5-9
武藤家には百年に一度のペースで奇跡の子と呼ばれる者が生まれる。
一族に繁栄をもたらすと言われる奇跡の子は、決まって強い霊力と美しい藍色の髪を有していた。
幸か不幸か、奇跡の子として生まれた海斗は衰退の一途を辿っていた武藤家にとって救世主のような存在であった。すぐに両親から引き離され、隔離され、祀るように育てられた。
誰もが海斗を敬い、尊び、悪しきものから遠ざけて大切に、大切に。
妖を寄せ付けやすい体質だった海斗を守るため、武藤家では妖退治屋が雇われた。高額な報酬に飛びついた者は少なくなく、たくさん集まった妖退治屋の中に一人の女性がいた。
ある事件をきっかけに表舞台から姿を消した妖退治屋。なんの気紛れか、彼女は無報酬で海斗の護衛を引き受けた。
冷たさを宿した黒曜石の瞳は奥底を見抜く。
「勿体ないですね。それだけの霊力を持っていながら守られるだけなんて」
初対面の海斗にそう言ってのけた彼女は続くようにこうとも言った。
「貴方にその気があるのならば、私が戦う術を教えましょう」
海斗自身を見てくれる人間は初めてて、冷えきった瞳に滲む優しさを新鮮に思った。
常に誰かが近くにいる状況にうんざりしていたこともあって、海斗は快く彼女の提案を受け入れた。
――そして、武藤海斗は藤咲桜の弟子となったのだ。
術者としての海斗の実力は凄まじいもので、一か月も経たずに桜に並ぶほどの実力を身につけた。他の妖退治屋など寄せ付けない力を得た海斗へ、あるものを渡したのを最後に桜は武藤家を去っていった。聞いたところによると、元の引き籠り生活に戻ったらしい。
あるもの――それは、龍刀と呼ばれる妖具だ。武藤家の祖先が作ったと言われる刀。自分が持っているよりも、海斗が持っている方が相応しいと思ったのだろう。
なにせ、桜に龍刀は扱えないのだから。
環と海斗が出会ったのは、桜の弟子になる少し前。
飼い主であった男を失い、行き場を失って彷徨っていた環に海斗が声をかけたのが最初だった。唸られても、爪でかぐられても構わず笑う海斗の姿に、閉ざされた心は少しずつ開いていく。
気付けば、海斗は環の一番大切な存在になった。誰よりも、何よりも大切な存在。
今日にいたるまで、海斗は様々な妖と知り合い、様々な妖と親しくなっていった。海斗との周りにいるのは、いつも妖ばかり――。
「海斗を人間にしてほしい」
「急にそんなこと言われてもな……。大体、何をしたらあいつを人間にできると言うんだ?」
環自身にも方法までは分からないようで、困ったように眉根を寄せる。
頼んだ本人自身が分からないものを、和幸がどうこうできるとは思わない。元より話を聞くだけのつもりだった。
ただ同じ寮に住み、同じ学校に通っているだけの仲でしかない海斗に、何かしてやるような義理はない。
「ぁ」
漏れ聞こえた微かな声に目を向け、ぎょっとする。
半瞬、目を逸らした隙に灰色の瞳から滂沱と涙が溢れ出している。
女性を泣かせることは本意ではない和幸は戸惑い、かけるべき言葉を探す。と、誰かの足音が耳に届いた。
やけに慌てた足音は間違えようもない、由菜のものだ。
「幸様! ……環さんもいたんですね、ちょうどいい」
二人の姿を認めた由菜は乱れた呼吸を整える。髪も、服もかなり乱れており、焦って来たことは一目瞭然だ。
彼女がここまで焦った表情を見せるのは珍しく、不穏な気配を読み取って由菜を見る。
「……海斗様が倒れました。今は幸様の部屋で眠っていただいています」
「別に海斗の部屋でもいいだろ。なんで、俺の部屋なんだ?」
「不法侵入するわけにはいかないじゃないですか」
由菜の言っていることは正しい。正しいのだが、釈然としないのは何故だろうか。
ともあれ、気にしても仕方ないので本題に入るように促す。こくりと頷き、口を開こうとした由菜に詰め寄る人物がいる。環だ。
頬にはまだ鮮明に涙の跡が残っており、瞳は充血している。
「海斗は……海斗は無事?」
「大丈夫といくら言っても安心できないでしょうし、部屋に行きましょうか」
掴みかからんばかりに詰め寄る環を安心させるように笑み、由菜は手を差し出した。その時、全身に怖気が走った。
禍々しい妖気を感じ取った環が怒りの表情を見せる。全身から鋭い殺気を放ちながら、「海斗に呪いをかけた奴のだ」と一人駆け出していく。
「呪い? 何の話だ?」
「詳しい話は後でします。とりあえず、今は環さんを追いかけましょう」
妖の脚力は相当なもので、すでに環の姿は見えなくなっている。おそらく妖気の出所に向かったと思われる環を放ってはおけず、由菜とともに後を追う。
二人がようやく追いついた頃、環は驚きで目を丸くして黒き妖と対峙する人物を見つめていた。
「……海斗」
奇跡の子と呼ばれる所以たる藍色の髪を短く切り揃えた、温和な雰囲気を纏う青年。つい数分前に倒れたと聞いたはずの人物だ。
対するのは黒衣を纏った僧のような妖だ。その手には黒に染まった錫杖が握られている。光の映らない澱んだ目は一度、外野の和幸たちに向けられるものの、すぐに愉快げに海斗を射止める。
「お前を捧げれば、オンモ様の復活も早まることだろう」
「申し訳ありませんが、私には私の役目がある。そう簡単にやられるわけにはいかないんです」
和幸たちの存在に気付いていないらしい海斗が龍刀を召喚する。銀色に輝く刀を構え、黒い僧に斬りかかる。
刀と黒い錫杖がぶつかり合う音。倒れたという話が嘘だったと思うほどの立ち回りを見せる海斗を姿を見た和幸は、武藤家は武道に秀でた家柄だったなと何となしに考える。
精錬された動きは妖との身体能力の差を簡単に埋めてみせ、錫杖を弾く。と、海斗の身体が揺らいだように見えた。
咄嗟に手を差し出した和幸を嘲笑うように、海斗はすぐに持ち直してみせる。
「! みなさんも来ていたんですか」
ようやく和幸たちの存在に気付いた海斗は軽く目を見張る。
すぐにいつもの穏やかな笑みに戻った顔の半分が黒い痣に侵食されている。これが環の言っていた呪いなのだろうか。
「……大丈夫なのか? 倒れたと聞いたが」
「心配させてしまったようですみません。もうすっかりだいじょ……っ、ごほっごほっ」
口元を押さえる手の隙間をぬって、血が混じった黒い霧が散る。
舞う飛沫から目を離せないでいる和幸に、男一人分の重量がかかる。海斗がもたれかかってきたのだ。
咳を一つするだけでも億劫らしい海斗は和幸の腕の中で、苦しげに呼吸を繰り返している。
「海斗は休んでて」
海斗の苦しみが伝わっているかのように顔をしかめた環は、黒に染まった海斗の頬を優しく撫でる。
「わた、しは……っだいじょ、ぶ…で、す」
「懲りない人ですね。あの妖は私と環さんが相手しますので、お二人は大人しく談笑でもしていてください」
「いや、俺は……」
万全である和幸が反論しようとすれば、満面の笑みを向けられる。有無を言わさぬ由菜の笑みに静かに口を噤んだ。
「私の役目は幸様を守ることです。でしゃばって私の仕事を増やさないでください」
笑みに含まれた怒りを余すところなく読み取り、和幸は大人しく従うことを選ぶ。
怒った由菜に逆らっていいことはないと経験からよく知っている。素直に頷いた和幸に満足した由菜は、環と並んで黒い僧と対峙する。
「っ……由菜さんって意外と怖い方なんですね」
「……まあな」
呼吸もだいぶ落ち着いてきたらしい海斗が離れたことで、身体が軽くなった。
一生かかっても由菜には敵わない。
生まれてから共にいる彼女に対して和幸が出した結論がそれである。
物心つく前から由菜はずっと由菜だった。今の由菜として完成していた彼女は常に一歩先にいて、それでもずっと和幸の隣を歩いてくれているのだ。
「由菜さんに言われました。私には執着心がないと。だから死を恐れていないと。……その通りなんですよね」
海斗にはこだわりがない。執着心がない。
雨風がしのげれば住処なんてどこでもいいし、腹が満たされればどんなに不味いものでも構わない。趣味もなければ、人や物に固執することもない。
生きていたいとも思わないし、だからといって死にたいと思わない。ただ死んでいないから、生きているだけ。
「私はあるものをあるがままに受け入れてきました。足掻いても無駄な労力を消費するだけですから」
こうして、和幸に自分語りをしていることすらもあるがままだ。ただ受け入れてしまえばいい。
「私の“じんせい”が何のためにあるのか。そんなのはずっと前から決まっていることです。私にできるのは、示された一本道をただ歩くことだけ」
「それは……お前が勝手に決めつけているだけなんじゃないのか」
思わず零れた和幸の言葉に、海斗は目を見張る。
その時、和幸は初めて人間らしい海斗の姿を見た気がした。
浮世離れしている海斗は、隣にいてもどこか遠くにいるような気がしていた。目の前にいる海斗は神でも聖人君子でもなく、人間なのだと少しだけ安心した。
「自分の人生が何のためにあるか。それを決めるのはお前自身だろ。足掻くのは無駄? そんなの、やってみないと分からない。周りを言い訳にして諦めるのはただの傲慢だ」
「……そう、ですね」
へにゃっと海斗が笑う。
いつもの浮世離れした穏やかな笑みとは違う、年相応の子供っぽい笑顔だ。
「いくら面倒だからって周りを言い訳にするのはよくありませんね」
「ん? ちょっと待て。面倒だからって……」
予想の斜め上をいく海斗の返答に戸惑いを隠せないでいる。
てっきり、もっと深い何かがあるのだと思い込んでいたのである。
「ええと、環がお前を人間にしてほしいと言っていたのは――」
「タマがそんなことを言っていたんですか」
頭の中を整理するために口にした言葉に海斗が食いつく。
今更誤魔化すこともできず、ほんの十数分ほど前の出来事を海斗に語る。訥々と語る和幸の言葉を彼は黙って聞いている。
「自分じゃ、お前を人間できない。環はそう言っていた」
「そうですか……。私自身、気にしていませんでしたけど、タマがそんなことを」
一人で納得したような素振りを見せている環の様子を窺うが、説明してくれる気はないようだ。
利用は例によって面倒だからという奴だろうか。
十分にも満たない時間の中で、海斗という人間が分かってきた和幸である。
「その、痣みたいなのは何なんだ?」
「素直に呪いと答えた方がいいんでしょうか。それとも、貴方の望む答えを言うべきですか?」
問いの意図を正確に読み取った海斗は、和幸の反応を見ないまま話を続ける。
「呪いを受けたのは、あの妖を倒すために最も効率的だと判断したからです。みなさんに迷惑をかけてしまったことは謝罪します」
「自分が死ぬことは考えなかったのか」
「死ぬようなことがあれば、そういう運命だったというだけです。私には天に抗う力はありませんから。……でも」
続けられた言葉は風にさらわれ、和幸には届かない。
怪訝そうな顔を見せる和幸を薄く笑った海斗は「さて」と由菜たちの方へ目を向ける。
「そろそろ終わったようですね」
その言葉を肯定するように、黒に染まっていた顔が徐々に元の色を取り戻していく。と同時に身体が傾いた。
「海斗!!」
海斗は自分を呼ぶ誰かを安心させるように、穏やかで温かな笑顔を浮かべてみせた。