5-3
意識が浮上する感覚とともに、海里はゆっくりその隻眼を開く。
眼前に広がっている天井はおよそ三か月前から暮らしている家のものとは違う。見知らぬわけでもない気のする天井を呆然と見つめる。
寝かされているベッドは簡素なデザインなものの、背中越しに伝わる感触は極上だ。硬いわけでも、柔らかすぎるわけでもない。持ち主のこだわりを感じさせる一品である。
などと現実逃避のように考えていた海里は自分のいる場所に見当をつけるため、視線を巡らせる。
ベッドもそうだが、部屋そのものに簡素な印象を受ける。生活感がまったくなく、辛うじて必要最低限のものは置かれているという現状が余計そう思わせる。
客室というのには質素すぎるその部屋の中に唯一、海里の目を引くものがある。
「けん、くん……?」
ずっと眠っていたせいで声が枯れている。
彼はベッドにもたれかかる形で座っていた。
名を呼ばれても微動だにしないところを見ると、眠っているのかもしれない。
彼の無防備な姿を見るのは初めてで、思わず手を伸ばす。柔らかな黒髪に触れる瞬間、閉じられていた瞼が音がしそうな勢いで開かれた。
焦点の合わない瞳は怯えを刹那だけ宿し、すぐに平時の冷たい光を宿した。
「起きたんですね」
「……うん。健君が手当てしてくれたの?」
「一応。深い傷な上、かなり邪気に侵食されていますから……全治、半年といったところでしょーか」
「半年……」
想像以上に長い。が、それくらい無茶な戦い方をしていた自覚はある。
ただ半年になると、いくら健の協力があっても、レオンたちに隠し通すのは難しくなる。
そこまで考えて、そもそも健がレオンたちに黙って海里を匿っているとは限らないという事実に気付き、口元を綻ばせる。
警戒すべき相手だと言いながら、自分は思っていたよりも彼を信用しているらしい。きっと怒られてしまうだろうが。
身体を起こそうとした海里は、走る激痛に苦悶する。
「まだ起きない方がいーと思いますよ」
「んーん、大丈夫」
二対の瞳が心配げな視線を向けているのを感じながら、身体を起こす。これでちゃんと顔が見られる。
そこでふと左腕の違和感に気付き、袖を捲り上げた海里は目を見開く。
それは、刺青に似ていた。指先から肩までかけて巻き付く植物の蔦にはいくつかの蕾がついている。肩側の二輪が蓮に似た花を咲かせていた。
「なんで」
刺青に驚いたのではない。記憶にある姿よりも幾分か成長しているものの、これとは十年来の付き合いなのだから今更驚いたりはしない。
海里を驚かせたのは、左腕に術がかけられていることに対してだ。
一度、レオンが使っているのを見たことがある。確か対象物の時間を遅らせる術だ。
「勝手だとは思いましたが」
謙遜を口にする健の行動に強い違和感を覚えた。
今までが積み重なり、明確な形になったような、そんな気分だ。
「健君は、なんでそこまでして俺を助けてくれるの?」
地下からこここまで海里を運んでくれたこともそうだ。邪気が充満している空間に足を踏み入れることは、健にとってもかなりリスクの高いことだったはずだ。
にもかかわらず、こうして助けてくれるのは海里にそれだけの価値があるからか。
「海里さんは代替物なんです」
「だい、たいぶつ」
まさか答えるとも思っておらず、意味を理解するのに少しばかり時間を要した。
代替物。つまりは代わり。誰の? 何の?
浮かんだ疑問は続く健の語りによって解消される。
「岡山星司には後悔がある」
静かな口調は寒気を感じさせるほどの恐ろしさを含んでいる。
幼い顔立ちに宿る機械的な表情は内に沸き起こる感情を必死に抑えつけているようにも見える。
「彼はある人を救えなかった。何もできなかった。何もしなかった」
そんな後悔を抱えた星司が海里に声をかけたのは“ある人”と似た雰囲気を感じ取ったからか。
動機は不純でも、二人の間に結ばれた絆は確かなものだ。
「海里さんは、兄さんの後悔を塗り潰すのに必要なんです」
海里と出会ったことで、星司の中にあった後悔は薄まった。
「なんの意味が……?」
「脅威の芽を先に摘んでおきたいだけです」
岡山星司という存在がいずれ脅威になるということはずっと前から分かっていたことだ。
分かっていて見逃すほどの寛容さも、優しさも、健は持ち合わせていない。
ある目的を果たすためだけに健は生きている。それを邪魔する者に容赦はしない。
「健君は……健君が神生ゲームで勝とうとしている理由は何?」
零れた言葉は無意識で、驚く健の姿を見て我に返る。
踏み込みすぎた。気付いても、口にしてしまった言葉はもう消せない。
まさか海里にそんなことを聞かれるとは思っていなかった健は瞬きののちに常の無表情を取り戻す。
「あんな下らないゲームに勝ったところで何の意味もありませんよ」
「それはどういう――」
「海里さんにも、そのうち分かる日がきます」
神生ゲームの本当の意味を。
そんな声なき声が聞こえた気がして、海里は瞬きをする。
その時――。
「あ、れ」
視界が揺らぎ、隻眼から溢れた涙が頬を伝う。
意味が分からず、呆然とする海里の意志に反して、涙は次から次へと溢れ出す。しまいには身体が震えだし、得体のしれない恐怖が胸を支配する。
〈海里!? お前、海里に何をした!〉
脳に直接響く糾弾の声を否定しようにも、声が上手く出ない。出るのは不規則な呼吸音だけだ。
健は聞こえない声で責め立てられていることを想像しつつ、海里の手を取る。
「大丈夫、落ち着いて」
今までにない優しい響きを持つ声に促されるよう、海里はゆっくりと深呼吸をする。
触れる手の温かさが沸き立つ恐怖心を鎮め、落ち着きを取り戻さしてくれる。
「邪気に侵食された影響で、感情が抑えられなくなっているんでしょー」
言って、健は眉根を寄せる。
「今はこんな気休めしかできませんが」
「十分だよ」
海里に利用価値を認めているからとはいえ、健にはいろいろと手を尽くしてもらっている。これ以上は贅沢だ。
「じゃ、俺は王様に目覚めたことを伝えてきます」
健を見送り、視線を部屋の隅で立ち尽くす少年へ向ける。
透けた金髪は薄暗い部屋を淡く照らしている。海里は彼の髪が好きだ。
そして険しさばかりを宿す隻眼へ笑いかける。
「健君は悪い人じゃないよ」
〈……〉
返ってくる声はない。けれど、ちゃんと届いていることを信じている。
彼が、カイが健を警戒しているのは自分を思ってのことなのは知っている。
簡単に気を許してはいけない人物なのは分かっているけれど、それだけで片付けたくないと思ってしまうのは健の優しい部分を知っているから。
本人がいくら言葉で否定しようとも、あの優しさはきっと嘘ではない。
「ごめん、心配かけて」
〈海里はずるい〉
不貞腐れたような声が聞こえたと同時に姿を消す。
姿が見えなくともずっと傍にいる彼に向けてもう一度「ごめん」と呟いた。