5-8
一週間ほど経ったものの、和幸と海斗の関係は今までと変わりない。
必要なときだけ関わり、そうでないときはお互いに干渉しないを貫いている。必要以上に踏み込まないことを互い望む関係性は心地よいものだ。
「さすがに作戦を改めた方がいいかもしれませんね」
壁に肩を預けた海斗は肺が空になるほど息を吐き出す。
周りには誰もおらず、自然の音だけが響く静寂は今の海里にとって心地のいいものだ。
あれから痣は順調に面積を広げ、海斗の身体を蝕んでいる。立っているだけでもかなりの体力を消耗し、気を抜けば意識を手放してしまいそうだ。
自分の呼吸音が調和のとれた自然の音を乱す不協和音のようで、ひどく耳障りだ。
「…っ、はあ……さて、どうしましょうかね……」
込み上げる咳を何とか堪え、大きな呼吸を繰り返す。
目印である痣を利用し、呪いの主をおびき出すつもりだった。痣が生気を吸い尽くし、海斗が弱れば必ず姿を現すと思っていた。
が、いっこうに現れる気配なく、海斗の限界も近い。とはいえ、他に案が思い浮かばないのも事実だ。
ため息を吐き、目を瞑る。
このまま眠ってしまいたい。いっそ、眠ってしまおうか。
思えば、呪いの主をわざわざおびき出す必要など、どこにあるのだろうか。痣は伝染することものではない。
ただ海斗の命を食い潰すだけ。抗う理由など、今の海斗は持っていない。
このまま終わり。それもいいかもしれない。
と、誰かが土を踏みしめる音が、新たに自然の音の調和を乱した。
「海斗様」
由菜の声が耳朶を叩く。
目を開けば、やはり由菜が立っている。
いつもの天真爛漫な雰囲気を打って変わって、冷たく鋭い空気を纏っている。真逆の空気感がやけに様になっている。
氷のような瞳は、怒りをもって海斗を見つめていた。
「お話したいことがあります」
有無を言わせない言葉に、海斗は首を縦に振る。
病人に無理をさせるのは由菜も本意ではなく、汚れないように地面を払ってから海斗に座るように促す。
やはり有無を言わせない由菜に、強がりを言う間もなく海斗は腰を下ろした。
「その呪いは誰にかけられたものですか」
「由菜さんが気にするようなことはありませんよ。心配をかけてしまったのなら、謝ります」
「心配はしていません」
感情が全て抜け落ちた、淡々とした口調。まるで機械のようだ。
凍りついた漆黒の瞳は、冷淡なまでに冷淡に海斗を値踏みする。
それなりに親しくしていた人物の変わりようを見ても、驚くことはない。痣に身体を蝕まれていても、変わらず浮かべられるのは穏やかな笑顔だ。
癖と言い切るには憚られる何かがあるような気がする。
「海斗様は死を恐れていないんですね」
言いながら、由菜は否定を口にする。
違う。海斗は死を恐れていない。それは確かだ。しかし、彼を表すにはどうにも不十分だ。
もっと彼を適切に表す言葉は――。
思案する由菜を穏やかに見つめる瞳。
額に、頬に汗を滲んでおり、先程から聞こえる呼吸音は浅く速い。傍から見ているだけでも、その苦痛が伝わってくる。
彼は、どうして穏やかな表情を貫いていられるのだろう。
思えば、この武藤海斗という人間が表情が崩したことを見たことがない。
怒りも、悲しみも、苦しみも、果ては喜びさえも内包してしまう穏やかさ。それは全てを放棄しているようにも見える。
(……そうか)
ずっと海斗に抱いていた違和感の答えにようやく辿り着いた。
武藤海斗は死を恐れていない。
それは、あくまで過程にすぎない。ただの要素にすぎない。
「海斗様、貴方には執着心がないんですね。自分の生に執着をしていない。……だから、死を恐れない」
元々、海斗に執着心が薄いのは感じていた。
和幸曰く、海斗の部屋は入寮時のままらしく、彼の私物はほとんど置かれていないという。食事もお腹を満たせればいいという感じで、味にも栄養にも頓着していないようだった。
環のことを大切にしているのは普段の態度から伝わってくる。が、それまでだ。
仮に、環が海斗の許を去ることになったとしても、彼が引き止めることはない。
「海斗様に話すつもりがないのなら構いません。私は私で勝手に動くだけですので」
「何故……っ…そこまで、するんですか」
「簡単な話ですよ? 貴方という人間は幸様のために必要だからです。ここで死んでもらうわけにはいきません。幸様を悲しませるようなこと、私が許しません」
言いながら、海斗の身体に触れる。
ふっと僅かに軽くなった身体に目を見張る海斗に笑い、スカートを翻す。
「今日はこれで。環さんに心配かけたらいけませんよ」
普段の爛漫さを取り戻した由菜は、満面の笑みで手を振り、別れを告げる。
そのまま歩を進める由菜は後ろ髪引かれる思いで振り返る。
「! 海斗様……!」
ゆっくりと傾いていく海斗の身体にそっと手を伸ばす。
●●●
いつものように森の中へ足を踏み入れた和幸は、自分を待ち構える少女の姿に目を丸くする。
甘味処の制服を彷彿とさせる衣装に身を包んだ白髪の女性。灰色の瞳は険しさを持って、和幸を見つめている。
ぴくりとも動かない表情は、常に笑顔を浮かべている海斗といい勝負するくらいに読めない。
「お前は……海斗と似ていないな」
それはそうだろうと心中で呟く。
人と関わることを避け、一人でいることを好む辺りは確かに似ている。が、和幸と海斗はまったく別種の人間だ。
育った環境が違う。生きてきた世界が違う。
「初めて見たときは似ていると思った。けど違う。海斗とお前は違う。でも……だから」
鋭さを持った猫目が和幸を見抜く。
「お前に頼みがある」
「……頼み?」
首肯する環は懇願するように和幸を見つめている。
「海斗を助けてほしい。タマじゃ、海斗を人間にすることはできない」
「お前は妖だろ。なんで、そこまであいつに肩入れするんだ?」
環が妖であることは、彼女が纏う妖気で気付いていた。なにせ、駄々洩れなのだから。
隠す気はないので、環も気付かれていることを知っていた。だから驚くこともなく、変わらずの無表情だ。
「理由なんて必要ない。タマは海斗のことが大好きだから……助けたい、守りたいって思うんだ」
灰色の猫目に宿る強い意志が和幸の心を揺さぶる。
何故、そんな必死になれるのか。そんな瞳ができるのか。
感情のままに動くなんて馬鹿げている。理性に従ってばかりいる和幸には到底理解できないことだ。
分からない。感情的なんて分からない。分からない。分からない。興味ない。海斗がどうなろうと和幸の知ったことではない。分からない。どうでもいい。関係ない。
――ご友人は大切にしてください。
ここで間髪入れず、思い出されるのは由菜の言葉だ。
本当に、彼女は嫌なタイミングで見計らったように現れる。
「何で、俺なんだ?」
声は震えていた。
「お前と海斗が同じだから」
似ていないと言いながら、今度は同じと来たか。矛盾もいいところだ。
それでも、彼女の言葉に含まれた真意を理解できるのは、環の言う通り同じだからなのだろう。
和幸の身の内に潜む存在が主張するように胸が疼いた。
「お前に聞いてほしい。……海斗のこと」
「……分かった。聞くだけ聞いてやる」
そう言って了承したのは、少しだけ興味があったからで、由菜にあんなことを言われたからで。
多分、今日の自分はおかしいのだ。だかららしくなく、他人の内情に踏み込む気になったのだ。
それが自分の“じんせい”を変えるきっかけになるとも知らずに。