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4-17

 星司が蹴った白い小石が壁にあたり、カチリと小気味のよい音を鳴らした。

 突如、凄まじい音を立てながら壁が二つに分かれていく。そうして生まれた新たな道に、星司は自分の足を見下ろす。

 あまりの偶然に呆気にとられる星司の胸の辺りで、健から貰った指輪の一つが砕け散り、小首を傾げる。


「隠し扉ですか」


 どうやら、意味もなく地下道を進み続ける未来は回避できたようだ。

 出現した道から噎せ返るような邪気が漂っている。本音を言えば、進みたくない。

 肌に纏わりつく邪気は強い不快感を抱かせる。人並みの感知能力を持つ星司ですらそうなのだから、海里たちへの影響はかなりのものだろう。


「なんというか……すごく、分かりやすいね」

「気は進まんが、行くしかあるまい」


 苦虫を数十匹噛み潰したような表情を見せる流紀に続くようにして、全員が隠し扉の先へ進んでいく。

 十分ほど歩いた頃だろうか。道があけたその先に長身の男が立っていた。

 ひょろ長い印象を受けるその男性は、蓬髪を無造作に伸ばし、襤褸を纏っている。長い前髪の隙間から覗く目は鬱々としたものを宿らせている。


「こんなに早く来るとは思っていませんデシタです」


 ゆっくりと両手を広げる男性。ちらりと見えた腹は肌が抉れており、嘘みたいに白い骨が覗いていた。

 直視した星司は思わず、顔を引きつらせる。


「ここから先は関係者以外立ち入り禁止デスます。立ち去ってクダサイです」

「悪いけど、それは聞けないかな」


 息苦しさを感じさせる邪気。その根源となる存在が先になるのは明白だ。ここで見逃す理由はない。

 海里の返答に息を吐いた青年は、気弱な瞳に鋭い光を宿す。


「仕方ないデスます。強制的に立ち去ってもらいマスです」


 地面から白いものが生え、星司の足を掴む。硬い感触に目をむければ、骨だけの腕が目に入り、ぎょっとする。

 親が病院を経営しており、自身も医療系の知識を積んでいるため、常人よりは見慣れた物体だ。

 引き放そうと蹴りを入れるが、なかなか離れてくれない。


「星司、身体を引いて」


 親友の声が耳朶を打ったのと同時に身体を僅かに引けば、タイミングよく龍刀の切っ先が関節に滑り込む。


 手首から二つに分けられ、星司の足を掴んでいた力が緩む。これを期に、手を振りほどいた。

 コンクリートに転がった骨はカタカタと音を立てながら、元の形に戻っていった。


死者葬列(アンデットカーニバル)


 聞こえた声に呼応するようにコンクリートの地面から骸骨が生えるように出現する。数十を超える骸骨たちは、骨をカチカチと鳴らしながら緩慢に動き出す。ゾンビ映画を彷彿とさせる光景だ。


 すでに臨戦態勢に入っている流紀は、向かい来る骸骨へ冷風を浴びせる。

 すぐ横では二つの一閃が走り、骸骨の群れを分断する。休む間もなく、もう一閃。粉砕された部分はそのままに、復活した骸骨は歪な姿で群れに合流する。


「夢に出てきそうな光景だね」


 マイペースな言葉とともに龍刀から剣撃が放たれ、切断された骨がばらばらと地面に転がる。間髪入れず上がった炎が、切り口から骨を灰へと変える。


 場違いな拍手があがり、骸骨たちは一斉に行進をやめる。骨でできた腕をだらりと垂らし、空っぽの眼窩で虚空を見つめる姿は、それはそれで夢に出てきそうだ。


「さすがお強いデスますね。デスが、もっと手ごたえのあるものを用意しておりマスですから、ご安心を」


 警戒を滲ませる面々を前に、慇懃無礼で陰鬱な声は続いていく。


「そういえば名乗っていませんデシタです。オレはスクル、デスます」


 名乗りながら、スクルはゆっくりと両手を水平に広げてみせる。纏う襤褸の隙間から覗く身体は肉が抉れ、骨が見えている。


 掌にはどす黒い気が集まっており、「リッチ:騎士(ナイト)」と陰鬱に囁く。地面から現れたのは、剣と盾を持った二体の骸骨だ。その装いはファンタジーでよく見かける西洋騎士の姿に酷似している。


 剣を構え、隙のない所作で歩み寄る騎士風骸骨に身構えつつ、レオンは仲間の状況を窺う。そして、息を吐いた。


「海里様、先に行ってください」

「そうだな。私たちの目的は敵のボス、オンモを倒すことだ。ここで足踏みをしているわけにはいくまい」


 時間も惜しい。今こうしている間にも、地上では大量の邪念体が蠢いている。

 海里自身も賛成の意を示し、道を開けることを最優先にレオンたちは動き出す。そんな中一人、星司だけがどこか浮かない顔を見せている。


 押し上げる不安。胸を締め付ける何かを押しつぶすように、玩具のナイフを持つ力を強める。


「星司」


 穏やかな声が滑り込み、自然な仕草でそちらを向く。


「大丈夫だよ」


 見慣れた笑顔は逡巡するように瞬きをし、すぐに元の笑顔に戻っていく。


「大丈夫、俺は死なないから」


 男にしては高めの声が彩る言葉には少し違和感がある。まるで、誰かの台詞を借りてきたような。

 温かい笑顔には似合わない、突き放すような冷たさを持っている。嫌に説得力がある言葉は、頷くことを強要する。


 後ろを向いた反動で舞う藍髪に誘われるように、星司の思考は骸骨たちの列へ移行する。

 騎士風骸骨と刃を交える流紀の足元から漂う冷気が足ごと地面を凍らせていく。狙ったように味方の足元が凍っていないのは、レオンが生成した温風のお陰だ。


「やっぱすげぇな」


 短い付き合いとは思えない連係プレーに水を差すわけにもいかず、星司はただ傍観しているしかない。


 レオンの妖力を糧にした炎がささやかながらに骸骨を燃やしていく。ふと開かれたままの隠し扉から流れ込んだ清廉な空気に後押しされ、炎の勢いが増す。

 親しみを感じる気が場を満たし、疎ましい邪気を遠ざけてくれる。


「レミの妖気、か。あいつにはいつも助けられてばかりだな」


 敬語が外れているのは、無意識に零れた心の呟きだから。

 この場にいなくとも、痒いとこに手が届く勢いで助太刀してくれる処刑部隊エース。


 邪気が弱まることは、レオンはともかくとして流紀や海里、星司にとってはありがたいことだ。想い人の強大な妖気に背中を押されながら、炎の制御に集中する。


 力を増した炎は次々に骸骨を飲み込み、劫火の海を作り上げる。解けない氷で足元を固定された骸骨たちに逃げる術はない。断末魔すらあげず、無音で灰へとなり消えていく。


 そうして一本の道が作られ、龍刀を構える海里は躊躇なく炎の中を進んでいく。迷いない足取りで進んでいく親友の背中を見守ることしかできない歯痒さに星司は、胸元で揺れる指輪を握りしめた。


「そう素直に行かせると思っているんデスますか」


 はっとして声がした方――海里が進む先を見遣る。

 そこに立つのは襤褸を纏った蓬髪の男性。スクルと名乗っていた妖だ。


 氷の呪縛から自力で抜け出したスクルは新たに騎士風骸骨を二体召喚する。


「斬――っ」

「遅いデスます」


 二体まとめて切り捨てようとした一閃は避けられ、剣撃が襲い掛かる。咄嗟に、龍刀でこれを受けるものの、鍔迫り合いをしているうちに二体目が剣を振るう。


 片方を避ければ、片方は防げない。そんなジレンマの中、被害を最小限にする方へ海里の思考がシフトしたとき、それは起こった。

 今もなお、骸骨たちを燃やし続けている炎が大きくうねる。


「レオン!?」

「いえ、私では……」


 レオンの制御下から離れた炎はやはり大きくうねりながら、海里を襲っていた骸骨騎士を丸ごと飲み込んだ。それも、二体同時に。


 役目を終えたらしい炎は再びレオンの制御下に戻る。

 呆気にとられるのはスクルも同じで、いち早く我に返った海里は隙を突くように横をすり抜ける。


「させないデスます」

「それはこちらの台詞です!」


 炎によって追撃を防がれたスクルは悔しげな顔で、遠ざかる藍色を見届けるしかなかった。


 海里を先に進ませるという目的を無事に果たし、打倒スクルへと状況が変化する中、星司は己の掌を見つめる。


 掌に乗るのは粉々に砕けた金属。鎖にぶら下げられていた指輪の一つが壊れたのである。


 ――念じれば、兄さんの望みを叶えてくれるよ。


 望み。

 あの時、星司は海里を助けたいと願った。


 すると、指輪の一つが紅い燐光を放ち、炎が骸骨を飲み込んだのだ。間もなくして、光を失った指輪は砕け、今は星司の手の中にある。


「これが健の言ってた――」

「星司! 避けろ!」


 反射的に身を引けば、自分がいた場所には片手剣が突き刺さっている。

 それの持ち主らしい骸骨は氷塊に吹っ飛ばされ、胴を砕かれながらも必死に身を起こそうとしている。


「戦いはまだ終わっていない。気を抜くな」


 トドメと言わんばかりに氷塊を降らせた流紀に謝罪しつつ、玩具のナイフを握り直した。

 ふと地面に突き刺さったままの片手剣を一瞥し、振り切るように戦闘へ身を投じる。


 片手剣の方が攻撃力は高い。多分、あれでも霊力の剣撃を繰り出すことはできる。でも、今の自分は片手剣の重みに耐えられる気がしない。

 炎が静まったことで、活発になった白い軍勢に星司は玩具のナイフで対抗する。


 ●●●


 自身より圧倒的に大きい敵を目の前にしても、少女は表情一つ変えない。細いフレームの眼鏡の奥に潜む瞳はひたすら冷静に状況の分析を努めている。


 対する巨漢も同じである。体格に似合わない冷静さで少女の出方を観察している。


「お主は――」


 鋭さと冷たさを含んだ瞳と目が合い、巨漢は一度言葉を飲み込む。そしてまた、口を開いた。


「お主は、何故戦う」

「風紀を正すためです」


 間を与えず返された言葉は、どこまでも真っ直ぐで迷いのないものだった。

 制服の袖につけられた赤い腕章には、少女の信念である『風紀』の二文字が刺繍されている。


 風紀を正す。


 少女――龍月和心がそれを信念を定めたのは、わずか六歳の時であった。妖退治屋になったのも同じ歳であり、初めて主と交わした歳でもある。


 忘れることのできない永遠のような刹那。銀に包まれた世界。

 目を瞑れば、今でも鮮明に思い出される。


 ――貴方は貴方の物語を描いてください。それが私の望みです。


 和心に力を与えた神様は生きる道を指し示してはくれず、ふくよかな声音は無責任な言葉を吐いた。

 不満はない。神に言われるでもなく、自分の人生は自分で描いていくしかないのだから。


「貴方は、何故戦っているのですか」


 敵であっても、年上ならば敬語を使う。それは和心が己に課しているルールの一つだ。

 同じ問いを返された巨漢は瞑目し、厳かに口を開く。


「我が戦う理由は主のため……故に」


 開かれた瞳には明らかな戦闘の意志を宿している。


「主の復活を妨げる者は殲滅させてもらう。心変わりするならば今の内だと忠告しておこう」

「心変わりはしません。私は私の信念のために貴方を倒します」


 その宣言を合図に地面が盛り上がり、泥人形が姿を見せる。と同時に、すぐ傍に生成された泥の拳を一瞥した和心は懐から取り出した白い紙を放つ。


「呪符使いか。我を相手にするとは運が悪い」


 白い紙――呪符によって次々と術式を解除された泥が地面に汚していく。そうして作られた泥だまりをローファーが踏みしめた――瞬間。

 犇めき合った泥が和心の足に絡みつく。


「なるほど」


 スカートの中からぱらぱらと零れ落ちた呪符が絡みついていた泥を弾く。


「確かに、少し分が悪いようですね」


 新たに生成された泥人形を見ても、やはり表情を変えることのない和心は数十枚の紙の束を取り出す。ばら撒くように投げられた呪符は宙で一つの大きな紙を作り出す。


 繋げて作られた『滅』の文字が発光し、泥人形を含めて泥だまりを一掃する。


 姿を現したコンクリートの地面を踏み、脳内で呪符の枚数を確認する。

 この攻撃はそう何発も打てない。とはいえ、そのことは和心にとっては大して重要なことではない。


 新たに生成されようとしている泥人形を目敏く見つけ、『解』と『滅』の二文字が書かれた紙を投げつける。


「ふむ。やはりこの程度では相手にはならぬか。ならば」


 地面に湧き上がる泥が集まり、今までの泥人形とは違う形を形成していく。和心が先程と同じ呪符を放って防ごうとするが、弾かれてしまう。


 数秒もかからないうちに泥は一つの姿を得る。蜜柑頭に、戦隊ものを彷彿とさせる全身タイツ。色は泥の茶色で統一されているものの、それは紛れもなく化け蜜柑であった。


 直接対峙したわけではないものの、遠目で見たものと遜色ない姿に、さすがの和心も瞠目する。気配も含めて、化け蜜柑そのものだ。


「ただの人形と考えない方が良さそうね」


 過小評価も、過大評価もしない慧眼でそう結論付ける。

 伸ばされた蔕がしなを作るのを見て取り、スカートの中に隠していた筆を取り出した。


 咄嗟に書いた『跳』の一文字を踏みしめ、大きく跳躍。

 宙に身体を放り出した和心はすれ違いざまに蔕に『崩』と書き込む。和心の瞳が銀色に輝いたのを合図に、蔕は崩される。


「ふむ。その筆は特殊なもののようだな」


 傍で聞こえた声に驚いて横を見れば、蹴りを叩き込まれる。

 防御は間に合わず、攻撃をもろに受けて吹っ飛ばされる。咄嗟に受け身を取ったものの、ダメージは殺しきれず、苦悶する。


 掌から零れ落ち、地面に転がった筆を拾い上げたのはチソホだ。


「見た目は普通だな。噂に聞く、妖具という奴か?」

「……返して、ください」

「悪いが聞けぬな」


 悔しさからか、顔を俯けた和心に歩み寄るチソホ。


「風刃」


 聞こえた囁きで身を引くが、間に合わない。突如として巻き起こった風がチソホの肌を切り裂く。

 驚きを隠せないでいるチソホを他所に立ち上がった和心は、平然と二本目の筆を取り出す。


「貴方は優しくて正直な方なのですね」


 言葉の節々に降参してほしいという思いが含まれていたことには気付いていた。

 そして、先程の攻撃。受けた衝撃は大きいものの、巨躯から放たれたものにしては軽いものだった。ただえさえ、妖の運動能力は人間の数倍だというのに。


 もし放たれたのが本気の一撃であれば、和心は無事ではない。最悪、この世にはいないだろう。

 一瞬のうちに消えた躊躇を見逃さなかった和心の言葉にチソホは観念したように息を吐いた。


「見抜かれていたか……」


 和心のことを舐めていたわけではない。

 ただ、チソホは物を壊すというのが好きではないだけだ。相手が子供で、女であれば尚更、躊躇が生まれてしまうのだ。


 偏見の目を持たない和心だからこそ、こうも早くチソホの性質を見抜くことができた。

 眼鏡の奥の瞳は、ただ冷静に相手の真を見極める。


 子供だからと手を抜けば、こちらがやられる。チソホは本気で和心を殺す覚悟を決め、全身に殺気をくゆらせる。


「我を本気にさせたこと、後悔しても遅いぞ」

「後悔はしません」


 チソホに手を抜かせたままの方が和心にとって勝ちやすい状況だったのは確かだ。

 それでも、自分がすべきだと思ったからこそ行った。己の判断に対して、反省はしても後悔はしない。

 龍月和心とは、そういう人間なのだ。


「真っ直ぐな目だな」


 憧れに似た眼差しを向けたチソホはすぐに戦闘モードへ移行する。先程まではなかった殺意を滾らせて。

 地面に流れ出した泥がマグマのように泡立ち、人型を作り出す。一人、また一人と鮮明になっていくその姿は見覚えのあるものだった。


 一人は、不気味な男。顔に巻き付けた包帯と長く伸ばした前髪で、両目を隠している。唯一、表情を視認できる口は歪んだ笑みを浮かべている。


 一人は、鋭い髪を持った青年。切り裂かれた服はみすぼらしいというよりも、お洒落な印象を感じさせる。そして何より目立つのは、身の丈ほどもある巨大な鋏だ。


 一人は、気弱そうな少女。布を重ねたような服は風に煽られ、炎のように揺れている。気弱そうな中にも強い意志が籠っていることをその瞳が教えてくれる。


 一人は、淡白そうな少女。装いは魔女っ娘を連想させる。四肢に蔦が巻き付いており、数輪の花を咲かせている。


 その全員と初めて対峙することになる和心は何度か瞬きをする。


「土地の記憶を読み取っているのね」


 目の前に並ぶ泥人形はみな、この町で命を落としてきた者たちだ。

 和心が直接その死を見届けたのは一人だけだが、冷静な瞳はただ本質を見抜く。


「この人数を相手するのは骨が折れそうね」


 抑揚のない声で呟き、己の足に『強化』と『加速』の文字を書き込む。

 泥で構築された葉と羽根が舞う中、和心の身体が消失する。不可視の刃は空を切り、続く炎は火の粉を散らしただけだ。


 泥人形たちが和心の行方に視線を巡らしているうちに、彼女は姿を現す。そして、泥人形に蹴りを入れる。

 脳漿を撒き散らすように泥が飛び散り、春ヶ峰学園の制服を汚す。


 次の攻撃に移ろうと筆を持ち直した和心のすぐ席を不可視の刃が走り抜ける。

 舞い踊る葉が術式の構築するのを見て取り、右へ数歩した移動したところに強烈な拳が叩き込まれる。


「我の相手を忘れてもらっては困るな」


 文字を書く間を与えないまま、次々に拳が繰り出される。

 攻撃がやんだかと思えば、和心の視界に完成した術式が映る。


 反射的に『防』の文字が書かれた呪符を投げるものの、半瞬の差で間に合わない。雷撃が和心の右腕を貫いた。


「力は本物と変わりないと考えた方がいいようね」


 続く攻撃を避けつつ、対策を練る和心。

 雷撃が直撃した右腕はまともに動かず、筆を左手に持ち変える。速さは落ちるのの、左手も術の行使には問題ない。


 何の犠牲もなしに勝てるほど驕っていない。

 チソホという脅威を退けることを最善とした和心は己の治癒を一先ず後にする。


 その時、全身に電流が駆け巡るような感覚が走った。己の奥底が震えるようなその感覚は、今まで感じたことのあるものとは比べ物ならない強さだ。


「ナグモさん……?」


 隠れて見ているであろう男性のことを思い浮かべた和心の傍を風を吹き抜けた。


 つられているように風の先を見れば、飛び散る泥が視界を埋めた。

 驚くチソホの前に立っているのは白髪の男性だ。耳にぶら下がった鈴が軽やかな音を鳴らした。


「貴方は、桜様の……」


 不揃いな前髪を鬱陶しげに掻き上げた男性こと、藤咲桜の第四の式、嵐は鋭い目で和心を一瞥する。


「時間は稼いでやる」

「感謝します」

「弱者に手を貸すのは強者としての義務だ」


 華蓮辺りが聞いたら憤激しそうな台詞を吐き捨て、嵐は戦闘に身を投じる。

 吹き荒れる刃を含んだ風の対処に追われるチソホの注意から外れたのをいいころに、和心は建物の影に身を隠す。


 懐から『治癒』と書かれた呪符を取り出し、右腕に貼り付ける。それだけであらゆる傷を治すことができる反面、ストックが三枚しかない貴重な呪符だ。


 強力な力を有する呪符は、いくら和心でもただ文字を書くだけとはいかないのだ。

 残り二枚となった呪符のことを考える和心の背後に人が歩み寄る。


「やはり、助けを呼んでくださったのはナグモさんでしたか」

「お節介だったかな」


「いいえ」と答えた和心は背後に立つ人物に目を向ける。


 道端ですれ違っても気付かない程に特徴のない男性。ナグモと名乗る彼は観測者としてこの戦いを見ていたはずだ。

 大小に関わらず、事件と名のつくものならば全て観測する。それがDの役目であり、性質だ。


「お陰で、余計な犠牲を払わずに済みましたし……助かりました。ありがとうございます」

「礼には及ばないよ。可愛い女の子が困っていたら助けるのは当然のことさ」


 さらりと吐かれる台詞には、不思議なことに気障な印象を受けない。


「大丈夫そうかい?」

「はい、問題ありません」


 右腕が完治したことを確認し、ナグモに別れを告げる。

 自らに背を向け、迷いのない足取りで進んでいく和心を微笑とともに見送るナグモ。


「戦うことはできなくとも、自分は自分の役目を果たすだけさ」


 己のうちに燻ぶるもどかしい思いを払拭するように呟くナグモに、和心は足を止める。

 振り向いた和心と目が合い、ナグモは驚きで見開く。


 鉄面皮が仄かに微笑んでいることに気付き、さらに驚く。不器用な笑顔に、不思議と目を引き寄せられる。


「私はあまり言葉が上手くありません。だから、見ていてください」


 眼鏡の奥に潜められた瞳が銀色に輝く。眩い光に目を細めれば、戦場へ歩みを再開した和心の姿が目に入る。


 自身が持つ力が特殊なものだと気付いたのは、龍王と言葉を交わす少し前。常人を超えた力を持っていると知っても、驕らないのが和心という人間だ。代わりに、自らに制限をかけた。それを今、一時的だが開放する。


「嵐さんは、泥人形をお願いします」


 和心の霊力が大きく揺らぎ、筆の形を作る。

 瞳が銀色に光っていることを除けば、いつも通りの和心はただ真っ直ぐにチソホを見つめる。


「チソホさん、私は今から貴方を殺します」


 静かに筆を持ち上げ、ゆっくりと文字を書き込んでいく。

 チソホに終焉を齎す、たった一文を。


実は今日、誕生日なんですよね

感想くれてもいいのよ チラッチラッ

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