5-2
懐から着信を知らせる音が鳴り、プライベート用のスマートフォンを取り出す。表示される兄の名前を一瞥し、静かに懐に戻す。
まったく、あれも余計な真似をしてくれる。まあ、それも利用させてもらうつもりだが。
「お前らしくないな」
「何がです?」
「ほら、いつものお前ならそれとなく相手して、うまーくはぐらかすだろ」
比べて、今の健は完全拒否の状態をとっている。先程、着信を拒否したこともそうだし、チャットルーム『Life of Game』を閉鎖していることもそうだ。
立て込んでいるからと言われればそれまでだが、岡山健という人間はどんな状況でも根回しを怠らない。
今の状況が状況だけに、何か手を打つ素振りもない姿が不思議で仕方ない。
「んー、俺としては今回の件が気付かれても、問題はありませんからね。貴族街相手じゃ、簡単に手出しできないだろーし」
「だから、妖華に根回ししたわけか」
彼女の命令なしに処刑部隊は動けない。
「あれが動くのは目に見えてたしねー」
海里が貴族街にいる。その情報が知られた以上、下手に誤魔化すのは得策ではない。
だからこそ健は完全に接触を断つことを選び、少ない情報の中で星司がどう行動するかに任せることにしたのだ。
こちらの問題に巻き込んでしまって申し訳ないと、奥の扉を一瞥する。
「海里の様子はどうだ?」
「順調に回復に向かってますよ。半分でも妖の血が混じってるのは大きーですね。まだ五日しか経ってないのに」
五日。そう、五日だ。
健はあの日、オンモとの戦いが行われた地下の最奥。そこでの出来事を思い出す。
〇〇〇
学園長室のソファに寝そべっていた健は、肌に触れた気配に思わず飛び起きた。
知らない気配が何を意味しているのか、その聡明な頭脳は一瞬にして答えを導き出す。
数秒も経たず、今回のラスボスであるところのオンモの気配が消失した。が、今の健にはどうでもいいことだ。
「学園長、少し席を外します」
言うが早いか、健は学園長室にある隠し扉に触れる。執務机のちょうど後ろにあるそれは、オンモがいる地下の最奥へと続く階段だ。
春野家の関係者、それも貴族街の奥底にいる者だけが知る通路だ。
闇の中に足を踏み入れた健は、ひと呼吸とともに闇視の術をかける。
薄暗い階段を一つ、また一つと降りていくたびに健は冷静さを取り戻していく。最後の一段を降りたときには、もう安全に平時の調子を取り戻していた。
「こんにちはー」
場違いに気の抜けた声をともに、足を踏み入れた健を迎えるのは倒れ伏した二人の存在だ。
一人は闇そのものような男性だ。髪も肌も身に纏う衣すらも黒だ。姿を見たのは初めてだが、彼がオンモなのだろう。
完全に事切れていることを遠巻きに確認する。死してもなお、纏う邪気はかなりのもので、近付くのは憚られた。
続いて健は、もう一人へ目を向ける。目立った傷が見受けられないオンモとは対照的に、彼の姿は過酷な戦いの跡が残されている。
腰の辺りまであった藍髪は一部が無残に切られ、地面には彼のものと思われる血で水溜まりが出来ている。鋭敏な聴覚がとられた微かな呼吸音が、彼が生きていることを教えてくれた。
傷の状況を確認し、治癒の術を発動させようとした健の背中をめがけて鋭い一閃が放たれた。振り向きもせず、生成した結界とぶつかり合う音を背中越しに聞く。
「人がいたなんて驚いちゃったよ。ここで死んでくれないかな」
目深に被ったフードで隠された顔立ちは中性的で、幼い少年ともボーイッシュな少女ともとれる。
その手に握られた指揮棒は纏う妖気とは不釣り合いで、借り物なのだろう推測する。
「サカセさん、ですか」
「へぇ、僕のこと知ってるんだね。どっちにしろ、関係ないよ。君はここで死んじゃうんだから」
「俺にも貴方にも、そんな時間はないと思いますけど」
「君ごときを殺すなんて一瞬だよ」
サカセが大きく手を広げたのを合図に強い光が瞬く。
「世界を逆さに」
表面的には何も変わらない。けれど、確かに術は発動している。
不利を有利に。マイナスをプラスに。無を有に。
唯一、サカセが使えるこの術は、目の前にいる少年のように、己の力の上で胡坐をかいているような存在にこそ使える。いいカモを目の前に、中性的な顔立ちは愉快そうに歪んだ。
「死んじゃって」
「ふうん」
上着の中に忍ばせていたナイフで切りかかるサカセを、健は腕力のみで抑え込んでみせる。
「なんで……」
術はきちんと発動したはずだ。にもかかわらず、この男は何故弱くなっていない?
サカセは強者と弱者を見抜くことには自信がある。数百年もの長い時間の中で培ってきたものだ。間違えるはずがない。
この男は間違いなく強者だ。身に纏う気配、佇まい、全てがそう物語っている。
弱くなるどころか、強くなるなんてそんなことは――。
「単に弱体化させる術ってわけじゃないのか。んー、そっか。パラメータを逆にしているのか、といっても知力や精神力までは影響されないみたいだね」
つらつらと並べられた言葉はたったの一瞬で、正確かつ細かにサカセの能力を見抜いたことを示している。
その余裕な態度が癇に障る。
「相手が悪かったね」
術の威力は確かに下がった。実際に行使したわけではないものの、身の内の違和感がそう伝えている。
反面、元々見た目相応にしかなかった筋力は、サカセのお陰で数倍に跳ね上がった。
普通ならば、一瞬のうちに変わった身体能力に戸惑い、ものにするまでに時間を要する。その時間さえあれば、サカセには充分だった。
本当に相手が悪かったのだ。いくら身体能力が変えられようが、健には何一つ問題ない。
自分の身体を操るなんて、もっとも得意とするところだ。
「俺はサカセさんをどーこーする気はありません。さっきも言いましたけど、時間が惜しーので」
言いつつ、サカセを解放する。ナイフを返して、敵意がないことを示すことも忘れない。
「そんな簡単に敵を逃がしちゃっていいのかな」
「問題ありませんよ。ただ、面倒事は避けたいのでここで会ったことは秘密にしておいてくれると助かります」
「信用できない。君の考えが分からないよ」
「信用してもらおーとは思っていません。今、お互いに求めるものを鑑みて、提案しているだけです」
胡散臭さは変わらない。けれど、サカセには彼の提案を呑む道しか残されていない。
時間がないのだ。この少年以外の者がここに来るより早く、撤退しなければならない。
主の遺体を抱える。健を一瞥すれば、彼はサカセに対する関心を失ったかのように無視を決め込んでいる。
今攻撃すれば、怪我くらいは負わせられるかもしれない。
そこまで考え、頭を振る。くだらない欲に駆られて引き際を間違えるのは愚か者のすることだ。今は課せられた重役を果たすことだけに集中しなければ。
オンモの遺体を背負って去っていくサカセを見送った健は、海里の治療を再開させる。応急処置程度に手当てを済ませ、スマートフォンを取り出した。
「む、圏外か」
仕方ないと息を吐き、海里の身体を抱えあげる。サカセの術はすでに解除されおり、身体強化の術を自分でかけ直す。
と、ふと降り立った気配から注がれる殺気に気付き、口角をわずかに上げる。
姿は見えない。声も聞こえない。けれども、確かにそこにいる存在に向けて口を開く。
「心配しなくても大丈夫ですよ。この身体は丁重に扱います」
「……」
強くなる殺気を無視して、健は来た道を戻る。
眼帯をつけていないせいで漏れっぱなしの海里の妖気は、健自身の霊力によって抑え込む。と同時に発動された隠業の術で、二人の気配を完全に消し去った。
目的地はもう決まっている。春野家だ。
●●●
書類に目を通していた和幸の視界に、藍色のものが掠めた。つられた顔をあげるが、周囲には誰もいない。
感じた気配の残り香に、和幸は珍しく動揺を露わにする。
見知った気配。だが――。
「あいつはもういない」
胸を締め付けるほどに代えがたい事実を覆された気分で、和幸の心臓は激しく脈打っている。
そこへ。
「お邪魔しまーす」
抑揚のない声とともに窓が開かれ、健が姿を現す。
何度注意しても窓から入ってくる健をいつものように迎えようとして、いつもと違うことに気付く。
巧妙に気配が隠されていたこともあったが、気付くのに遅れたのは先程感じた気配のせいだ。
「これ、準備してください」
どこか既視感を覚えながらも、渡された紙を受け取る。そのまま龍馬を呼びつけて紙を渡し、健に代わって海里を隣の部屋へと運ぶ。
手際よく医療器具を準備する健に後を任せ、治療を行う彼を後ろから眺める。
海里の傷は深い。健が施したらしい応急処置でどうにかもっている状態だ。
史源町で起こっていたことは知っているので、海里の怪我の理由も大方予想はつく。他に気になることがないわけではないが、健の作業を終わってからでもいいだろう。
「……よし」
手早く治療を済ませた健は龍馬が持ってきたものに目を向ける。
硯。筆。墨汁。習字をするための道具たちだ。
硯に墨汁を垂らした健はどこからか取り出したナイフで、己の腕を躊躇いなく切りつける。普段は長い袖で隠された腕に赤い線が走り、溢れ出した血が墨汁と混じる。
血が混じった墨を筆にたっぷりとつけ、床に広げた包帯に文字を書き込んでいく。梵字に似たそれは文字というよりは模様に近い。
端から端まで文字を書き込み、乾いたところで海里の左目を隠すように巻き付ける。
「これで取り敢えずは大丈夫かな。後で妖華さんにちゃんとしたものを作ってもらう必要があるけど」
「その辺は俺が連絡しておくよ」
「お願いします。さすがに妖華さんにまで隠しておくわけにはいきませんし」
わざわざレオンたちの目を盗んで海里を春野家に運んできたのは、海里の意思を汲んでのことだ。心配かけたくないと彼が考えていることは容易に想像できる。
もっとも海里は行方不明ということになるので、どちらにしろ心配をかけることには変わらないのだが。
近いうちにカガチの方にも依頼が来るだろうし、何か手を打っておくべきだろう。
「所用を思い出したので、あとはお任せし――」
「待て」
引き止められた健の顔に苦々しいものが宿るのを和幸は確かに目にした。
「なんですか」
「陰鬼はどうした」
紅鬼衆の一人、陰鬼。影を操る力を持つ彼は、ある事件を境に健の護衛兼監視役を任されている。
それが今いないのは職務放棄というよりは、健が何か働きかけたのだろう。
「猫の手も借りたい状況でしたから。今は学園で後始末中です」
今後の動きについてはすでに連絡済みだ。今頃は、あれの指示を受けて行動していることだろう。
「……分かった。じゃ、代わりに煉鬼をつけておく」
言われて姿を現したのは、紅鬼衆の中でも高身長な彼だ。精悍な顔立ちと、茜色の髪を持つ彼は炎を操る力を持つ。
不満げな顔で自分たちを見る健を無視して、和幸は仕事に戻る。残された健は諦めたように息を吐き、静かな瞳で眠る海里に目を向けた。
健が辿り着くのが少しでも遅れていたら、海里は死んでいた。それくらいに深い傷だった。
間に合ってよかったと今は心から安心している。海里には死んでもらっては困るのだ。少なくとも、もう少し長生きしてもらわなければ。