
「もー少し動揺してくれてもいーんですけど」
「動揺するようなことはないからね。驚きはしたけど……それだけだよ」
まるで意に介していない態度の海里に息を吐く健。
理由を問い質すことはしない。だからといって健に関心がないというわけでもないのだ。
健の言葉を受け入れ、それでも構わないと己の中で消化させる。どこか楽しげに見える表情に何とも言えない感情が沸き起こる。
「この部屋は凄いね。いつもと違う健君ばかり見てる気がする」
「……そーですか」
自覚はないものの、この部屋にいると緩んでしまう自分がいるのも確かだ。
岡山邸にある自室よりも、この部屋にいることの方が圧倒的に多い。もはや、この部屋が自宅だと言っていいくらいだ。
――なにより、この部屋は健にとって“はじまり”の場所なのだ。
脳裏に刻まれたあの日の光景を瞬き一つで追いやり、健は口を開く。
「そろそろ鍛錬を始めてもいーかもしれませんね」
「健君が相手してくれるの?」
「まさか。俺じゃ、海里さんの相手にはなりませんよ」
これは謙遜ではなく、単なる事実だ。
まず筋肉量が違う。華奢に見える身体つきのようで、必要な筋肉がしっかりとついているのは日々の鍛錬のお陰だ。一か月近くさぼっている状態でも、積み重ねた十数年は簡単には消えない。
対する健は見た目通りの筋肉量だ。同年代の、運動部に所属している者たちのも劣る。
半分とはいえ妖の血が混じっているだけあって、海里は身体能力も高い。戦闘時に身体強化の術をかけているのは相手が妖だからだ。人間相手では術がなくても、十分に事足りる。
リハビリも兼ねた鍛錬は、紅鬼衆の誰かに相手してもらうつもりだ。当然、主の許可もとってある。
「俺が相手できるとしたら術の鍛錬とかですかね。海里さんには必要ないと思いますけど」
「そんなことはないよ。健君が相手なら尚更」
実のところ、海里は健が戦っているところを見たことがない。処刑部隊の任務中、顔を合わせたことは何度かあったものの、いつも彼は見物をするか、遠回しなサポートをするかのどちらかだった。
それでも、健が術が長けた人間であることは知っている。妖華の術を妨害できるほどに。
「そういえば星司に霊力の使い方教えたんだったよね。驚いたよ。短い時間であそこまで上達するなんて思ってなかったから」
「俺も形になってくれて安心してます。兄さんの才能に助けられました」
煙に巻くような笑顔で、謙遜を口にする健。
星司には才能があった。それは確かだ。けれど、それだけではないのは海里にも分かる。
「少し意外だったな。健君は星司がこちら側に来るのは反対していると思ってたから」
「反対はしていませんよ。兄さんの意思を俺が否定するなんて筋違いじゃないですか。兄さんがそうしたいと思ったならそうすればいい。……今回は王様に言われたってのもありますし」
もし、星司の意思が誰かに仕組まれたものだとしたら、別の行動をとっていたかもしれない。
そんなことを考え、すぐに否定する。
星司が戦い方を覚えるのは好ましいことだ。たとえ誰かの思惑の上にあったとしても、星司の意思がそちらに向いている限り、同じ行動をしていただろう。
「健君は星司に強くなってもらいたいの?」
「弱いよりはいいんじゃないですか」
やはり煙に巻くような言葉を選ぶ健である。
蜜柑の木が春ヶ峰学園を襲った際、和心はある人物から「手を出すな」と言われていたらしい。いい経験になるから、と。件の人物は和心に言っていたという。
ずっと考えていた。一体、誰がそんなことを言ったのだろう。
無関係な人間がわざわざそんなことを言うとは思えない。そして、海里の知人の中で最も可能性が高いのは健だ。
「……神生ゲームが関係しているのか」
問いかけとは違う海里の言葉に、健の表情がわずかに変わる。親しい者にしか分からない微細な変化だ。
静けさを保っていた空気が一瞬だけ震えたように思えた。
「俺、一度だけ海斗さんの写真を見たことあるんですよね」
無表情の中に刹那の激しさを見せた健が唐突な話題を切り出す。取り繕うような物言い。
これ以上、今の話題に触れてほしくないのだと悟った海里は微笑みとともに相槌を打つ。
「本当、よく似てますよね。海斗さんが綺麗系で、海里さんは可愛い系って感じではありますけど」
「健君……?」
不穏な気配を感じた海里の笑顔に険しいものが滲む。対する健は悪戯めいた笑顔をしている。
今までのらしくない姿を払拭するような、健らしい表情だ。
「安心してください。俺にも……ついでに王様にも女装経験はありますから。まー、趣味でやってるのは王様だけですけどね」
「何の話してるんだ、お前ら。というか、俺がいつ趣味で女装したと?」
「あれ、違うんですか?」
環との話を終えて戻ってきた和幸は飛び火した話題に目を眇めて返す。
上手いこと話題をすり替えられた。タイミングを完全に逃した海里は、健にこれ以上追及することを諦める。
後で聞いても結果は変わらない。今のように話を変えられるのがオチだ。
健に話す気がないのなら別の糸口を探すだけ。
鍵は、神生ゲーム。それだけ分かっていれば十分だ。
海里の心中に渦巻く思惑に気付いているのか、いないのか。和幸との他愛もない会話を続ける健の表情からは分からなかった。