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和幸と海斗パパの過去編の始まり始まり~
春野家に滞在して一か月近い期間が経ち、海里は無理せずとも起きられるようになった。
傷はだいぶ塞がったものの、侵食した邪気が未だ身体を蝕んでおり、本調子とはほど遠い。
邪気は負の感情を呼び寄せる。海里の胸の内には、理由の分からない黒い感情が今も疼いている。堪らなくなって、叫びそうになる心を必死に抑え込んで、海里は今日も笑うのだ。
「もったいないですね、綺麗なのに」
床に散らばった藍色の髪を見て、呟いたの健だ。
部屋の中では、鋏が髪を切る規則正しい音が響いている。
今、海里は和幸に背を向ける形で座っている。和幸には鋏が握られており、オンモとの戦闘で無残に切られた藍髪を切り揃えているのだ。
腰の辺りまであった髪は、すでに胸の辺りまで切られている。物心ついたときからずっと長いままだったので、少しだけ落ち着かない。
「海里さんって、なんで髪伸ばしてるんですか?」
「んー、なんとなく、かな。……父さんへの憧れがあったのかもしれない」
自分が生まれた一年後に亡くなったという父について、海里が知っているのは妖華に見せてもらった写真だけだ。
生まれたばかりの赤子を抱いた両親の写真。
妖華の隣に立つ藍髪の男性は息子を抱き、穏やかに微笑んでいた。
言葉を交わしたことのない父への憧れ。真似るように髪を伸ばし始めたのは写真を見てすぐのことだ。
「へぇ。海里さんのお父さん、ですか。確か、王様と友達だったんですよね」
「まあな」と素っ気なく答える和幸の顔を覗き込む健に嫌な予感がよぎる。
「王様ってどんな学生だったんですか」
面白がっていると明らかに分かる表情で尋ねる健に目をすがめる。
やはり、そう来たか。
適当にあしらおうと口を開いた和幸は海里と目が合い、瞬きをする。
そういえば、海里は自身の父親について何も知らないのだ。ここで話しているのもいいかもしれない。
「少しだけだぞ」
海里の髪を切り終えた和幸はそんな前置きとともに語り出す。
それは二十年以上も前、和幸が桜稟アカデミーに入学した頃の話だ。
〇〇〇
海里の父、武藤海斗と出会ったのは桜の木の下だった――。
桜が咲き誇る季節。期待や不安を抱えながら、桜稟アカデミーに入学した生徒たちを和幸はまるで他人事のように眺めていた。
「春野家の次男が入学したんだってな」
「らしいな。しかも、キングに選ばれたとか」
「入学早々かよ。さすが、エリートってか」
そんな会話が聞こえてきた。
桜稟アカデミー。
貴族街にある唯一の教育施設であり、貴族街の者が必ずといって通う場所である。
ここでは全てがポイントによって定められており、ポイントには基礎ポイントと成績ポイントの二種類がある。
基礎ポイントは、生活態度や課外活動などによって与えられるもの。成績ポイントはテストやレポートの出来によって与えられるもの。
その中で学年ごとに最も多くの成績ポイントを持つ者が『キング』という称号を得ることができる。
新入生のポイントは入試の成績で決められる。和幸は全教科満点の成績をおさめ、『キング』の称号を得た。
それで得られるくらいに一学年の先代『キング』のポイントが低かったというだけの話だ。
箱入りの子供ばかりが通うアカデミーは正直面白みの欠片もなく、退屈なものになるであろう学園生活に思いを馳せ、そっとため息を吐く。
「ストレートで卒業して、さっさとおさらばしたいものだな」
定められた数までポイントを集めれば、進級テストを受ける資格が得られる。二度の進級テストに合格し、さらに卒業テストに合格すれば、ようやくアカデミーを卒業することができる。
ポイントを集め、難関と呼ばれるテストを合格するのは非常に難しく、アカデミーの長い歴史の中で、ストレートで卒業した者は一人もいない。
もっとも、和幸はストレートで卒業できていたであろう人を知っている。
「わざと不合格になるあたり、あの人らしいが」
そして、和幸の方が春野家を継ぐに相応しいと周囲に知らしめた上で、自分は貴族街を去った。本当にあの人らしい。
などと現実逃避しても、退屈な学園生活に変わりはない。
何度目かのため息をついた和幸は微かな物音に、ふと頭上を見上げる。
満開に咲いた桜が花弁を散らしている。と、枝が一際大きく揺れた。
自然とは違う枝の動きを、不審な思いで見つめる和幸の前に、人が落ちてきた。
「大丈夫ですか」
気配すら感じなかったことに驚きながらも、声をかける。
落ちてきた人物に興味がわいたから。
大切に大切に育てられてきた子供たちが集う学校。木に登るなんてことを人間なんてほとんどいない。
面白い奴かもしれない。淡い期待を寄せながら、落ちてきた人物の反応を窺う。
珍しい藍色の髪に桜の花弁を大量につけたその人物は「大丈夫です」と和幸を見上げる。
中性的な顔には、穏やかな笑顔が浮かべられている。人好きのする笑顔ながらも、どこか人を近づけさせないような浮世離れした雰囲気を感じさせる。和幸の内に潜む何かが、微かに反応したような気がした。
「ええと、貴方は……」
笑みの中に困惑を混じらせた彼に、和幸は少しばかり驚いた。
貴族街を統治する春野家に生まれ、難関な入試を満点で突破した和幸は、この閉じられた世界の中ではちょっとした有名人だ。そのうえ、次期春野家当主となれば、アカデミーどころか貴族街の中で和幸を知らない人はいないだろう。不本意なことに。
和幸としては、誰も知られず、平穏な日々を送りたい。身の内にあれがいる時点で無理な話なのは重々承知だが。
ともあれ、和幸のことを知らないとは驚きだ。ますます、彼に興味が湧いてきた。
「俺は、春野和幸といいます」
「ああ。キングの方でしたか」
さすがに名前には心当たりがあるようだ。それでも、他では見ない淡白な反応だ。
「名乗り遅れましたね。私は武藤海斗といいます」
やはり彼がそうか。
和幸に僅か一点及ばない成績で合格した人物。確か、和幸と同じ年だったはずだ。武藤家の次期当主としての呼び声も高い彼に、あの人が強い興味を示していたのを思い出す。
なるほど、確かに興味深い人物だ。
たった数分の接触で、和幸がここまで興味をそそられたくらいなのだから、あの人が興味を持つ理由も分かる。
「なんで、木に登ってったんだ?」
「子猫が降りられなくなっていたようなので、助けていたんです」
明らかな嘘だ。
この桜稟アカデミーは貴族の子息たちが通っているだけあって警備が厳しい。子猫一匹入ることは不可能だ。
何より、落ちてきた子猫の姿を見ていなければ、海斗の腕に抱かれているわけでもない。
疑う和幸の心根を知ってか、知らずか、海斗は穏やかな笑顔を浮かべるばかりだった。
何故、そんなことを言ったのか。
木に登って何をしていたのか。
このときの和幸には見当もつかなかった。海斗と親しくなった後でも、分からないままだ。
初めて会った頃から、武藤海斗という人間は謎に満ちていた。
同じ科目を選択していたこともあり、その後も海斗と顔を合わすことが何度もあった。
彼も他人と関わるのを面倒と考える性質のようで、一人でいることが多かった。落ちぶれ貴族と呼ばれる武藤家の人間に関わるような者はこの学園にはおらず、一人を満喫しているように見えた。正直、羨ましい。
和幸の周りには望んでもいない取り巻きが何人かいた。
春野家との繋がりを持ちたいという欲を隠している気になっている者たちにうんざりしながら、適当にあしらう毎日。素っ気ない態度をとっていれば離れていくが、春野家の恩恵を受けたい者は後を絶たない。
これならば、ただ退屈な学園生活を送るだけの方が遥かにマシだ。あの人のコネを使って、早くアカデミーを去ることを本気で考えるくらいに和幸は、学園生活を地獄のように思っていた。
光に引き寄せられる虫のような者たちをあしらった和幸は、己に隠業の術をかけて人々から遠ざかる。初めからこうしていればよかった。
姿を認識されにくくなる陰業の術。練度が高ければ、透明人間に近い状態になることも可能だ。
久方ぶりの一人を手に入れた和幸はある場所を目指す。
アカデミーの東側に広がる巨大な森。史源町にある“はじまりの森”に通ずるこの森の奥に、和幸が目指している場所がある。
深く、薄暗い森の中を迷いなく進んでいく和幸。こんな森の奥に入る物好きはおらず、和幸は隠業の術を解いた。
「?」
木々が密集した道を抜け、開けた空間に出る。
一本だけ生えた巨大な桜の樹が、絶えず花を散らす神秘的な空間には、先客がいた。
太い幹に背を預けるようにして座る青年。一見すると華奢だが、鍛えているのがはっきりと分かる体つき。
短く切り揃えられた藍髪を風に遊ばせながら、熱心に本を読む姿はどこか浮世離れしている。
このまま桜とともに空間に溶け込んでしまいそうな儚さに呆気にとられる和幸は徐々に状況を理解し始める。
どうして、彼がここにいるのだろう。
まず浮かんだのはそんな疑問だ。
不用意に近づくのも憚られ、考え込んでいれば、ふと顔を上げた海斗を目が合った。
漆黒の瞳を瞬かせた海斗はすぐに柔らかく微笑んだ。
「どうぞ」
促すように、自分の隣を指し示す。
完全に停止した思考の中で、言われるがままに腰を下ろす。我に返った頃には、すでに海斗は読書を再開していた。
流れる沈黙が妙に心地よく、ずっと求めていた穏やかな空間に「このままでいいか」と木にもたれかかる。
目を瞑り、聞こえてくるのは本を捲る音と、桜を揺らす風の音。舞い散る花弁の音すらも聞こえてきそうだ。
「っ……けほっ、けほっ」
自然の音を聞いていた和幸の耳に不協和音が混ざる。はっとして目を開ければ、咳き込む海斗の姿が映りこむ。
発作のような咳を繰り返したあと、海斗は疲れたように息を吐いた。
「風邪か?」
聞いてから、らしくないことをしていることに気付く。
海斗が風邪をひいていようが、もっと別の病気を抱えていようが和幸には関係のない話だ。いつもなら、どうでもいいと気付いていないふりをしている。
どうも、海斗といると調子が狂う。自分に似た何かを感じるからだろうか。
「いえ。少し喉の調子が優れないようで」
「そうか」
数十日の間に見慣れてしまった穏やかな笑顔。和幸は、海斗の笑顔以外の表情を見たことがない。
笑顔とともに、それとない言葉を返せば、それ以上踏み込めなくなる。柔和な笑みは、人好きのするものながら、どこか相手を遠ざける道具のようにも思える。
煙に巻かれた気分で、和幸は海斗から視線を外す。
別に、煙に巻かれようとも、和幸には関係のない話だ。
会話はそれきり途切れる。といっても、先程の沈黙に戻ったわけでもなかった。
ざわついた空気が、邪気と混ざり合った妖気を連れてくる。妖気が肌を撫でるたびに言い知れない不快感が込み上げてくる。
パタン
近付く妖気に眉を寄せた和幸の横で本が閉じられる。
「少し所用を思い出したので、私はこれで」
他者に介入させない語調でそう言った海斗はすぐさま立ち上がり、その場を去っていく。
残された和幸は静かな面持ちで、海斗が去っていった方を見つめている。そして、立ち上がった。
海斗は妖のもとへ向かったのだと直感が告げている。根拠のない確信に掻き立てられた和幸は、海斗を追うように歩を進める。
胸を占める不安が徐々に強まるのに合わせて、和幸の歩調もどんどん速くなっていく。
この不安が杞憂であると祈る自分の心には気付かないまま――。
ポイントについての記述を少し変えました




